富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(12)

2012年07月29日 09時15分33秒 | 昔話
12吹上周辺のその昔(8)

義元が今川の財力を注いで、吹上・瀬古(今の御殿地区)
に善得寺を再興したが、これには整地工事・伽藍工事
それに用水工事があり、何れも大工事だったと思はれる。
用水工事は水源を斎藤(今川の重臣斎藤加賀守の領?)
に在る中島の湧水地に求め、これより1000m余の
水路・分水地・配水地を経て、善得寺の水利を成した。

此の水利が善得寺が武田に焼かれた後も生きていて、
吹上・御殿・寺市場・一之宮の人々の生活を昭和の
中期まで約400年支えてきたことを思うと由々しい。
今なお水を溢れさせている配水地等は大事な遺跡として、
その由緒を記して残すべきものと思はれる。
此の水路の保全は地区の人々には大事の事であり、
当番札を造り日々水路を巡視し、ことに配水地の取り
入れ口の塵取りに留意した。月一回はをあげて配水地
殊に濾過設備の掃除を行った。子供心に水遊びの如く
手伝ったことを覚えている。又年二回は「川浚い」
として水路の草刈り、土砂の除去更には時に濾過具の更新をした。

水源部分より思い出を記して見る。
赤い屋根の祠の所に水神様が在り前に滾々と
水の湧く池が在り此処より水路が始まっていた。
沢蟹も多く良い遊び場だった。



水路には今の水神様の場所に今泉・原田の分水地が在り、
原田分を溢流させていた。分水に関しては度々水争いが
在った記が在る。争いには今川時代よりの分水の為
証文が無く都度話し合いで納めていたようである。今
の水神様の湧水は多く、時に三島梅花藻の花が美しい。






水路は更に両側を野面積みの石垣で滝地に伸びているが、
現在は埋設管となり石垣のみが写真のように残されている。




水路は更に松原川(宇東川また瀬古川)を横切るが、此処は
新富士溶岩が二段の真岩を成しており、掘削して樋道を造り
この付近を樋詰(子供の頃は戸泉と呼んでいた)と呼んだ。
昔は荻野原の湧水を受けて、相当の水量だったと思はれる。
上段は滝行地の伝承が在り、北岸には不動明王の一体が在り
南岸には数基の石塔が在った。
現在は滝は痩せ、不動明王無く、石塔も崖崩れの為吹上の
青年が川普請の折、吹上の天神社の前に設置したが一体を
上柳家に残すのみにて他は行方不明となった。子供心に瀬古村・
善得寺村の記を覚えているが、吹上のどこかにあると思はれ
探したい。




水路の途次に配水地(濾過・貯水・分水)が在り、溢流が
在り子供達の良い遊び場散歩道だった。茅花を摘み、
虎杖を採り,蓬を採りよく遊んだ。
其の一景である。



此の水利の浄水部分は市の水道敷設に依り役を終えたが、
吹上の道の東端の工事の状況の写真が在った。
当時は重機は無く鍬・スコップ等による人海作業だった。


















富士市今泉の昔話(11)

2012年07月20日 08時54分29秒 | 昔話
11吹上周辺の其の昔(7)
市道開設により、この地域は大きく変貌したが、
其の大きな物の一つに第二中学校の開設が在る。
鎌倉古道の北に「山の運動場」と呼ばれる運動場が在った。
これは今の市立図書館の所に在った「今泉小学校」
が狭く、運動が出来ないため500mほど離れた山の
地に運動場を設け、体操の時間には此処まで走ってきて
体操をした。思い出である。
此処に今泉茨原に新設の小学校に間借りしていた
中学校を新設した。市道に沿っての新設の為、
鎌倉古道のこの部分は消滅した。当初は
東に運動場は無く、茶畑だった写真である。
(昭和30年8月)





学制の変更による中学校は、今泉小学校に併設水の上
教場使用を経ながら、生徒数増加に依り十王子神社の
西の船久保の地に新設された。
写真は昭和26年8月25日の上棟式の様子であり、
大量の投げ餅に祝はれた。











新設の木造の校舎群である。








新設の学校の為、PTAの後援が多く婦人会(当時の名が思い出である)
で運動会等の時にはバザーに依り得た収益を寄付した。手作りの団子等等に
亡き母の努力の様子が目に浮かぶ。一景の写真に当時が偲ばれる。







バザーの頃より約50年経った十王子神社の
西依り運動場を経ての第二中学校の近影である。




富士市今泉の昔話(10)

2012年07月16日 08時27分29秒 | 昔話
10 吹上周辺のその昔(6)
昭和30年頃の吹上の一景である。今から50~60年前の様子。
前を横切るのは鎌倉古道であり、写真の前の部分を
市道伝法・原田線が開設された。此の辺より遮るものなく
大富士が見られ、将に大富士の裾野であり、
富士に抱かれている幸を感ずることが出来る。
米寿とて既に父母の齢を超えての日々感慨が深い写真である。
鎌倉古道に沿って木製の高圧線柱二本が並んでいた。
古道は右へ「かまば」を経て飯森神社に通じている。
馬力道の広さである。今は左は道は無く路地となっている。



市道伝法原田線に依り、鎌倉古道に接していた十王子神社は二分され、
北の本殿部分と南の大銀杏と記念碑等の部分と分かれた。







北には本殿、南の曽我小路より移設された曽我社、善得寺の
用水の末を受けての水タンク
(後に記して見たいが、南の立小路・向小路・西小路
・曽我小路ー武家屋敷部分と私見するへの給水用)、社叢がある。


南には大銀杏、道路開設の記念碑、庚申塔等が在る。
庚申塔は市の俗称に依っているが、わが家にはこの地
への給水の完成記念の碑であり、先祖の名が在るとの伝承が在る。
この碑には三つの大きな意味が在る。

一つは古さであり、正保4年(1647)はこの地の最古の物と考えられる。
一つは横尾郷の記である。横尾郷は下方十二郷の一つであり、
善得寺の領とされているが、記として残されているのはこれ以外は吹上の上柳家の碑のみである。

一つは刻まれている数の氏名である。この時代は姓、名を記すのは武士だけと思はれる。
梅雪時代に甲斐より移住の郷士が帰農と考えると理解できる。
姓名を列記して見るが何れも此の地に在る名であり子孫が現住していると思はれる。
蓮池左左衛門はわが家の先祖の関係である。





 ○田七左衛門、永橋弥○○門、蓮池佐左衛門、
  安部理左衛門、三井三郎右衛門、池田芳衛門、
  飯塚次右衛門、小林勘右衛門、久保田○○○、
  仁藤仁兵衛、仁藤九郎衛、佐野○○○、
  仁藤仁左衛門、
   (記は「駿河48号」杉沢氏の横尾郷の記による)
庚申塔は社前にバラバラに在ったが、散逸を恐れ耐震を考え、
地元の了解を得てこの地に復元した。

富士市今泉の昔話(9)

2012年07月13日 08時04分07秒 | 昔話

9 吹上周辺のその昔(5)
記を続ける前に、昭和30年頃の寸景を見て戴きたい。

吹上の北は麦・陸稲(おかぼ)・野菜の生産の続く
畑地帯で、写真の様な「みよう」(藁塚)が点在していた。




この頃に、の人々が集って戦死者の墓参をした。其の一景である。



此の地は吹上依り西へ字寺市場・上の山(現在一之宮)と続いているが、
市道伝法原田線の開設により大きく変化した。
北側に吉原第二中学の開設、十王子神社の分断、慈照寺の墓地の移転等の
変化と住宅地化が進んだ。

慈照寺の墓はI家の手配により忠霊碑の北の小松の墓地へ整理された。
慈照寺の資料は少ないが、此の地を通る鎌倉古道に慈照寺坂(この坂で
事を起こした八兵衛の名より八兵衛坂の伝承もある)の名が在り、開基
として「広大院臨川慈照居士」(I家の元祖で武田の武将飯富兵部の末)
が在る。(田宿I家資料)

慈照寺に関して勉強した。慈照寺の名は全国に数あり、有名は京都の
銀閣寺(慈照寺)がある。長野・山梨にもあり共に武田との所縁
が在るのは興味深い。
山梨は竜王町に在り、曹洞宗の別格地で有冨山「慈照寺」と言い、武田の二十四将
の一人諸角豊後守が開基であり、永禄四年川中島で戦死し其の古碑を祀ってある。
三枝守友の菩提寺だったこともあるが、今は菩提寺は別寺になっている。

長野は川中島で戦死した諸角豊後守の供養の為信玄が慈照寺を建立
豊後守を開基とした。慈照寺殿肯従五位豊州太守賢昌清大禅定門
神祇として墓がある。川中島に在る。
慈照寺は廃寺となり、いまはないがI家で建てた記念碑が写真の
場所に設置されている。




市道伝法・原田線の呼坂の地で、此処に慈照寺の墓地が在った。手呼の
呼坂の地かもしれない。
左の高みに慈照寺の碑が在る。









富士市今泉の昔話(8)

2012年07月10日 16時43分18秒 | 昔話
8善得寺(考)其の場所(4)


されるまで約45年の間、東谷禅師達の努力に拘わらず復興は成らなかった。
原因は解らないが私見は別記する。

復興の場所は北條に焼き打ちされた善得寺の延寿堂の跡地で明治4年
(1872)の廃寺の為場所を示す資料は残されている。
延寿堂とは禅宗で座禅などの修業の折病を得た者の療養する場所で、
必ず禅宗の寺院には設置されていた。医療の進むにつれてその名を残しながら,
一堂を置かず塔頭の一室を充てるようになり、最近はその名も廃れている。富山の大乗寺の古
地図にはその名が在り、また修禅寺の奥の院には建物は新しいが延寿堂の名の堂が在る。
応仁の乱に相国寺の延寿堂の激戦の記が在る。

今に延寿堂道の名が残っており、吹上に生まれ育った自分はこの道を採り今泉小学校に5
年間通学した。此の延寿堂道を通る時、清冽な小川を隔てた畦道の草に埋もれて
数個の卵塔と大きい板碑の在ったことを覚えている。廃寺となり墓は各所に分散し、
卵塔のみが残されていたに違いない。地図にはその位置が示されている。





○印に昭和30年の頃に残されていた墓地が示されているが、
現在は整備されアパートが写真の様に建てられている。






廃寺になる時其の図が法雲寺に残されている。
図の中には本堂・墓地・畑が示されており、延寿堂の名残の山神社も示されている。





水野出羽守が家茂上洛時に警備の為の武士を宿させる為に、
今泉全体を調査したことがあるが、この時の図に善得寺が書かれておりこれを示して見る。







現在は跡地は善得寺公園として整備されているが、跡地を示す記念碑が
今に名の残る延寿堂道の場所に建てられている。