富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(60)

2013年06月29日 08時13分47秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(60)外伝 善徳寺考 霊場巡り(5)

昭和58年3月11日
清水えの所用に、清水方面の霊場巡りを加えて妹を霊場巡りに誘った。

瑞雲寺
 駿豆横道33霊場第24番。
 場所 静岡市興津清見寺町
 本尊 如意輪観音
 宗派 臨済宗
 由緒 清見寺の西隣、駿河湾を見下ろす景勝地に建つ。
    寺伝によると、延歴23年(804)伝教大師が東遊の際、
    此の地に錫を留め、37日間一刀三礼して観音を彫刻した
    と言ふ。室町初期、足利尊氏が参籠して戦勝祈願し、願が
    果たされたので瑞雲院として堂宇を再建した。天正11年
    (1583)清見寺和尚により中興され、瑞雲院と改名し、
    願腰山と号した。明治期の巡礼絵馬が多く残る。
    寺内には名水「性海庵の湧水 」がある。

 三度目の順拝である今日は、順拝と共に首記されている清見寺和尚
 について更に御教示願えればの願いもあった。
 清見寺和尚とは、善得寺の9世である東谷和尚であり、その所縁を
 述べて見たい。
 永禄11年(1568)、武田信玄の第1次の駿河侵攻が在り、清 
 見寺は戦禍を受けたが、この折東谷和尚は住職をしていた。寺を焼
 かれて、東谷和尚は信玄の招きにより、高遠の建福寺に住持し中興
 した。永禄12年(1569)信玄の駿河第2次侵攻が在り、善
 得寺が灰燼に帰した。東谷和尚の詳細は別記したいが、建福寺15
 年の後、善得寺跡の荒廃を嘆き、再興を期して善得寺の跡地に立っ
 た。天正11年(1583)の事である。
 この年に、瑞雲寺を中興した事になる。外に兼住の寺もあったとの
 事であるが尚調べたい。天正18年(1590)、善得寺再興を願
 い檀家を加え、資材を集め続けたが、秀吉の小田原征伐に遭い資材
 を徴発されてしまった。善得寺再興の望みを失った東谷和尚は失意
 の内に、瑞雲寺に住持し、文禄3年(1594)遷化された。






 鉄舟寺
 駿豆横道33霊場第25番
 場所 静岡市清水村松
 本尊 千手観音
 宗派 臨済宗
 由緒 もと久能寺(天台宗)といい、久能山東照宮の地に在った。
    推古天皇の時久能忠仁に依って開創され、行基菩薩の中興と
    伝えられている。本尊は「安部7観音」の一つ。駿河を代表
    する名刹であり、鎌倉時代には300余の堂塔が林立し、盛
    力を誇っていた。しかし、戦国時代に武田信玄・徳川家康が
    此処に城を築いたため、寺現在地に移る。江戸時代には駿府
    浅間神社の社僧を勤め、観音霊場として栄えたが、明治の廃
    仏毀釈に依り廃寺となる。しかし、山岡鉄舟の尽力により明
    治43年に再興され、鉄舟寺と改められた。
    観音堂は、急坂を登った丘陵に建ち、清水港・三保を一望に
    見下ろす。
    旧幕臣で明治以降に静岡県権大参事も務めた山岡鉄舟が、臨
    斉寺から今川貞山を招いて復興した。その為鉄舟の書跡の遺
    品も多い。
    国宝として法華経(久能寺経)19巻がある。

    市指定文化財として「薄墨の笛」がある。これは源義経が牛
    若丸と呼ばれて居た頃から愛用していたとされる龍笛。義経
    より鉄舟寺の前身である久能寺に寄進された。通常公開され
    ていないが、平成の補修の後、義経供養や笛保全の為鉄舟寺
    等で演奏会が開催される。  

三度目の順拝の折は寺が休業との事で入れず、残念だった。観音堂を
遙拝し由緒を拝見寺域を歩した。寺域に菩提樹が在り、北条寺では花
盛りで芳香を放っていたが、此処では既に実になっていた。菩提樹の
花は茶葉と同じに使え、我が家では茶葉と同じに使い、芳香・色・味
を楽しんだ。
鉄舟は、次郎長の名の残る大淵の開墾や天照教に関係が在り、我が家に
残る為書きの書や6双の雄渾の書の屏風を大事にしている。鉄舟が千葉
道場の復興を念じて、海舟等と共に趣意書・奉加帳を此の地の名士に配
り、基金を集め、其の折に海舟・鉄舟・泥舟の書が残されたようである。
我が家の曽祖父が其の世話役をしたらしく、名文の趣意書・奉加帳の写
しが残されていた為、富士市の中央図書館に寄贈した。





平沢寺
 駿豆横道33霊場第26番
 場所 静岡市平沢
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 天正10年に書かれた縁起に依ると、奈良時代和銅年間(70
8~715)行基菩薩が白馬に乗って見え、5尺余の地蔵菩薩像
(本尊)を刻み、堂宇を建てたのが始まりと言ふ。次いで養老2
年(718)、後の聖武天皇の病気平癒の祈願の為、再度駿河
を訪れ、直径2,4mの大クスを伐り、7体の観音像を刻み祈
願した所平癒したと言ふ。1体を平沢寺に安置し、残りを安部
郡の6寺に1体づつ安置した。これが「安部7観音」の霊場と
言われている。残念ながら鎌倉時代に焼失し、現在の像は後年
の作。今川氏・武田氏・徳川氏が厚く庇護したが、明治以後無
住の時代が長く続いた。観音堂は急な石段を登った上に建つ。
駿河一国の巡礼絵馬が多く残されている。

50年前に母と順拝の折には、広い空き地に続く丘の上に在ったお堂を
配した覚えが在る。其の折に節分には必ず落語家の「柳や小さん」が
来て豆撒きをすると聞いた。新聞に剣道着姿の「小さん」師匠の豆撒き
の写真が在った。今はどうなっているのか聞き得なかった。
三度目の順拝の日は、観音堂の前の高い石段の下で御堂を拝した時に、
ホトトギスを聞き深山の趣に昼飯を楽しんだ。







庭に李が実り、槿が賑やかさを増してきた。














































富士市今泉の昔話(59)

2013年06月22日 08時26分58秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(59)外伝 善徳寺考 霊場巡り(4)

駿豆横道33所霊場巡り(4)
昭和58年1月20日(2)
伊豆方面6寺の順拝に妹は長女を伴い、賑やかさを加えての旅と為っ
たが、考えると30年前の事。此の長女がパソコンを駆使して、ブ
ログを妹に見せてくれている様子、有り難く年月を感ずる。

医源寺(重寺観音堂)
 駿豆横道霊場第7番
 場所 沼津市重寺
 本尊 千手観音(重寺観音堂)
    東方薬師瑠璃光如来(医源寺)
 宗派 臨済宗
 由緒 大悲庵(廃寺)観音堂は国清寺の末寺であった。戦国時代よ
    り重寺の秋山氏が中心と為り、民により護持されて来た。
    現在は医源寺の一部と為り、本尊千手観音の納経印は医源寺
    で戴ける。堂内には明治以後の絵馬が奉納され、域内には横
    道巡礼供養塔が多く残されている。

    医源寺の本尊の薬師如来には次のような伝承が在る。
    明応7年8月25日未刻、激浪により、沿海の里民に多くの
    死傷者を出しました。又江梨村の船大将鈴木繁伴(航浦院開
    基)5世繁宗の息女が病を患いました。そこで本院の本尊薬
    師如来に誓って、平快を祈ると不思議の事に、17日間で完
    全に治癒しました。霊験に感激して、彫工に7体の薬師尊像
    を作成させ、7寺に奉安し報謝しました。
    当寺の本尊はその一つです。

医源寺はの高台にあり、入り口の石段の初めに海抜10mの表示
が在り、寺の本堂の裏手に20mの表示が在り、観音堂は更に上であ
り、老脚では届かなかった。途中よりの海の眺めは良かった。医源寺
に参拝し、此処より遙拝させて戴いた。 




蓮光寺
 駿豆横道霊場第12番
 場所 沼津市三芳町
 本尊 千手観音
 宗派 臨済宗妙心寺派
 由緒 慶長の初め(1250)北条相模守時頼入道巡国の折、此処
「牧の御所」に暫く居して、禅宗の一師を住持せしめ禅定三昧
を修し、大岡の院と称しました。
    その後今川義元公や武田勝頼公も住されましたが、天正9年
兵火に掛かり、殿堂を焼失。後院跡を請うて地を市辺に移し、
安養山と号し、名を蓮光寺と改めた。
    天正11年、牧の三枚橋の城主松平周防守忠次公が当山無住
なる事を見て、遠州奥山方広寺徳ゆう禅師を招請し、師担の
因縁を結んで、開山し始祖とされました。
    その後兵火に遭い堂宇を焼失、地を旧跡に移し、正徳4年・
安政5年・昭和28年・昭和40年の再建を経て現在に至っ
ています。

御本尊は千手観音ですが古い伝承があります。凡そ300年の昔、小
諏訪に住む信仰厚き高島と言ふ漁師が漁業中に、網に御本尊がかかり
ました。此の時不思議な霊示を感じ、是は当時徳望厚き黙外禅師の住
持する蓮光寺に安置すべきものとして奉侍して蓮光寺に、向かった。
黙外禅師も又夢に霊示を受け、衆僧を従え小諏訪に向かふ途中、高島
氏に遭遇、観音の威神力に相共に歓喜して奉遷、当山御本尊として安
置した。霊験あらたかにして久しく「開かずの御本尊」として秘仏と
され、過去数次の災害にも不思議に難をまぬかれている。

私見であるが、城主による開山の時期が、三枚橋城の築城の時期と合
致するのは、城の鎮護を願っての開山とも思はれる。三枚橋城は信玄
が元亀元年(1570)に北条の戸倉城に対抗して、山本勘助の縄張
りで築城され、慶長19年(1614)廃城されている。

母と又妹たちと更に三度目の米寿の順拝を大黒様と話し、御本尊拝礼
等御親切に御案内戴けた。花の数々、写真の様なオブジェ、よく整備
された寺域に心すがしく一時を過ごした。





潮音寺
 駿豆横道霊場第11番
 場所 沼津市大岡黄瀬川
 本尊 龜鶴観音
 宗派 臨済宗妙心寺派
 由緒 龜鶴山観世音菩薩縁起(寺誌より)
    弘仁年中弘法大師伊豆修善寺に御修業の砌、此の地を通りた
    もう処感応ありて、聖観世音菩薩を刻み、一宇を建立安置し
    給う。祈願する者利益を被る事恰も響きの音に応ずるが如く
    有験の霊像なり。
    黄瀬川村に小野善司左エ門為る長者在り、一子無きを悲しみ、
    この聖観世音菩薩に100日祈願し、満願の夜夢のお告げに
    て一子を授けられ、龜鶴姫と名付く。両親の慈しみを一身に
    受け、一を聞けば十を悟る程の聡明な姫に成長せしが、七歳
    の春両親に死別す。姫悲しみの中にも聖観世音菩薩を深く念
    じ、日夜読経、写経にいそしむ。18歳の折、頼朝公富士の
    巻狩りの宴に美人の誉れ高き龜鶴姫を召されたが、一生不犯
    の志固き姫は、再度の召しにも応ぜず、この世を憂きことに
    思い、黄瀬川の水上なる百沢の滝のほとりに、一首の歌を残
    して飛泉に身を沈む。
      み仏の深きめぐみぞ頼みなる
        身は滝きつ瀬のあわと消ゆとも


    此の時建久4年(1193)5月27日なり。姫は駿河三美
    人の一人と言われ、文に優れ、和歌にも秀でる賢女にて龜鶴
    草紙なる物を世に残す。姫他界し子孫絶え、村人小野氏の遺
    材を以て碑を建て、霊佛の廃堂を再建し、是より龜鶴山観音
    寺と号し、末世に至るまで菩提回向の為永く香華を手向くも
    のなり。右観音寺は明治12年に廃寺と為り、仏体の者無き
    により、同村潮音寺へ移転安置し、長くその霊を弔うものな
    り。現存の碑は龜鶴姫500年忌(元禄10年)に再建。観
    音堂(間口2間半奥行き3間)は昭和20年7月16日の戦
    災により焼失。現観音堂は龜鶴姫800年忌(平成3年10
    月)再建。

    潮音寺沿革
    文和元年(1352)夢想国師の徒文紹禅師が開創し、本尊
    聖観世音は恵心僧都の作。建長寺の末寺。その後天心和尚が
    慶長19年2月現在の地に移転、東海山潮音寺と改め、妙心
    寺派と為りました。
    堂宇は安政7年の震災、昭和6年の駿豆震災により大破。修
    理後昭和48年10月本堂を再建現在に至っています。

近くに頼朝と義経との対面石が在り、途次に訪ねた。





庭の合歓の花、のうぜんかつら。




















































富士市今泉の昔話(58)

2013年06月15日 12時37分47秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(58)外伝 善得寺考 霊場巡り(4)

ブログ開始より満一年。今泉の昔話を続けて、今泉の大事である善得
寺・善得寺城更には関係する諸件を外伝として、纏めを進めた。札所
であった善得寺の関係より、現在は霊場巡りとして進めている。霊場
巡りをしばらく続け、終わったら塔頭等の外伝を続けたい。何として
も、米寿の緩歩ながら続けることの意義を感じたい。

駿豆横道33所霊場巡り(3)

昭和57年9月9日(2)
隣光院(華尊院)
 駿豆横道33所霊場第4番
 場所 伊豆の国市4日市
 本尊 聖観音(2体)
 宗派 曹洞宗
 由緒 狩野川の川岸にある華尊院の堂宇は、堤防が切れる度に浸水
    したと言ふ。明治の終わりの頃無住と為り、現在は道を隔て
    た東にある宝永山隣光院が兼住している。
    2体の本尊は秘仏であるが、修理の折の鑑定では200~300年
    前の仏像と言はれている。





北条寺
 駿豆横道33所霊場第8番
 場所 伊豆の国市江間
 本尊 聖観音
 宗派 臨済宗
 由緒 北条寺の観音はインドより中国に渡り、平安初期に智証大師円
    珍が招来した物で、鎌倉に在ったと伝えられる。北条政子によ
    り此処に送られ、始め観音院と名ずけられた。北条時政が深く
    帰依し、北条寺と改め、寺領を寄進したと言ふ。
    運慶作の阿弥陀如来像や北条義時夫妻の墓が在り、北条氏の足
    跡を伝える寺である。
    奉納巡礼絵馬が多数あったので、檀家の方々のご努力により整
    理され、年代別・徳川将軍別に掲示され、江戸時代の様子が良
    く解る。
北条寺の参拝は50年前の母との順拝より5度目に為る。6月の参拝の折に
は、菩提樹の大木が満開の花を見せていた。我が家の菩提樹も花盛りで
あるが、芳香が素晴らしい。先年植えられた蝋梅多数が茂っており、花
の盛りの折を偲ばせた。
 モリアオガエルの卵塊が藤棚に幾つか見られた。






徳楽寺
 駿豆横道33所霊場第9番
 場所 沼津市大平
 本尊 聖観音
 宗派 臨済宗
 由緒 鷲頭山の山裾に建ち、大平戸ケ谷地区の5軒の檀家により観音
    堂が守られており、無住。観音像はセンダンの一木造り。南北
    朝時代に宗良親王が合戦で足を切られた時、身代わりと為り血
    を流したとの事で「足切観音」と呼ばれている。明治期の巡礼
    絵馬が奉納されている。
    天文年間には善得寺の末寺だった。義元が勢力を東に伸ばす時
    に、駿河の東端の此の地に幽洞庵・臥龍庵・得楽寺・鷲桂庵・
    光厳寺・向岳寺の6寺を配した。氏実が信玄に追われた時、大
    平の地に逃れているのは所縁の地故と思はれる。善得寺が善徳
    寺に為ったと同じように、得楽寺が徳楽寺に徳川時代に変わっ
    たと思はれる。

訪れた時、無住の為の周辺の荒れは致し方ないと思はれるが、観音堂
の周辺は草が取れており、付近の方の心使い思はれる。





蓮華寺
 駿豆横道33所霊場第10番
 場所 清水町堂庭
 本尊 聖観音
 宗派 真言宗
 由緒 阿遮梨弘辧明恵律師が開山し、寛喜4年(1232)に住職
    に為る。中興開山は元和3年(1617)に良尊中興し本堂
    一宇を建立する。創立の寺歴は、清水町内寺院の中で最も古
    いと思はれるが、数回の火災で殆ど焼失し、記録を留めてい
    ない。
    元あった聖観音は、行基作と伝えられていたが盗難で失はれ、
    代わりに時の住職の彫った観音像が納められた。
    観音堂の前には、巡礼供養塔・西国33観音像が並ぶ。三島
    の古刹愛染院(廃寺)の寺宝が伝えられている。

50年前の母との順拝の折には、周りに家無く、木立の間の岩間より
滾々と清水が湧き旨かった。現在は周りに家が立ち並び、道に迷う程
である。寺内には樟の大木・珊瑚樹の大木が在り、珊瑚樹は花の盛り
だった。




 
庭には芭蕉が実り、銀香梅が花盛りである。















































富士市今泉の昔話(57)

2013年06月08日 18時10分03秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(57)外伝 善得寺考 霊場巡り(4)

駿豆横道33所霊場巡り(2)
霊場巡り発心してより3月経過、機会が得られたため伊豆南部の霊場
巡りを重ねる事とした。

昭和57年9月9日
清水寺
 駿豆横道第3番。
 場所 田方郡函南間宮
 御本尊 聖観世音
 宗派 高野山真言宗
 由緒 33観世音の石仏が並んでいる。
    法華経普門品の説。33身に基づき、俗信の観音を33種並べた
    もの。高齢や経済、理由から広域巡礼が出来ない者に、一か所
    で参拝出来る事は有り難い存在だったに違いない。
    かりのよにしはし まみやのかんぜおん 
           のちのうまれをたすけたまへや

来光川を蛇橋で渡り函南に、母と共にの昭和36年の順拝の頃は、下田
街道の一本道沿いであったが、妹との順拝の20年経った昭和57年の
頃は、熱函道路が通じ、子供の運転での米寿の順拝の現在は伊豆縦貫道
が通じ更に湾岸環状道路が完成間近の工事中。大きな変化に大師様も驚
いて居られると思うが、変わらぬ順拝の願いは有り難い。





玉洞院
 駿豆横道霊場第5番
 伊豆中道霊場第33番
 場所 伊豆市牧の郷
 御本尊 十一面観世音
 宗派 曹洞宗
 由緒 火災により焼失の為詳細は不明。草創期は密教寺院だったが、
    正親町天皇の天正11年(1583)、景勝院10世香山宗
    清によって改宗し、曹洞宗と為った。現在の建物は昭和50
    年に総改築された物である。
    高台の為眺めはよく、寺内には樹齢100年余の枝垂れ桜が
    見事である。

高台の為石段が続き、母との50年前は難儀した。三度目の今日は石
段の横に「定家かずら」が満開だった。今日は子に付きそはれての米
寿の順拝である。
    定家かずら母助けし坂を助られて





益山寺
 駿豆横道霊場第6番
 場所 伊豆市堀切
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 標高300mの益山の上にある寺で、開創は空海で本尊の観世
    音菩薩は自作と伝えられている。山中の落ち着いた静けさ古い
    地蔵さま・石仏等古刹の趣は素晴らしい。又境内には楓と銀杏
    の大木が聳えている。楓は根回り5,46m、目通り4,05
    m、樹高27m、樹齢900年ほどで県下最大である。瘤が多
    くあり盛り上がる力強さは、風雪に耐えた歴史を見せている。
    大銀杏は市指定であり紅葉は素晴らしく石仏群とよく調和し
    ている。
50年前に母との登拝の折には、車は参道の入り口に捨て、1000m
に近い登りの山道を杖に寄る母と付き添う妻子との順拝だった。古い写
真2枚が思い出である。母も幼稚園に漸くの子供もよく歩いた物である。
30年前の妹との登拝には、山道の途中で車を捨て、年を感じつつの大
楓との対面、静寂の中の順拝だった。妹の大きな蚊の思い出も山上の寂
故かも知れない。





大楓は昔と変わらぬ元気さで、枝葉を寺内に広げていた。怪異の語が適
する瘤瘤の幹が物凄い。





庭には未央柳が賑やかさを見せている。



































富士市今泉の昔話(56)

2013年06月01日 21時49分25秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(56)外伝 善得寺考 霊場巡り(3)

観音信仰の広まりと共に、四国88所霊場巡りを願いつつ果たし得ぬ人々
に、身近に願を果たすために各地に霊場巡りの順路が設定され信仰を集め
た。
各地に願いを遂げた人々による{巡礼供養塔}が建てられている。この一
つである清岩寺の供養塔を祀りつつ、亡母も願を温めていたと思はれる。
滝川の観音様のお祭りに参じた折、御住職より駿豆横道33所霊場巡りの
話を戴き、家族の健康と家業の発展を願っての順拝を願った亡母を思い出
す。会社勤めの時間の制約より、
ボロ車ながら日曜の晴れを拾い、思えば満願に3年を要した妻・子との亡
母えの傅きの旅であった。妹等との再度に順拝の記に亡母を偲びつつ続け
て見たい。
満願の安堵の後に急逝した母に、父が満願を果たしたのにと嘆いていたと
の妹の語が身に沁みる。
(駿豆横道33所順拝)
会社を定年退職して時間の自由が得られる様に為ったため、母を偲びつつ
妹と共に再度の順拝を発心した。都合により、札所の順番にはより得な
かったが、場所を撰んでの旅程を組み、唯ただ健康の内に満願を迎える事
を願った。妹の熱意よりの記録・整理に寄っての此の度の文であり、妹の
日記の中に「父・母・兄よ旅を見守りたまへ」の記が在った。

昭和57(1982)6月27日
長谷寺   千本山長谷寺
 駿豆横道札所第13番、駿河一国札所第31番。
場所  沼津市千本
本尊  十一面観世音菩薩
宗派  時宗
由緒  天長2年(825)淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿豆
    地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建。
特記事項
     毎年4月に開帳の法要が営まれるが、其の折120反の帆布で
     作られた大観音曼荼羅の 開帳が在る。

発心の旅を沼津より始めた。千本松原の松籟に抱かれる如き御堂は厳しく、
母との順拝の折の古さを残し、新しい納経帳に願いを固めた。
御開帳の大観音曼荼羅の話に又の日を願った。

母との古い写真を思いつつ、2景を撮った。





常林寺
 駿豆横道札所第1番
 場所  三島市大中島
 本尊  聖観世音菩薩
 宗派  曹洞宗
 由緒  天正元年(1573)麒庵東麟大和尚の開山。
 特記事項
     現法堂は、昭和5年(1930)の北伊豆地震の直後に再建立
     され、山門と共に木造建築物として貴重である。
     駿豆横道の旅の起点は三島の白滝観音堂。現在の白滝公園の地
     である。明治時代に大中島(現在の広小路町)の常林寺に遷し、
     以後は此処が横道の第1番札所に為っている

三島の思い出に花火が在る。子供の頃三島の花火見物は楽しみであった。
花火は昔は三島水上の名物で、牧水の花火の短歌の碑が大社の境内にある。
 白滝公園の付近では子供の頃夏には蛍の乱舞が在った。思い出である。
 亡母は三島の生まれの為、三島の順拝の折には水上(白滝公園付近)や
広小路の思い出・名所の色々を話してくれた。母の喜びを見るのは自分の
喜びでもあった。





法華寺
 駿豆横道札所第2番
 場所  三島市東本町
 本尊  阿弥陀如来
 宗派  曹洞宗
 特記事項(てら旅美人 より)
  白鳳の時代に、此の地に大興寺と言ふ大寺が在った。此の寺は法相
宗で、智鳳法師を開祖として、五重塔2基を備えた所謂薬師寺式の7堂
伽藍が、現在地から三島大社の前あたりまで立ち並んでいた。ところが、
その後別の所に在った国分尼寺が焼失して再建できないので、此の寺を
代用国分尼寺と定めた。尼寺は別名を法華滅罪の寺とも言はれるので、
寺号が改められ法華寺と呼ばれるようになった。隣地に在った竹林寺が
廃寺に為った時、古い観音像と共に吸収し横道2番の札所と為っている。
 此の寺は元三島明神の別当を勤めた時代も有り、寺内に三島明神の
大山祇命像を奉安している。

墓地内に大きな地蔵尊が在るが、是は頼朝が旗揚げの成功を祈念して、
心経を写経して奉納した時の経塚である。又下にある石は頼朝の腰かけ
石と言はれている。


寺内には札所巡りの記念塔が何基かある。
同じ町内に生まれた母には、近くにある「言いなり地蔵」と共に思い出の
場所だった様である。






庭に大山蓮華、箱根山椒ばら が加わった。