富士市今泉の昔話(35)外伝善得寺考 関係諸寺(4)福応寺
福応寺は善得寺の前身天寧庵が、名を変えて福王寺として勢子の
地に開創より、此の地に福応寺として現在に続くまで、永い年月
を経ている。此の間火災等により履歴・寺物等を失い、履歴に不
明の点が多い。昔話(14)で善得寺の経過を述べ、福応寺まで
及んだが、断絶の期間は私見を加えざるを得なかった。
「応安3年、庄内瀬子の西において叢寺を構え、福王と号し、延
請して開山祖と称す」有名な雪斎の供養の香語の一節である。場
所は瀬子の西と言はれているが、瀬古の西として現在の福応寺の
場所が言はれて来たが、写真の如く大きな崖が寺の東に在り、大
きな土木工事(善得寺城築城と私見)の後でなければ、水利等より
丘の上では寺は立得なかったではなろうか。場所としては水の上
(字名)の東部の八軒村(古い字名)付近と私見する。此の北西
の小松(字名)に伝承される和田砦に対応が考えられる。
寺産として横尾郷(今泉村全体と考えられる)が与えられているが、
上杉の勢力の西進の布石としても大に過ぎ、この時点で寺市場への
拡大移転が考えられていたと思はれる。
福王寺より善得寺に変わった時に、建長寺派より妙心寺派に変わっ
たと思はれる。
今川範政が禅秀の乱の功により、下方の庄を領地し、大壇越は上杉
より今川に変わり、善得寺は今川の官寺として栄えた。
氏親の世には寺産に河原田を加え、倍加した。
義元の世に北条との間に河東の乱を繰り返し、東に備えて、善得寺
城を整備したと思はれる。北廓を造り、鬼門封じとして、善得寺の
塔頭福応院を開創したと考える。信長の構想の兵農分離は義元にも
通じ、武家屋敷の設置、武家屋敷を含む惣構も此の時進められたと
考える。
善得寺の衰微につれ、福王院も衰微したと思はれる。
徳川の世となり、正徳2年(1712)に本寺清見寺の芝岸和尚の
法脈の古岸和尚の入山を得て中興された。開祖大勲策禅師の位牌が
伝えられている。本尊は地蔵菩薩。
江戸期には末寺に円成院・潜龍院・庚申庵が在ったが何れも廃寺と
なった。
明治期には吉原浄応寺(正徳2年開山、清見寺末)を合併した。
本堂の「半僧坊大権現」の大書の扁額は山岡鉄州の揮毫である。
中興後、寛保3年(1734)の火災で、堂宇・資料全て失はれ、寺
伝は不詳が多い。
寺の南を通る今泉往還よりの山門の一景である。
寺の南に今泉往還が通る。此の道は家康が善得寺城を廃城した後、
東泉院依り開設した瀬古の善得寺御殿への道で今泉往還と称し、
善得寺城の梯郭に従っての曲折が在り、開設以降大正まで根方街
道としてあった様である。道の突き当たりは、善得寺城の北の大
空壕と考えられ、道の左手の手前の崖上の地は幕末に家茂が東泉
院に宿した時の御退場(避難場所)の場として古図に図示されて
いる。
今泉往還より下の窪地へ下りる道は意楽道と呼ばれている。この
場所に意楽寺(法源寺の末寺、廃寺)が在った。
福応寺は茶の禅寺らしく、毎年4月第2日曜日には如嶽大祭とい
ふお祭りが在り、茶道に親しみつつ檀家との親睦が図られている。
山号の名を冠している。
又境内には昭和49年に建てられた茶荃塚が在る。福応寺第17
世福田政宗和尚が、茶道普及を目的に昭和22年に各流統合の茶
の同好会「和光会」を創立、毎年の会を続けた。会の30周年記
念に第18世福田泰亮和尚が急須塚と共に建てられた。
政宗和尚は俳句にも通じられ、俳号を「凡石」と号され御寺を借
りての句会も行われた。句会には福応寺総代だった小林(故)、
私更には「今村一夜」「染谷十蒙」「波多野瓢也」等の方々が参
じての、終戦直後の思い出である。
福応寺は善得寺の前身天寧庵が、名を変えて福王寺として勢子の
地に開創より、此の地に福応寺として現在に続くまで、永い年月
を経ている。此の間火災等により履歴・寺物等を失い、履歴に不
明の点が多い。昔話(14)で善得寺の経過を述べ、福応寺まで
及んだが、断絶の期間は私見を加えざるを得なかった。
「応安3年、庄内瀬子の西において叢寺を構え、福王と号し、延
請して開山祖と称す」有名な雪斎の供養の香語の一節である。場
所は瀬子の西と言はれているが、瀬古の西として現在の福応寺の
場所が言はれて来たが、写真の如く大きな崖が寺の東に在り、大
きな土木工事(善得寺城築城と私見)の後でなければ、水利等より
丘の上では寺は立得なかったではなろうか。場所としては水の上
(字名)の東部の八軒村(古い字名)付近と私見する。此の北西
の小松(字名)に伝承される和田砦に対応が考えられる。
寺産として横尾郷(今泉村全体と考えられる)が与えられているが、
上杉の勢力の西進の布石としても大に過ぎ、この時点で寺市場への
拡大移転が考えられていたと思はれる。
福王寺より善得寺に変わった時に、建長寺派より妙心寺派に変わっ
たと思はれる。
今川範政が禅秀の乱の功により、下方の庄を領地し、大壇越は上杉
より今川に変わり、善得寺は今川の官寺として栄えた。
氏親の世には寺産に河原田を加え、倍加した。
義元の世に北条との間に河東の乱を繰り返し、東に備えて、善得寺
城を整備したと思はれる。北廓を造り、鬼門封じとして、善得寺の
塔頭福応院を開創したと考える。信長の構想の兵農分離は義元にも
通じ、武家屋敷の設置、武家屋敷を含む惣構も此の時進められたと
考える。
善得寺の衰微につれ、福王院も衰微したと思はれる。
徳川の世となり、正徳2年(1712)に本寺清見寺の芝岸和尚の
法脈の古岸和尚の入山を得て中興された。開祖大勲策禅師の位牌が
伝えられている。本尊は地蔵菩薩。
江戸期には末寺に円成院・潜龍院・庚申庵が在ったが何れも廃寺と
なった。
明治期には吉原浄応寺(正徳2年開山、清見寺末)を合併した。
本堂の「半僧坊大権現」の大書の扁額は山岡鉄州の揮毫である。
中興後、寛保3年(1734)の火災で、堂宇・資料全て失はれ、寺
伝は不詳が多い。
寺の南を通る今泉往還よりの山門の一景である。
寺の南に今泉往還が通る。此の道は家康が善得寺城を廃城した後、
東泉院依り開設した瀬古の善得寺御殿への道で今泉往還と称し、
善得寺城の梯郭に従っての曲折が在り、開設以降大正まで根方街
道としてあった様である。道の突き当たりは、善得寺城の北の大
空壕と考えられ、道の左手の手前の崖上の地は幕末に家茂が東泉
院に宿した時の御退場(避難場所)の場として古図に図示されて
いる。
今泉往還より下の窪地へ下りる道は意楽道と呼ばれている。この
場所に意楽寺(法源寺の末寺、廃寺)が在った。
福応寺は茶の禅寺らしく、毎年4月第2日曜日には如嶽大祭とい
ふお祭りが在り、茶道に親しみつつ檀家との親睦が図られている。
山号の名を冠している。
又境内には昭和49年に建てられた茶荃塚が在る。福応寺第17
世福田政宗和尚が、茶道普及を目的に昭和22年に各流統合の茶
の同好会「和光会」を創立、毎年の会を続けた。会の30周年記
念に第18世福田泰亮和尚が急須塚と共に建てられた。
政宗和尚は俳句にも通じられ、俳号を「凡石」と号され御寺を借
りての句会も行われた。句会には福応寺総代だった小林(故)、
私更には「今村一夜」「染谷十蒙」「波多野瓢也」等の方々が参
じての、終戦直後の思い出である。