富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(73)

2013年09月27日 20時21分02秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(73) 年間ブログの整理(5)

昔話(30) 外伝 善得寺城 歴史

今川範政は、禅秀の乱平定の功により、義持より下方12郷を与えられ、
守護大名より変身した。此の地を領地するために、荻野原の地(現在の富
士市上和田)に和田川を要害として、応永14年(1417)善得寺城を
築城した。
善得寺城は、以降今川の支城として早雲の領地ともなり、河東大乱として
今川・武田・北條の間の争奪が繰り返された。
天文8年(1539)、義元は北条より河東を回復し、善得寺城を整備し
た。兵農分離を進め、武家屋敷を設け、武家屋敷を含んだ「惣構」を構築
し、東よりの北条えの防備を強化したと私見する。




天文9年(1540)には瀬古の地に善得寺を再興した。
義元亡きあと、今川の弱体に乗じての信玄の駿河侵攻が続き、河東一帯は
武田領になったが、天正5年(1577)の甲相和睦により北条領となり、
善得寺城は北条12塁の一つとされた。

天正14年(1590)の秀吉の北条征伐の折、家康の占拠となり、廃城
とされた。
廃城後、家康の瀬古御殿に通ずる今泉往還が造られたのが「駿国雑誌」の
図である。






昔話(31)今泉小学校の思い出(4)

小学校時代に「チビ」と呼ばれた思い出の「私のからだ」の記録が出てき
た。思い出の幾つかを書いてみた。
1年生の記録である。身長104cm、体重15,8kg。






昔話(32)外伝 善得寺考 関係諸寺(1)清岩寺

清岩寺は善徳寺の跡地と推定される地に、開創された浄土宗の寺院である。
善徳寺の東北に当たり、開山堂の在った場所と考えられ、400年を経たと
言はれる大栢、護国廟と考えられる稲荷社・諏訪八幡社、六地蔵、地蔵大士
碑等禅宗の痕跡が残されている。清岩寺の3世の住職が善徳寺と兼務が在っ
たか、善徳寺の過去帳に名が記されている等善得寺とは関係が在ったと
考えられる。
駿河大納言の家臣の住居の一部が庫裏・山門に移設され、その冠木門の基礎
の1個が石垣に組み込まれている。




昔話(33)外伝 善得寺考 関係諸寺(2)永明寺

永明寺は曹洞宗の寺院であり、「富士乱水の庭」が名高い。寺内に善徳寺の
過去帳に本尊寄付と記されている「大安牧仙庵主」の墓がある。




昔話(34)外伝 善得寺考 関係諸寺(3)法雲寺

臨済宗法雲寺は、明治に廃寺となった善徳寺を吸収し、善得寺の開山の位牌
や過去帳・図面等が残されている。
天文年間には、院外塔頭だったかもしれない。
法雲寺は文和2年(1353)建長寺僧用堂西堂和尚により開創され、変遷
を経ている間に白隠和尚との交流も残されている。
山門付近に湧水を集めての清冽の小川が流れ、季節には三島梅花藻の花が美
しい。




昔話(35)外伝 善得寺考 関係諸寺(4)福応寺

小県(ちいさがた)に開創の天寧庵は、領主上杉憲顯により「瀬子」の西に
移転整備され、福王寺と号し、横尾郷を寺産とされた。
上杉の勢力の富士川までの拡大と私見する。
「瀬子」の西と言ふ場所は「富士市水の上」の場所と考えられるが、現在の
福応寺の場所で無く此の東の八軒村の辺と考える。
福王の名は建長寺の法系による事を示している。
現在の福応寺の場所は、善得寺城が築城されるとき鬼門封じの為、善得寺の
院外塔頭として福応寺が置かれ、善得寺と盛衰を重ねたと思はれる。
徳川の代となり、正徳2年(1712)本寺清見寺の芝岸和尚の入山により
中興された。
開祖大勲策禅師の位牌が残されている。
お茶の寺として名が在る。



昔話(36)外伝 善得寺考 関係諸寺(5)城端 善徳寺

善得寺の調査にインターネツトで全国の同じ名の寺を調べた。平成10年に
全国に善得寺・善徳寺が94寺在ったが不思議の事に臨済宗は2寺のみだっ
た。是は経典に「善福徳」の語が在り、善福寺と関係を考えたが不明である。
この中に浄土真宗は32寺と最も多く、最大に「城端の善徳寺」があり、述
べて見る。
善徳寺は浄土真宗大谷派の古刹で、蓮如上人が吉崎御坊より加賀を巡錫の折
の一坊の開創を始めとし、城端の城主荒木氏の招聘により城の一部を重ねて
善徳寺が開山された。由緒別院として隆盛し、蓮如上人・親鸞上人の御真筆
を始め、古文書9300点等多くの寺宝を備えている。
坊に泊させて戴き、御住職より由緒等を勉強したが、善徳寺の名は教義の中
の「善本・徳本」より発しているとの事有り難かった。
山門・本堂等の大伽藍はすべて豪華な彫刻が施され、豪華絢爛である。




寺は花の名所としても知られ、曳山祭り・虫干し法会・花まつり等に町を挙
げての賑わいと成っている。


庭の一隅を葛に占領されてしまった。花は美しく、香・食の楽しみもある
が、占領された感が深い。































富士市今泉の昔話(72)

2013年09月20日 20時30分36秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(72) 年間ブログの整理(4)

昔話(23)12・10・3 善得寺考 伽藍の配置(1)
「香語」に示す如く、吹上の南の丘を切り開き累石で段を造った現状であ
る。関東10刹に列された大寺、善得寺を入れ得る平坦地約10町歩がある。




昔話(24)12・10・10 善得寺考 伽藍の配置(2)
禅の修行専門道場であった善得寺。七堂伽藍を中心とした聖域約1町歩の推
定配置。京都5山、甲府5山と同様の伽藍・配置である。





昔話(25)12・10・18 善得寺考 伽藍の配置「3」
伽藍配置の中央部である。
伽藍配置に足る面積が2本の道で区切られているが、伽藍の後は既に無く、
妙心寺の伽藍をお借りし昔を偲んでみたい。
 山門。
 仏殿。
 法塔。









昔話(26)12・10・25 善得寺考 伽藍の配置(4)
伽藍配置の北部の変遷。
伽藍の北部は、信玄の焼き打ちにより灰燼に帰し、梅雪の領地となった時
に、甲州の入植者の為地割し、今の吹上の東西の道が造られたと私見する。
公用・私用の区分、入植者の配置等に梅雪の工夫が在ったと考える。




昔話(27)12・11・2 善得寺考 試掘(1)
伽藍推定地の北部に空地が在ったため、市の教育委員会による試掘を依頼し
た。
空地の南・東にL字型のトレンチによる試掘を進めて戴き、南東部に柱の基
礎と思はれる石の配石が見られた。焼け土層の確認、大きな灰だまり、小石
の堆積等私見したが何れも何か確認いただけなかった。






昔話(28)12・11・9 善得寺考 試掘(2)
市の試掘を2次として、北の空地に南北のトレンチ2本を平行に実施して戴
いた。結果的には古い住居跡のみで、善得寺に結ぶ物は見られなかった。地
番の一筆の面積が多き為、塔頭或いは堂楼の基礎を期待したが、得られな
かった。黒曜石の鏃石は子供の頃より拾った為、客土等土の移動は在ったか
もわからない。







昔話(29)12・11・17 今泉小学校の思い出(3)
今泉小学校水の上教場の思い出は、既に2回程記したが、文集「椋の樹」は
殊に懐かしい。
旧師旧友の文を読み返して、当時を思い出す。



庭に、赤まんじゅしゃげ・白まんじゅうしゃげが群れ立ち急に賑やかに
なった。























富士市今泉の昔話(71)

2013年09月13日 19時03分22秒 | 昔話
富士市今今泉の昔話(71) 年間ブログの整理(3)

昔話(17)12・8.24 外伝 善得寺城(3)其の形
善得寺城の物と言はれた円郭式山城の図は興国寺城の物であり、善得寺城の形
の再検討を重ねる時次の幾つかを発見推定を進めた。
 等高線図に本国寺前よりY理髪店までの窪地の連続を発見、これを大空堀
 を埋め立てた名残と考え、推定の基本とした。
 現在残る虎口と考えられる石垣は、新しい為昔の物とは言えないが、其の
 形より東に城を見た時に大手門の場所として推定に加えた。
 福応寺の西の切り込みと吉原公園の切り込みを結ぶ空壕の推定。
 上和田の此の地を囲む東・南の野面積の石垣。又六所家部分の大石垣。
 家康が善得寺城を廃した時、虎口より瀬古御殿えに造った曲折の道図。是
 は駿国雑誌に所載されて居るが、源本は東泉院資料に在り、善得寺城の位
 置と家康の瀬古御殿の位置を示している。
以上により善得寺城を梯郭式平城と推定した。推定図を示す。方々のご意見
を得たい。



昔話(18)12・8・29 外伝 善得寺城 雑記(1)
善得寺城の考え方。
下方12郷とは。
城名残と考えられる東部の野面積みの石垣群。



昔話(19)12・9・7 外伝 善得寺城 雑記(2)
城名残と考える中央部の状況。
愛鷹神社付近が本丸と考える。
南部の野面積みの石垣。横矢の構造とも見える。
南部の平坦地は馬場か。



昔話(20)12・9・13 外伝 善得寺城 雑記(3)
西部の考え。
西部に残る野面積みの大石垣は由緒が感じられる。
今に残る虎口の石垣は由緒である。



昔話(21)12・9・22 今泉小学校の思い出(1)
今泉小学校の経過。
寺小屋に始まり、原泉舎に纏まりやがて郷蔵の跡地の「水の上」の場所に小
学校が開設され、茨原の新設まで続いた。皇太子誕生の旗行列、2・26事
件の日の積雪等を経ての懐かしい思い出の場所である。既に無い多くの先生
方の有り難い思い出が在る。



昔話(22)12・9・29 今泉小学校の思い出(2)
「水の上」の今泉小学校の思い出。
郷蔵の跡地は弐段に分かれ、其処に古い校舎が2棟。太い丸太で支えられた
校舎が懐かしい。
今の市道沿いの崖下に滔々と水が湧いており、運動の合間に石段を駆け下り
て争って飲んだ物だった。
校舎に付属の運動場わ狭く、運動の時間には山の運動場(今の2中の場所に
在った)迄駆け足で往復した。
東の崖上に椋の大木が並び、蔭を造り、風を湧かせ、4季の風情を為し親し
んだ。「文集椋の木」は自分の人生を造ったと感ずる。



秋深い秋の草草、花を競うようである。「つりがねにんじん」「うど」。














富士市今泉の昔話(70)

2013年09月07日 16時16分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(70)年間ブログの整理(2)

昔話(10)12・7・16 吹上周辺のその昔(6)

吹上の北側は畑続きで、再掲の写真の様に富士山まで何もなく、将に富士山
の大裾野の感であった。
市道伝法原田線の開通により大きく変化し、家が急速に建てられてきた。十
王子神社も二分され、此の地区最古の横尾郷の記の庚申塔も南側に復元
した。



昔話(11)12・7・20 吹上周辺のその昔(7)
市道開設による変化の多き物に第二中学校の開設が在る。今まで山の運動場
としてきた地を中心に、開校が出来、妹の入学より母がPTAの婦人部とし
て活躍し、バザー等の古い写真が懐かしい。



昔話(12)12・7・29 吹上周辺のその昔(8)

義元が善得寺の為に設けた水利が此の地の400年の生活を支えてきたが、今
に残る幾つかの遺跡を列記して見る。此の遺跡が活用され、顕彰される事を
願っている。

中島よりの水路の途中の戸泉の滝(子供の頃戸泉と呼んでいたが、正式には樋
詰と言うのかもしれない)。滝行の地である。滝は2段であり、これは上段の
滝であり、此の前部の真岩を割って水路を通してある。



昔話(13)12・08・02 善得寺(考)其の場所(5)
善得寺の草創は、「香語」に記されているだけであり、須津の「小県」とのみ
である。此の地名は現在は無く、全国探したが、長野の上田市の南に在る地名
だけである。此の地に、富士山の名の山が在り、富士山村の名の村が在り、現
地を尋ね、市役所を尋ねたが今まで関係は得ていない。
開基の上杉憲顯も不明点多く、墓は国清寺に在る。
場所は慶昌院付近と私見する。

昔話(14)12・8・6 善得寺(考)其の場所(6)
「香語」の如く、「小県」より「瀬子の西」の地に叢寺を構え、「福王」と号
された。是は上杉の勢力が富士川まで拡大された事であり、横尾郷といふ豊冨
の地を与えた事は橋頭堡を構えた事と思はれる。福王を善得と改め2世を迎え
ているが、場所は現在の寺市場の地に遷されている。
「福王寺」の場所は今まで「福応寺」の場所と考えられていたが、私見として
八軒村の辺と考え、「福応寺」は善得寺城築城後其の鬼門鎮護として開創され
たではないだろうか。

昔話(15)12・8・9 善得寺城(1)其の場所
今川範政は此の地を領地した時、その拠点として善得寺城を築城した。応永
24年(1417)である。「和田川を濠とし、荻の原の地に」とのみ伝えら
れ、形・位置は不明であったが、近年「円郭式山城」の善得寺城の絵図が発見
され、確定されたかに見えた。
他地の歴史家等より、絵図は興国寺城の物との異論が出ている。


昔話(16)12・8・14善得寺城(2)其の形
発見された絵図には幾つかの寸法が在り、是より縮尺が推定できる。此の縮尺
よりの図を、郷土誌の当地の先達鈴木氏も描き、図の愛鷹山の方向を地図の愛
鷹山の方向に合わせて見たが、現地には合致せず断念された。
私見にも同じ図を作成し、愛鷹を富士山の方向として配して見たが合致の点な
く、円郭式は善得寺城には不適と結論した。
現地に会う城の図を更に考えたい。





野山の草草も秋を深めている。センニンソウ・サワヒヨドリ