富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(69)

2013年08月31日 15時45分07秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(69)年間ブログの整理(1)
ブログを始めてより1年余となり、話題の区切りもある為、既往の整理し要
すれば補記して見たい。
昔話(1)12・6・11  吹上周辺のその昔(1)
    吹上(富士市今泉の子字の地名)の北の昭和33年に市道伝法・原
    田線が開設される前の状況。A家の大きい茶山や山神社の小山が善
    得寺の遺跡(私見)がみえる。
昔話(2)12・6・16  吹上周辺のその昔(2)
    吹上・瀬古(子字の地名、家康の瀬古御殿の名が残る)は義元が再
    興した善得寺が在ったが、その為の用水路(「揚げ水」と呼ばれた
    戦国時代の城への用水路と私見)が残されている。信玄による焼き
    打ちの後、梅雪が甲州の郷士を此の地に入植させた時、その生活用
    水とした。言葉を換えると、吹上・瀬古・坂本・寺市場・上の山の
    数百人が市の水道が出来るまで、400年に亘り義元の遺徳で生活
    してきたともいえる。その遺跡は顕彰すべき物と考える。
昔話(3)12・6・20  吹上周辺のその昔(3)
   水路の説明。大正時代に青年団の建てた古跡の碑の字は今泉小学校の
   3代の校長本多敬義(書家)の書である。善得寺・源太坂・平家越。
昔話(4)12・6・22  吹上周辺のその昔(4)
   水路の説明。サイフオンの理が使われており興味を引く。善得寺の火
   葬場。
昔話(5)12・6・25  善得寺(考)其の場所(1)
   善得寺の位置は、開創の天寧庵 移転の福王寺(水の上)再移転の善
   得寺(寺市場)義元による再興の善得寺(吹上の南)といずれも位置
   が確認されていない。僅かに1616年に再建された新善徳寺のみが
   絵図より場所・形が確定している。
   各期の場所の私見による推定と義元による再興の善得寺に新しい考え
   を加えての私見による推定を述べる。基本とした各条を列記して見る。
    東谷和尚の雪斎供養の香語(吹上南の整地、累石の配置、伽藍の威
    容)。
    家康の善得寺御殿の位置よりの推定(駿国雑誌の絵図よりの推定で
    あるが、是は東泉院保有の絵図を元としていた。)
    護国廟の配置。
    臨済宗の禅修業専門道場。
    今川の官寺で、関東拾刹に列する大寺。
    各条項に適う現在地の配置・地形。(各地五山と同様の
    約10,000m×mの広さ、真北を向く軸芯と平行の2本の道。
    累石。)
    今泉宝鑑に記されている2項の今川用水路の相当。
    此の場所以外に今泉地区内で、大面積・地形で相当の場所が無い。
   (面積的には善得寺城と考えている場所が在るが、地形が相当しない。)

    以上より場所は確定できる。

昔話(6)12・7・2   善得寺(考)其の場所(2)
   場所確定と考える地形図を再掲する。


   配置は一案と考えるが、尚次の様な考えが確定出来ない。
    塔頭は何処か。一地番100坪以上を探したが確定できない。
    禅鐘・浴鐘の確定が出来ない。寺鐘は試掘した大宮道の角と推定する。
    東司・浴室が確定できない。殊に西廊に接する東司は場所が得難く、
    或いは東廊の位置かも解らない。
    方丈は大小合わせてもっと広かったかも知れない。事に大きな方丈庭
    園が在ったはずであるが場所が確定できない。
    勅使門の道を隔てて南に広い基壇の様な場所が在る。何か堂楼が在っ
    たかも知れない。
    経蔵は西北の地とした。倉庫類の場所と教えられた。此の地は信玄に
    焼き打ちされた後、東谷和尚が小庵を建て、雪斎の供養した場所と考
    える。梅雪が此の地を分割して入植させた時、庚申堂の地として残
    し、昭和の初めまで庚申堂は残っていた。
   唯一の善得寺の遺跡と考えられる試掘の鐘楼跡が在る。

昔話(7)12・7・4   善得寺(考)其の場所(3)
   香語に示すように水の上の福王寺は寺市場に移転し、寺名も善得寺とし
   たが、此の間に同じ臨済宗ながら建長寺派より妙心寺派に変わってい
   る。これが伽藍配置の変化と思はれるが、配置の芯と思はれる寺市場の
   道が「くの字」になっている。建長寺派の時は芯が冬至の日の出の方向
   の西北であり、妙心寺派では北極星の真北に向いており、是が道の「く
   の字」の所以と考えられる。寺市場の北の道と瀬古の地の道と明らかに
   平行している。 

昔話(8)12・7・10  善得寺(考)其の場所(4)
   新善徳寺は昔の善得寺の延寿堂の跡地に1616年再建された。15
   69年に信玄に依り焼き打ちされてより50年近い間再建が許されな
   かった理由は解らない。家康が禅宗を離れ浄土宗に関係した為か、隣
   接して臨済宗の慈照寺が在ったためか、或いは大寺を考えて場所・資
   金の困難の為か。
   此の寺は明治に廃寺になるまで現存した為、場所・配置共に図が残って
   いるため確認されている。

昔話(9)12・7・15  吹上周辺のその昔(5)
   吹上げ北の地は鎌倉古道と言はれる道だけであったが、伝法・原田線の
   開設により大きく変化した。廃寺の慈照寺跡も無くなり、記念碑を道際
   に残すのみである。
   手呼の呼び坂は。

子供の国にも秋の花が増え始めた。
女郎花、しでしゃじん等々。十里木高原に昔は松虫草、梅鉢草、吾亦紅等が群
生し見事であったが今は無い。















































富士市今泉の昔話(68)

2013年08月24日 08時28分51秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(68)外伝 善得寺考 霊場巡り(13結び)

駿豆横道霊場巡り(13結び)
昭和60年5月15日
父母・兄の供養等を願い、昭和57年6月27日に発願した駿豆横道霊場
巡りも、足掛け4年で満願を迎え、残すは番外の東光寺のみとなり登拝の
日を迎えた。

日金山 東光寺
 駿豆横道霊場番外
 場所 熱海市伊豆山
 本尊 延命地蔵菩薩
 宗派 真言宗
 由緒 日金山にはさまざまな伝説が残る。仁徳天皇の代に鏡の導きで
    松葉仙人が開創したと伝えられる。
    後に弘法大師が来た時、其の遺徳を偲んで地蔵堂を建立したと
    言ふ。
    源頼朝も此処で旗揚げの祈願をし、本尊を寄進している。
    現在の本尊は江戸初期に般若院の僧が造立した物である。
    江戸時代には日金山の信仰が盛んで、4っの坊を持ち、伊豆・
    相模・駿河の参詣者で賑わった。

    本尊の延命地蔵菩薩は錫杖・宝珠をもち、反花蓮華座、輪光背
    の銅像大作で熱海市の指定文化財である。本尊台座に「武州江
    城の住 大工長谷五郎兵衛宜隣作 宝珠朝倉清兵衛内儀 願主
    法印盛算」、脇童子像の背に「願主法印盛算   寛文11年
    辛亥年4月5日 大工横山半右衛門正重」の刻銘が在る。日金
    山は中世から「死者の霊の集まる山」として、伊豆・相模から
    駿河・三河にわたって、地蔵信仰のメッカとして栄えた。(市 
    教育委員会)

   (日金山東光寺の由来)
    応神天皇2年(271)伊豆山の浜辺に、光る不思議の鏡が現
    れました。鏡は波間を飛び交っていましたが、やがて、西の嶺
    に飛んでゆきました。その様子は日輪の様で、峰は火を噴きあ
    げているように見えたので、日が峰と呼ばれ、やがて日金山と
    呼ぶようになりました。
    同4年(273)松葉仙人が、此の光る不思議の鏡をあがめ、
    小さな祠を建てて祀ったのが、開山と伝えられています。
    推古天皇の頃(594)走湯権現の神号を賜り、その後仁明天
    皇の承和3年(836)甲斐国の僧、賢安が、日金山本宮から
    神霊を現在の伊豆山神社の在る地に遷したと言われています。
    鎌倉時代は、源頼朝の厚い信仰に支えられ、現在本尊として祀ら
    れている延命地蔵菩薩像も、頼朝公の建立による物です。
    地蔵菩薩は、地獄に身を置いて、地獄で苦しむ者を救ってくれ
    る仏であることから、死者の霊の集まる霊山として、篤い信仰
    が在り、今も尚、春秋の彼岸には多くの人が登山して、新仏や
    先祖供養の為に、卒塔婆供養をしています。

日金山が広く信仰されていた昔日の参拝は、湯が原や伊豆山神社からで
なく、函南の平井(東海道線の函南駅付近)から登る旧街道が普通だっ
た。代々の鎌倉将軍が三島大社から伊豆山神社への「2所詣で」の道で
ある。亡き母が長女を連れて、50年ほど前に此の道を通り参詣した事
が在った。彼岸の日に参詣すると必ず亡くなった人に似た人に会えると
の伝承に、無き父母・長男に会いたくてと聞いている。参詣の折には会
う人無く残念でいた所、下山しての熱海の温泉で亡き父に似た人に会え
たと喜んだ事を聞いた。



30年ほど前の順拝の折には、願って叔父叔母更に従兄も同行しての日
であった。霊場らしい昏さ・静寂の霊気に打たれた行だった。今は無き
叔父が叔母を労わっての覚えもある。



30年前の本堂前。思い出を辿っての母の命日の参拝の今日は木々の茂
りを加えてその昏さは身にしみる物が在った。




本堂前の閻魔像、脱衣婆、石仏群。石仏はすべて苔を纏い、恐山と共
に日本の3地獄の一つと呼ばれる所以を感じた。











残暑の候、山には秋の花が見られ、「くさぼたん」「こまつなぎ」が美しかった。





思い出の順拝の記を結び、次号には1年の歩みを纏めて見たい。


































富士市今泉の昔話(67)

2013年08月16日 15時44分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(67)外伝 善得寺考 霊場巡り(12)

駿豆横道霊場巡り(12)
昭和60年3月12日
1日の霊場巡りの半日を割いて、山へ上る決心をした。
霊山寺
 駿豆横道霊場第33番
 場所 静岡市清水大内
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 寺伝によれば、奈良時代、天平9年(737)又は天平勝宝元年
   (749)行基菩薩の開創と言はれる。本尊は行基作の「安部7観
    音」の一つと伝えられるが、室町時代の作と推定される。
    仁王門は室町時代永正11年(1514)の茅葺きの建物で、本
    堂や庫裏も260年前の建築である。
    本尊の宮殿を中心に28部衆・風神・雷神像が並ぶ。横道霊場の
    最後の札所の為、横道関係の奉納絵馬・写真が多い。
    静岡市の清水寺が兼任する。
    大内の集落から急な山道を20分ほど登ると寺の仁王門(重要
    文化財)、少し登って鐘楼・本堂に辿りつく。此処から清水市
    街地を一望できる。

北街道を通る時、山の中腹の大屋根を仰いでいたが、登拝を決して大内
に来た。山下の駐車場に車を捨て、置かれてある杖をお借りして足を踏
み出した。50年前も30年前も同じであったが、将に杖を頼りの参拝
だった。50年前には母を支えて登拝し、30年前は息つきも荒く年を
感じての登拝だった。桜の木の花芽は固かったが、短冊に短歌・俳句が
書かれて数多くあり、息を休めつつに有り難かった。
ただり着いた山門よりの下界の素晴らしかったのを覚えている。歳を経
ての米寿では望むべくもない事残念である。
山下には「梶原堂」があり、梶原源太景時に関する伝承が色々と伝はっ
ている。梶原一党が鎌倉を追われて此の地まで来た時、襲撃を受け全滅
し、此の地に葬られ「梶原堂」の名に残っている。景時の勢力時、平家
追討の上京の途次の休憩場として、富士市に「源太坂」の旧跡が残って
いる。
30年前の鐘楼








昭和60年3月17日
霊場巡りに時間を探しつつ、発願より3年を経過し、漸く静岡西部の1
寺を残すのみとなり計画した。今回は妹たち2人を加えて、母を偲ぶ1
日と考えたが、生憎の雨となってしまった。
真っ赤な椿が満開だった。

慶寿寺
 駿豆横道霊場第32番
 場所 島田市大草
 本尊 聖観音
 宗派 真言宗
 由緒 慶寿寺は南北朝の頃、今川2代範氏の菩提寺として創建され、
長く観音霊場として栄えた。本堂裏には県の天然記念物のシ
ダレザクラ(樹齢800年)がある。
    住職は静岡市清水寺に居り、管理は地元の方々が行っている。
    駿豆両国観音霊場だった長谷寺(初瀬寺)は、元は静岡市長
谷静岡高校の南に在った。明治の廃仏毀釈の時廃寺となり、
慶寿寺に移された。
    開創は興国6年(1345)であり、以来歴代今川家の庇護を
受け、多くの古文書(島田市指定文化財)が在る。中には今川
義元が配布した禁制や寄進状等が在る。
寺宝である絹本着色釈迦16善神像は鎌倉時代後期に製作され
た物で、昭和25年に国指定重要文化財に指定されている。
    シダレザクラは範氏が父の遺徳に感謝して植えた桜で「孝養桜」
と呼ばれているが、約350年前に枯死し、現在は其の折に枝
分けした2代目であるが、350年経ち年々衰弱している。3
代目を養殖しているが、20年を経ち花をつけ始めている。
    範氏は父範国と共に足利尊氏の命を受け、南朝方と戦い数々の功
績があり、遠江・駿河の守護職を与えられ、東進し此の地に居城・
居館をたてた。慶寿寺はその城址に建てられたと言われている。

50年前母と



30年前妹達と





「オクラ」が咲き、実り、又遠州大日山より戴いた「コリュウス」が咲き
始めた。










































富士市今泉の昔話(66)

2013年08月09日 16時39分38秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(66)外伝 善得寺考 霊場巡り(11)

駿豆横道33霊場巡り(11)

岩戸山 龍雲寺
 駿豆横道霊場第21番
 場所 静岡市蒲原町
 本尊 聖観音
 宗派 臨済宗
 由緒 もとは瑞現山と言い、創立は不詳であるが室町時代今川氏の
    一族氏兼と其の子直忠によって再建され、地域有数の名刹と
    して知られた。又江戸時代に近くの岩戸山常楽寺(廃寺)と
    合併し、その山号を取り岩戸山と改号した。常楽寺の本尊が
    今の聖観音である。裏山頂上に奥の院の岩屋が在り、観音像
    が安置されて居て「岩屋観音」として知られている。
    再建は応永5年(1398)の頃と言はれているが、此の間
    160年程の記録伝承を欠いているため明らかでない。
    常楽寺と言ふ古寺は、駿国雑誌によれば永禄12年の蒲原城
    落城の折焼失し、以降廃寺となり、龍雲寺賄いとなった。
    寺宝として「大久保甚大夫の槍」があり、伝承もある。承応
    2年(1653)高松藩の槍の指南役、大久保甚大夫が家来
    3人を連れて江戸に上る途中、薩摩の大名行列にかち合い、
    相手方の槍に触れたとの事より争いとなり、家来は散々辱め
    られた。甚大夫はその場は我慢し、先行し蒲原宿の西見付け
    付近の茶屋で行列を待った。行列が来ると、甚大夫は大身の
    槍を振りしごき、行列に飛び込み、薙ぎ倒し突き刺し放り投
    げ70人近くの敵を倒した。然し疲れと空腹より逃れて、善
    福寺付近まで来たが、田の中で暇睡の処を襲われ、主従4人
    刺殺されてしまった。龍雲寺14世の海岳院大和尚の慈悲心
    より、亡骸を寺内に葬り、以降供養を続けており、槍も変遷
    を経て寺宝として大事にされている。







八幡山 大法寺
 駿豆横道霊場第22番
 場所 静岡市由比
 本尊 如意輪観音
 宗派 臨済宗
 由緒 寺伝によれば、天正13年(1585)由比助四郎光教の子
    光宏に依って開創された。天正5年(1577)光広が夢で
    予知し、海上に金色の仏像を発見し、救いあげ堂に祀ったの
    が本尊である。調べると是は紀州粉河寺の本尊であったと言
    ふ。寺には海上仏がもう一体あり、江戸中期に浮遊していた
    馬頭観音が拾われ祀られている。
    開山は堅翁宗古和尚である。
    石段を登り右手には、天保6年(1835)由比本陣岩辺郷
    衛門光端が先祖並びに両親菩提のために建立した宝匡印塔が
    在る。







新国寺(廃寺)
 駿豆横道霊場第23番
 場所 静岡市由比阿僧
 本尊 十一面観音
 宗派 浄土宗 新国寺(廃寺)
    臨済宗 常円寺
 由緒 本尊は行基菩薩作と伝えられていたが、変わったともいわれ
る。
    古くは由比川沿岸の瘤山に在り、歓喜山深谷寺の境内の観音
堂だった。
    度々の洪水で倒壊し、明治維新で廃寺となった。深谷寺が新
国寺となった理由は解らないが、音読みの通ずるのは意味が
在るかもしれない。
観音堂のみ山上に移し、旧堂の古材を用いて再建された。境
内の石塔は慶長・慶安・明歴等の古い物が残る。此の観音に
祈願すれば、瘤が取れると言ふ信仰もある。堂は代々久保田
家が護持している。
御朱印は代わって臨済宗常円寺で行われている。
    常円寺は今川氏の支城で由比氏の常円寺城の跡に戦死者の供
養のための寺と言はれ由緒の碑が在る。
訪れた日に寺前に「ていかかずら」が満開で香を放っていた。「つく
つくぼうし」も始めて寺前に聞いた。晩夏の順拝となった。









庭に車花が咲き、「からすうり」が奇妙な花を見せている。「からす
うり」の花は日が暮れると孔雀が羽を開くように、目の前で写真の様
に奇妙な花を広げ、一夜で萎むのも不思議の花である。






















富士市今泉の昔話(65)

2013年08月02日 20時48分06秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(65)外伝 善得寺考 霊場巡り(10)

駿豆横道33霊場巡り(10)

昭和59年3月27日
静岡の周辺の札所巡りである。建穂・足久保・服織・慈悲尾等の地名に
迷いつつ、驚きつつの50年前の母との順拝だった。カーナビの無い
昔田舎道を迷いつつの何時間だった。
妹との順拝には蓮華の咲く道を辿った覚えが在る。

法明寺
 駿豆横道霊場第31番
 場所 静岡市足久保奥組
 本尊 千手観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 桓武天皇の重病を平癒する為、行基に命じて、足久保の楠の
    老樹を切りだして、7体の観世音菩薩を刻ませたと伝えられ
    ています。
    これを「駿河7観音」といい、法明寺・徳願寺・建穂寺・増
    善寺・霊山寺・久能寺・平沢寺に安置し祈願した所、天皇の
    病気が治ったと言い伝えられています。
    法明寺では、6年に一度お祭りが開催されます。
    大楠は高さ約50m直径約8mと伝えられている。
    伝承では養老7年(723)行基菩薩の開創と言われる。
    古くは天台宗と伝えられ一時廃絶していたが、江戸初期増善
    寺の住職に依って中興された。
    観音堂前参道と山門前の参道に杉檜の大木が並び、古寺の風
    格を為している。

思い出を辿りつつの三回目の順拝の日は、本堂前に「のうぜんかずら」
の花が盛りで、法明寺の名入りの古い大きな鬼瓦が飾られていた。







増善寺
 駿豆横道霊場第32番
 場所 静岡市慈悲尾
 本尊 千手観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 寺の歴史は古く、白鳳21年(682)法相宗祖道昭法師の
草創で慈悲寺(保檀院)と称した。
    「安部(駿河)7観音」の霊場の一つである。
    室町時代、文明12年(1480)曹洞宗の寺として再興さ
れ、今川氏親が大伽藍を建立して、今川家の官寺とした。
    寺名は氏親の法名「増善寺殿喬山紹禧大禅定門」より取って
いる。
    徳川家康が幼少期人質として駿府にいた時、増善寺をよく
訪れ、後に可睡斉(袋井市)を建立する等膳和尚と親交を
持った。本堂は寛文11年(1671)の建立である。
(以下はフリー百科事典より)
    大永6年(1526)今川氏親が亡くなると、此の寺で戦
国大名史上、他に例のない近在の僧侶7000名に依る大
葬儀が営まれた。寺には苔むした氏親の墓と共に、460
年前に造られた等身大の木像が安置されている。
    寺の裏山に南北朝期の安部城址が在る。此の地で幼少を過
ごした氏親にとって、安部城を控えた自然の要害の地「慈
悲尾」に今川家の菩提寺と自らの安息の地を求めたと考え
られる。

本堂入り口に、よく達磨の形を為した大きな達磨石が置かれていた。







建穂寺(廃寺)
 駿豆横道霊場第29番
 場所 静岡市建穂
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 白鳳年間(7世紀中頃)道昭法師が草創し、養老年間
(717~723)行基が中興したと言ふ。
    平安末期、建穂寺は久能寺と共に駿河の2大寺院であった。
足利~徳川の保護を受け、21の塔頭が在った。然し明治
初年廃寺となり、跡地には建穂神社が残るのみである。
観音像(「安部7観音」の一つ)や仁王像など建穂寺の多
くの仏像は西方の林冨寺(廃寺)跡の観音堂に移され、建穂
町内の人々によって守られている。又堂内には巡礼絵馬が多
く残されている。

観音堂は地元の方々が守ってくださっており、お願いすれば鍵を開け
拝観させて下さるとの事で、当番の方に電話でお願いした。
畑仕事中との事で自転車で汗を拭き拭き駆けつけて下さり、丁寧に堂
内を説明下さり、又資料をお見せ戴き、恐縮した。
堂内には、本尊の千手観音を始め市の有形文化財に指定の、木造不動
明王立像(平安時代と鎌倉時代の2体)・木造伝阿弥陀如来坐像・木
造伝大日如来坐像・木造阿弥陀如来坐像等多くの仏像が所狭しと安置
されている。圧巻である。
建穂寺の仁王様に関する「建穂寺異聞」と「建て穂寺の仏像」を入手。
帰宅後更に勉強する事が出来た。









庭に洋種の「さびた」が咲いた。兄の戦死の北海道には「さびた」の
花が良く目につく。
兄たちを祀って戴いている地蔵尊(北海道)の近くに「ほざきしも
つけ」と共に多く見られた思いが在る。