富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(35)

2012年12月28日 07時46分14秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(35)外伝善得寺考 関係諸寺(4)福応寺

福応寺は善得寺の前身天寧庵が、名を変えて福王寺として勢子の
地に開創より、此の地に福応寺として現在に続くまで、永い年月
を経ている。此の間火災等により履歴・寺物等を失い、履歴に不
明の点が多い。昔話(14)で善得寺の経過を述べ、福応寺まで
及んだが、断絶の期間は私見を加えざるを得なかった。

「応安3年、庄内瀬子の西において叢寺を構え、福王と号し、延
請して開山祖と称す」有名な雪斎の供養の香語の一節である。場
所は瀬子の西と言はれているが、瀬古の西として現在の福応寺の
場所が言はれて来たが、写真の如く大きな崖が寺の東に在り、大
きな土木工事(善得寺城築城と私見)の後でなければ、水利等より
丘の上では寺は立得なかったではなろうか。場所としては水の上
(字名)の東部の八軒村(古い字名)付近と私見する。此の北西
の小松(字名)に伝承される和田砦に対応が考えられる。



寺産として横尾郷(今泉村全体と考えられる)が与えられているが、
上杉の勢力の西進の布石としても大に過ぎ、この時点で寺市場への
拡大移転が考えられていたと思はれる。
福王寺より善得寺に変わった時に、建長寺派より妙心寺派に変わっ
たと思はれる。

今川範政が禅秀の乱の功により、下方の庄を領地し、大壇越は上杉
より今川に変わり、善得寺は今川の官寺として栄えた。
氏親の世には寺産に河原田を加え、倍加した。
義元の世に北条との間に河東の乱を繰り返し、東に備えて、善得寺
城を整備したと思はれる。北廓を造り、鬼門封じとして、善得寺の
塔頭福応院を開創したと考える。信長の構想の兵農分離は義元にも
通じ、武家屋敷の設置、武家屋敷を含む惣構も此の時進められたと
考える。
善得寺の衰微につれ、福王院も衰微したと思はれる。
徳川の世となり、正徳2年(1712)に本寺清見寺の芝岸和尚の
法脈の古岸和尚の入山を得て中興された。開祖大勲策禅師の位牌が
伝えられている。本尊は地蔵菩薩。
江戸期には末寺に円成院・潜龍院・庚申庵が在ったが何れも廃寺と
なった。
明治期には吉原浄応寺(正徳2年開山、清見寺末)を合併した。
本堂の「半僧坊大権現」の大書の扁額は山岡鉄州の揮毫である。



中興後、寛保3年(1734)の火災で、堂宇・資料全て失はれ、寺
伝は不詳が多い。
寺の南を通る今泉往還よりの山門の一景である。



寺の南に今泉往還が通る。此の道は家康が善得寺城を廃城した後、
東泉院依り開設した瀬古の善得寺御殿への道で今泉往還と称し、
善得寺城の梯郭に従っての曲折が在り、開設以降大正まで根方街
道としてあった様である。道の突き当たりは、善得寺城の北の大
空壕と考えられ、道の左手の手前の崖上の地は幕末に家茂が東泉
院に宿した時の御退場(避難場所)の場として古図に図示されて
いる。
今泉往還より下の窪地へ下りる道は意楽道と呼ばれている。この
場所に意楽寺(法源寺の末寺、廃寺)が在った。



福応寺は茶の禅寺らしく、毎年4月第2日曜日には如嶽大祭とい
ふお祭りが在り、茶道に親しみつつ檀家との親睦が図られている。
山号の名を冠している。
又境内には昭和49年に建てられた茶荃塚が在る。福応寺第17
世福田政宗和尚が、茶道普及を目的に昭和22年に各流統合の茶
の同好会「和光会」を創立、毎年の会を続けた。会の30周年記
念に第18世福田泰亮和尚が急須塚と共に建てられた。



政宗和尚は俳句にも通じられ、俳号を「凡石」と号され御寺を借
りての句会も行われた。句会には福応寺総代だった小林(故)、
私更には「今村一夜」「染谷十蒙」「波多野瓢也」等の方々が参
じての、終戦直後の思い出である。


























































富士市今泉の昔話(34)

2012年12月21日 15時10分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(34)外伝 善得寺考 諸寺(3)法雲寺

善得寺は徳川の世となり、善徳寺と呼称され、昔の延寿堂の地
に檀家寺として続いていたが、幕末の無住のとき明治となり、
廃仏毀釈の嵐の中に廃寺となった。善徳寺の事績・遺物等は同
宗同派の法雲寺に吸収された。法雲寺には開山の位牌・過去帳
等が残され、万霊塔に数の墓石が組み込まれている。子供の折、
善徳寺跡の延寿堂道に卵塔数基と板碑のみ記憶がない為、墓石
の数は分散したと思はれ、行方探求を課題と考えたい。
吸収合併には呼坂に在った武田所縁の慈照寺も明治初頭に、法
雲寺に行はれた。(既記)

法雲寺の由緒を述べて見たい。
法雲寺は文和2年(1353)建長寺僧用堂西堂和尚により開
山された。清泉噴涌し岩石峨々たるを見て精舎を創建と言はれ
ている。開基は明らかでないが、この時期政情安定せず領主上
杉憲顯の努力が在り、近くに善徳寺の前身天寧寺を開創してい
る為、法雲寺の開創にも関係していたのではないだろうか。
上杉の威勢の西進の布石と思はれる。
今川範政は永享4年(1432)に、外祖母の清泉院殿乾室
浄貞大禅尼の供養の為11石1斗の地を寺に寄進している。範政
は応永24年(1417)に禅秀の乱の平定の功により下方の庄
を与えられており、此の寄進も統治の布石と考えられる。然し
この間数十年の無住の時が在ったと思はれる。戦乱による荒
廃・無住に違いない。
天文の頃は善得寺の寺外の塔頭かと思はれ、名が在る。

歴代先師を禅寺誌より転記して見る。
開創   用堂西堂   文和2年 1353
2世   不詳
     唐山
4世   実鑑祖欽   寛文3年  1663
再興開山 龍岳周信   寛文6年  1666
   始め建長寺に属したが、寛文元年(1661)清見寺5
   世大梁宗欣の法嗣龍岳周信
   が再興妙心寺派となった。(白隠和尚の年譜より)
2世   雪領宗積   元禄3年  1690
3世   雲龍祖教   元禄5年  1692
4世   古関禅龜   享保15年  1730
5世   荊林慧田   元文5年  1740
   白隠禅師の年譜に次の記が在る。歳は白隠の歳である。
     宝永6年25歳「冬、州の法雲に往きて桂林の法
     柄を扶く」
     宝永7年26歳「春、法雲を辞して」
    桂林は荊林であり、法柄は教化の力の意である。

     宝暦3年(1753)69歳の春。「 「五祖録」
     を今泉の法雲に提唱するや、在会、常住を費さず。」
    五祖録は白隠禅師の法嗣五祖禅師の語録である。
6世   死心慧活   安永5年  1776
7世   森厳宗逸   享和元年
8世   物現宗初   天保8年  1837
9世   雪源恵妙   嘉永2年  1849
10世  祝応文衲   明治18年  1885
11世  宗厳信敏
12世  龍岳徹夫

此の間兼務に下記が在った。
嘉永5年 無住にて福応寺兼務の所病気、妙善寺に兼務依頼。
文久4年 無住にて福応寺隠居愛山和尚の兼務。
平成6年 徳源寺和尚兼務の所、文峰和尚入山により解除。



寺内には昔は岩間より湧く多くの水が在ったが、今は付近
の湧水も集めて山門の後ろに清冽の小川となっている。四
季を問わず緑の金魚藻が靡き美しい。夏の時期には梅花藻の
花が見事である。水は綺麗でバナジュウムを多く含み近在の
人が水を汲みに寄っている。



墓地は本堂の西側に階段状に続き、頂部は善得寺城の武家
屋敷と私見する向小路と為っている。此の崖は十王子神社
の呼坂依り続く、善徳寺城の惣構(私見)の一部であり、
郷蔵部分を経て善得寺城に結ばれている。



寺庭には清水の次郎長の子分「辻の勝五郎」の碑がある。
加藤家は法雲寺の檀家で、辻に住んでいた為「辻の」名を
持ち28人衆の一人に名を連ねている。次郎長が大淵の「次
郎長開墾」の時には率先力を尽くした。檀家としての努力
もよく知られている。
開墾は明治7年より明治17年までの10年間の大事業で
其の経過は次郎長の名の場所の開墾記念碑に詳記されている。



寺庭の西に万霊塔が在る。無縁の方々の塚と共に、明治
に廃寺になった善得寺の塚の幾つかが組み込まれている
との事である。戒名を辿り、何時の日か明らかにしたい。
如意輪観音坐像の塚が多く目につく。



法雲寺の西の道は「川戸道」と言はれ立小路に通じてい
るが、この付近は湧水が多く、水に関しての交渉事が重
なった様である。水に関しては前記しているが、中村三
郎左衛門が今泉郷地への水供給の為「新川」を掘削し、
田宿川の水源を整備した時、法雲寺所縁の地積を協力
した。
善得寺の供養は明治に法雲寺に吸収合併された以後、法
雲寺で供養してきたが、昭和61年8月富士市歴史勉強会の
方々を中心に、善得寺の跡地の整備と式典の準備が行われ、
8月4日の式典の日を迎えた。雨の小止みの中、約20名の
参集を得て法雲寺の青木和尚と福応寺の福田和尚により、
第一回の供養祭が行われた。何百年振りの供養祭に感激、
歓談の内に東京の朝岡氏より土地寄付の意向が在り、感
激を深くした。
富士市は、墓碑群を中心とした一帯を史跡公園化の計画、
昭和62年から3ケ年で完成を目指した。
第二回は、昭和62年3月28日に開山禅師の615年忌
を兼ねて供養祭が盛大に行われた。
史跡公園の完成を得て、第5回以降は今泉地区の行事と
位置ずけられ現在まで会を重ねている。





























































































富士市今泉の昔話(33)

2012年12月15日 08時44分46秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(33)外伝 善得寺考 関係諸寺(2)永明寺

善得寺と永明寺との関係、更には永明寺の由緒・伝承に就いて述べ
る。
永明寺は寺伝によると、天平勝宝8年(756)行基が北の高台に
大冨山金輪院(真言宗)
として開創。文明4年(1472)行之正順和尚が改修改号した。
此の時鎌倉古道は寺の南を通り、寺の東の岩山を北に迂回し竹採塚
方面に東行していたようである。下って永正2年(1504)今川
の重臣斎藤加賀守が、寺を高台の下に移し大門を写真の地に置き七
堂伽藍を整備した。以降、歴代の領主の庇護を受けて隆昌。盛時は
末寺64寺を数へ、洞慶院派の門頭職、総持寺の輪番地法ばん格等
を経て現在にいたっている。
(中興の記はインターネットの記による)



寺は水に恵まれ「富士乱水の庭」があり、高低差ある裏山に湧水を
利用した池泉回遊式の庭園で、躑躅・皐月を見事に配して東海屈指
の名園である。水の寺とも言はれている。水は付近の製紙にも利用
され、鎧ケ淵の伝承を生み、夏にはホタルの乱舞も見られる。



善得寺が明治に廃寺になる時、吸収合併した法雲寺に伺い何度か
伝はる善得寺の過去帳を拝見した。その詳細は別に記したいが、
中に大安牧仙庵主と書かれた戒名が在り、本尊寄付の注記が在り
此の方の墓を永明寺に発見した。此の方の俗名は蓮池金左衛門と
あり、現在は蓮池家の墓所に設置した。蓮池家は永明寺の檀家で
あり、北条に焼かれた善得寺の在った寺市場の坂の北部に住んで
いたようである。此の地の湧水に「蓮池の水汲み口」の伝承(外
祖父より)が在る。此の墓の方が、永明寺の檀家だったか或いは
善得寺の檀家で、明治の廃寺の折移転かは解らない。此の塚は蓮
池家の墓所の西に、如意輪観音像の墓二基を含む十数基の群の中
に混在していたからである。



斎藤加賀守は永明寺とは由緒に示す如く深い関係が在る。此の
領地と考えられる斎藤
(地名)の中島(地名)の湧水場より、義元は善得寺・善得寺
城へ揚げ水(山城などの高場所に遠方より用水すること)して
おり、此の工事を含めて加賀守が関係しているに違いない。
揚げ水は此の地方には根方の大中寺が知られているが、諏訪の
上原城に現在も水が滔々と流れている設備が在る。上原城は武
田が諏訪を統治の城であるが、城の北に永明寺山が在る。揚げ
水は此の永明寺山の湧水を導き、山と城の縁を切る堀切(大空
壕)の底を木管で潜り城内に水を流している。サイホンの原理
であり、善得寺も同じ法を使い面白い。
城の南に頼岳寺が在る。頼岳寺は昔は永明寺と言い、原田の永
明寺とは所縁で結ばれている。永明寺の開山の行之和尚は諏訪
永明寺の所縁の僧である。
 善得寺―揚げ水―上原城―揚げ水―永明寺山―諏訪永明寺―
行之和尚―原田永明寺

永明寺の伝承

「仏の消える山門」
端正な薬医門であるが、葬儀の列が此の門を潜ると遺骸が消え、
引き返すと元へ戻るとの事にて、葬儀の列は裏門を採るように
為ったとの事である。



「いぼ取り不動」
昔より念じつつこの池の水を掛けると、イボが取れたと言われ
ている。此処は元永明寺の鎮守堂だったが、池に不動明王が祭
られており、イボ取り不動と言われている。



「鎧ガ淵」
此の地名は各地に在りその幾つかを記して見る。
東京日本橋兜町
 源頼義が東北遠征に行くとき、此の地で暴風雨に遭い、此の
淵に鎧を沈めて龍神に祈った所、風雨が止んで川を渡れたた
め、此の地を鎧ガ淵と呼ぶようになった。
愛知県吉良町古戦場
 家康が此の地で吉良の伏兵に遭い大敗した。此の為に淵の底
に沈んだ鎧や武具がしばしば引き上げられた為、此処を鎧ガ
淵古戦場と言はれるようになった。
長泉町黄瀬川
 武田が此の地を侵攻の時、北条の落ち武者が隠れていたが、
鎧・兜を淵に投げ込み、投身と見せて武田を晦まし逃げ得
た。此の淵を鎧ガ淵と呼ぶようになった。

永明寺の鎧ガ淵にも色々の伝承が在る。
頼朝が此の地で休憩し、鎧を木に掛け体を洗った。その為
に此の淵を鎧ガ淵と呼ぶようになった。

 此の淵は大蛇が住む草木の茂る暗い場所だったが、魚は多
くいた。魚釣りの好きな治兵衛が釣りを楽しんでいた時、
枝に小さな蛇を見付け、竿でつつくと淵に落ちて見る見る
大きくなり治兵衛に襲ってきました。驚いて漸く逃げた治
兵衛は友達にもうここでは魚は釣らないと言ったとの事で
す。

天正18年家康に従った神尾四郎は北条軍と戦い、同姓7
人戦死したが四郎は此の淵に鎧を投げ、永明寺で自刃した。
これより此処を鎧ガ淵と言ふ。

寺の小僧が淵で枝を打っていた時、誤って山刀を淵に落と
した。帰って師に報告したところ探して来いと言われ、渕
に入り探したが山刀は見えず、機織る美しき婦人がおり,
事情を知り刀を返してくれた。此の間3日と思っていたが
3年経っていたとの事である。

元歴2年、義経は平家を滅ぼした後、平家の虜将を連れて
鎌倉古道を下り、此の淵に休んだ。頼朝の不興を考えた後、
鎧を脱いで此の淵に沈め、平服にての対面を願い鎌倉を目
指した.然しながら鎌倉に入れず有名の腰越状に嘆いだ。
悲嘆の帰途此処で休んだが鎧は見えず、鎧ガ淵の名のみを
残した。(外祖父よりの伝承)



夏になるとこの水辺は蛍が乱舞する。
























































































富士市今泉の昔話(32)

2012年12月07日 20時42分48秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(32)外伝 善得寺考 関係諸寺(1)清岩寺

善得寺を考えてゆく間に、関係を持ついくつかの寺の事を記すこと
も有効と考えられた為整理して見たい。
清岩寺は武田に焼き打ちされた善得寺の寺域内の開基であり、善得
寺の無住の折には住持の兼務もあったようである。更に土地の故事
も色々と伝承されている。
清岩寺の開基の場所は、善得寺の東北即ち鬼門の場所であり、善得
寺では鬼門封じとして開山堂天寧庵の場所の跡地と考えられる。
清岩寺は天正8年(1580)開基中村吉久 開山意順和尚により
田宿より現在の場所に移転された。
今清岩寺の寺域内に400年を超すと言われる大栢と八幡・稲荷の
祠が在る。これは浄土宗と言ふよりも禅宗の関係が考えられ、清岩
寺の開基の前の武田に焼かれた善得寺の名残と思はれる。公案「庭
前の栢樹子」に依る栢に違いない。義元・信玄などの戦国武将が仰
いた栢と思うと興味深い。
栢を含む清岩寺の一景である。



清岩寺の三世に厭蓮社欣誉上人龍務大和尚と言はれる方がおられる。
此の方は、三島の林光寺より入山されており、林光寺は武田勝頼の
弟信景の開山で、現在機山会(信玄公奉讃会)の中心になっている。
又法雲寺に残る善得寺の過去帳の中に厭蓮社欣誉上人白音和尚があり、
浄土宗と明記され、同時代であれば同一の方と思はれ、更に善得寺
の無住の折であれば兼務が考えられ、過去帳に名の在ることは結び
つきが考えられる。この様な関係より、明治の廃寺の折に、善得寺の
庚申堂地や窯場の地が清岩寺に譲られたと考える。
庚申堂地は東谷和尚が雪斎の年忌を行い、今に残る香語を献じた場所
と推定している。

窯場は善得寺の火葬場と考えられ、丘の上の空地の西部の基壇に在っ
た地蔵大士の碑が清岩寺の山門の前に昭和の初期に移されている。窯
場の火葬場は他場所にもあり、地蔵大士の碑も火葬場に建てられると
の事である。裏の窪みは地蔵大士の梵字の略字とみられ、掘られたか
或いは自然の物か興味が深い。米とぎ石との伝承もある。



善得寺の焼き打ち後の空き地 横尾郷は、信玄より娘の化粧料として
娘婿の穴山梅雪に贈られた。梅雪は領地後、南部の郷士を此の地に入
植させ、清岩寺の部分には臼井氏・竹原氏が居住した。入植は15
70年頃と思はれるが、1573年の信玄の死後武田家の衰退につれ、
帰郷が考えられるときに清岩寺の開山が一致したと思はれる。この時
期に善得寺の再興を願う東谷和尚らの請願にも拘らず1616年まで
再興が認められなかった事と対照される。中村氏他の檀家の方々の大
きな努力もあったと考える。
山門の南の名号碑に開基の事が彫られている。



寺内に稲荷・八幡が残されているが、武田の領地時か諏訪八幡・笠森
稲荷が勧請されている。堂内に弁財天が珍しい。これも禅宗寺院の名
残と考える。



名号碑に彫られているが、1633年駿河大納言の切腹後家臣は此の
地を追放されたが、有泉大学の屋敷は庫裏に、稲葉但馬守(大納言の
家来に稲葉はお福の二男の正利しか居らず但馬守の名は探せない為
なお検討必要)の屋敷門は山門にと寺の整備に移設されている。
庫裏は既に失はれているが、山門はなお残り昔を偲ばせている。



駿河大納言は瀬古の地に御茶屋御殿を置き、其の威勢により種々の
配慮がされたようであり、四方の口には大木戸が置かれたと記され
ているが、現在は清岩寺前の東口と坂本の坂下の南口の2ケ所だけ
しか確認できない。大木戸は冠木門で坂の石畳みと共に明治の時代
まであったようである。坂本の坂、寺市場の坂、清岩寺坂(大正時
代より呼子坂に)は共に石畳みが敷かれていたと伝承されている。
明治に大木戸を撤去する時、その基礎石の2個を清岩寺の石垣に組
み込んだと伝承されているが、1個だけしか確認されない。又石畳
の石の一部は清岩寺の参道の飛び石に使用されていたが、今は外さ
れている。



寺内に「孝子 中村五郎衛門の墓」がある。元禄の頃、綱吉により
全国に稀の孝養と賞されて著名であり、富士市新橋に大きな板碑の
顕彰碑が在る。
開基中村吉久の墓、筆子塚がある。

外祖父より清岩寺の大猫の伝承を聞ている。
中興の頃、寺に代を重ねた三毛の大猫がいたが、満月の頃になると
夜毎朝までいなくなり、昼間は寝てばかりいた。住職が不思議に思
いある夜小僧に後をつけさせた。大猫は悠々と夜道を山へ向かった。
山裾の広場に就くとそこには近在の猫が多く集まっていて、大猫を
中心にして踊りを始めた。入れ替わり、立ち替わり踊りを重ねて時
を忘れての様であった。
小僧は驚いて寺に帰り住職に報じた。住職は他言せず、大事に飼い
年月を重ねた。住職が亡くなると大猫も見えなくなった。共に寺を
守っているに違いないと言われた。
大猫の踊りの場所は今に残り、来宮神社の北に「踊り場」の地名が
残っている。


























































富士市今泉の昔話(31)

2012年12月01日 14時18分45秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(31)今泉小学校の思い出(4)

思い出の一つに「チビ」がある。背の低かったのは大き
な負い目だった。列を造る時は一
番前、整列する時は一番前で、3年生頃漸くその席を人
に譲った思い出であった。
唱歌が下手で1年生の頃は何時も「丙」だった。この頃
は学課ごとに甲乙丙等の成績が成
績表に記されており、これだけは努力の及ばぬ家系と諦
めていた思い出が在る。
その頃の記録が在った。




1年生の頃の記録を整理して見る。チビながらに元気
だったころを思い出す。野山を駆
回り、蝗や沢蟹を料理してもらい食べ、時には蜂の子
や薪の虫(カミキリムシの幼虫)を焼いて食べた。虎杖、
酸い葉、つばな、等も遊びの間の楽しみだった。

竹馬を造り、遊び、高さを競い、時には石塀に腰かけ
2m余の高さを誇ったこともあった。
独楽回し、めんこ、石蹴り、かくれんぼ、押しくらまん
じゅう等々テレビの無い時代の良い思い出である。

野山の自然が良い友であった幼年時代である。

1年生の時は、104cmで列の一番前だったが、中学
4年の時は154cmで前より10番目となり、徴兵検
査で漸く160cmとなり人並みになった。面白い。
中学に合格し、自転車通学となったが、大人の自転車で
は普通のサドルでは足がペタルに届かない悲哀を味はっ
た。競走用の特殊のサドルを探してもらい何とか通学し
たが苦行だった。

 身長     体重

1年    104cm  15・8kg
 平均   113cm  19・7kg
2年 108cm  18・1kg
 平均   117・9cm21・07kg
6年    126cm   27・0kg
 平均   135cm   31・2kg
中1年   131cm   30・7kg
 平均   140cm   33・8kg
中4年   154cm   47・0kg



一暇を得て琵琶湖湖畔の坂本の冬紅葉を探勝した。
竹林院の庭である。