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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(167)富士近辺の寺の動向

2016年01月01日 16時09分35秒 | 昔話
賀春





雲一つない初景色、初日の出、初富士。荘厳の語に縛られるごとくの一時。


   父母の年超えて遙けし初ブログ       壷天

   初漁の水脈ますぐなり富士日和       稜子



富士市近辺に各宗派を合わせて86の寺院がある。(平成元年 富士市郷土史のまとめ)
その動向をみると、各宗派・各地域・各年代で異なる状況がみられるためその分析を次週にしてみたい。

富士市今泉の昔話(167)清岩寺の由緒(7)

2015年11月15日 19時08分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(167)清岩寺の由緒(7)

特記の墓

医師 佐々提玄  延宝4年(1676)生、享保11年(1727)没。
 元近江に住していたが孝子五郎衛門の表彰に関し其の教導のため招聘され吹上に居を構えた と伝えられている。代を重ねて地域の医療に尽くされた。江戸期の儒者細井広沢と交あり、
 2代の墓に広沢の筆が残されていた。最近墓地整理のため墓石は整理されたようである。
 広沢は赤穂義士に好意示しており、また剣術の名士で堀部安兵衛と同門だつた。また吹上の 天神社の社額は広沢の筆といはれている。
 句を嗜み凌川と号す。


戒名 大徳の墓
 特記の戒名で寺の関係者や寺の建設・復興に功のあつた方への戒名ときている。禅宗(善得 寺に)や日蓮宗(蓮光寺に)でもこの戒名がみられる。
 墓で確認できぬ方は霊簿に依らせて戴いた。  


 願誉宗弘大徳  元禄14年10月12日(1701)仁藤家祖

 禅誉祖栄大徳  宝永3年9月17日(1706)末寺西運寺住

 相誉伝秀大徳 宝永4年5月28日(1707) 寺塔善慶院住

 順誉楽信大徳 享保20年8月29日(1735)木綿島 彦右衛門事

 胎誉玄悦大徳 宝暦5年6月15日(1755)  小野玄悦父

 戴誉浄運大徳 宝暦8年7月6日(1758)吉原 西運寺住

 通山徹心大徳 宝暦13年11月18日(1763)中野 玄悦仏

 真誉宗務大徳 文化5年11月28日(1808)  無量院住

 俊誉宗旨方英大徳 文政10年2月23日(1827)仁藤要右衛門

 顕誉道務大徳 文政10年7月21日(1827)依田橋 無量院住


白雲軒雁行   文政3年(1820)
 俳諧の名と思はれるが近在の会には名が見られない。花村家の系列とあるが檀家に名は切れ ている。


古歴の墓

開創 天正8年(1580)時代は檀家も少なく、したがつて古歴の墓も少ないが列記してみる。墓記は判読困難が多く、調査不十分のため霊簿をお借りした。何時の日か補記したい。
 慶長5年(1600)  中村吉久妻
 慶長19年(1614) 中村吉久
 延宝3年(1675)  厚原 吉左衛門
 寛文6年(1666)  同 家内
 貞亨5年(1688)  吉原 小松屋伝吉
 元禄6年(1693)  同 家内


塔類


 名号塔
  清岩寺山門の前に「南無阿弥陀仏」の書と清岩寺の開創の記を詳しく書いてある。
  書は祐天上人により書かれ、天明2年(1782)に建碑された。

  富士郡浄土宗最初清岩寺者本在干同郡今泉邨田家西南称専修寺聞誉上人所創基乃不断浄業  之道場也ー - -


 巡礼塔
  西国巡礼に端を発してより各地に順拝が行われ、当地にも駿豆横道33所や富士横道33  所などがあつた。念じて満願の時には記念の塔が建てられた。駿豆横道の塔(仁藤)と巡  礼塔がある。


 地蔵大士塔
  書は何方か判らないが天明の大飢饉の折火葬場に建てられたと思はれる。窯場と呼ばれる  高台(善得寺より清岩寺に譲られた場所)に六地蔵と共にあつたが、今は清岩寺の寺内に  設置されている。
  裏の不思議な石の窪みは地蔵大士の梵字の略号と思はれる。
  中村氏の施粥の篤行の折の「米とぎ石」の伝承がある。

 六地蔵
  地蔵大士の塔と共に移設された六地蔵と新たに寄進された六地蔵とがある。


 礎石
  駿河大納言の茶屋御殿が瀬古の地にあつた時その四方に木戸を設けられたと伝記されてい  る。東の木戸は清岩寺坂の頂部にあり明治の頃まであつたといふ。坂を整備する時木戸は  取り除かれその基礎の2ケは清岩寺の石垣に埋められていると伝承がある。
  1ケは山門参道の東側の石垣に確認される1尺の角柱の基礎である。1ケは駐車場の南端  にあり大事にしたい。
 御朱印地境界石
  参道の飛び石に使用されていたが今はない。
 石畳の石
  清岩寺坂は駿河大納言の時石畳が造られ明治まであつたが撤去後参道の飛び石に使用され  ていた。参道整備に外されいまはない


富士市今泉の昔話(166)清岩寺の由緒(6)

2015年11月14日 21時04分48秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(166)清岩寺の由緒(6)

清岩寺は開創(1580)以来400年余を経過し、寺内には多くの墓石・石塔・石造物があるため列記してみたい。墓石は経年のため字が判別できぬものがあり、過去帳をお見せいただき補記してみた。

墓石

 開基墓

 中村彦治良吉久 77歳 慶長10乙己12月17日没



 孝子墓

 中村五郎右衛門
 「朱印状」
  駿河国富士郡今泉村農民五郎右衛門父母に孝を尽くし行跡宜敷 其上村中の助をなすの由
  今度国廻の輩演説之 依之其所作來田畑九拾石事 永代五郎右衛門下授之條全可収納物也
   天和2年3月22日      朱印綱吉

 「孝子今泉村五郎右衛門伝」 林常春
 「徳川実紀」 常憲院殿御実紀 巻5 
  --これ 当家の世となり孝子 節婦を 表せらるるのはじめなり。

  
 孝子の名は今に語り継がれ、今泉小学校の東南に「孝子田」の名を残し、新橋の地に大きな
 「孝子碑」(徳川家達公爵の題額を得て大正3年に新橋の地に建てられたが、時代の変化に より昭和33年に所縁の今泉小学校校庭に移設)が建てられている。         



 篤行墓

 中村三郎衛門(駿河誌 日尾氏 中村三郎衛門について 借用)
 中村家は代々名主を務め開基吉久より三郎衛門を代襲しており其の篤行も色々と伝承されて いる。豊水碑 は特筆される物であり、それぞれを列記してみる。
 「豊水碑」文政11年(1828)三郎衛門吉敏建。父三郎衛門による新堀の功を彰記。
  今泉耕地3000石の用水を和田川より本国寺寺内で分岐するにつき、本国寺の好意と共  に新川の掘削・整備に代を重ねた三郎衛門の努力が大きい。
  宝永5年1月24日(1708)の本国寺と三郎衛門以下4人の署名の契約書より新川の  工事が始められている。工事は改修も重ねつつ文政7年(1824)で完了している。
  代を重ねて100年を超す努力の成果である。
 文化3年(1806)吉敏 愛鷹捕馬役軽減訴願27歳。捕馬役全員に扶持米給付となる。
 文政12年(1829)吉敏 助郷費軽減訴願50歳。300石20年間休年軽減認可。
 文政13年(1830)吉敏隠居、米右衛門となる。
 


 筆子塚

 仁藤長兵衛(長綱)嘉永元年5月5日没。62歳。
 幕末の頃、勉学の場として寺小屋があり各地に寺小屋が設けられている。寺小屋に於いて師 匠が没した時生徒が費用を出し合つて墓を建てる事があり、これを筆子塚といい墓に刻まれ ている。(駿河誌 福澤氏 筆子塚に関し  借用)
 富士郡誌に今泉村の寺小屋の記があり、中に「仁藤長兵衛」の記がある。
     寺小屋の時期  自文久3年(1910)至慶応2年(1913)
     生徒      男  50    女  30    合計80人
 寺小屋の場所は寺市場の坂の頂部で善得寺道が坂に当つた場所の道の東側である。家は大き くなかつたため、場所は大きな家を借りたかまたは幾組かに分けての勉強と思はれる。
 墓には辞世の句がある。  転寝(うたたね)の夢しすきけり時鳥

富士市今泉の昔話(165)清岩寺の由緒(5)

2015年10月25日 08時57分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(165)清岩寺の由緒(5)

清岩寺歴代の御住職に関し、墓誌・位牌・霊簿にお寺の資料を加えて整理してみた。結論は写真の如く纏めて建碑戴いてある。



代   法号              入院         遷化

開山   聞誉上人   厳悦大和尚             文禄2年(1593)示寂
       専修寺巌誉上人開山したが巌悦に譲り江尻に去る。

中興開山 真蓮社正誉上人意順大和尚   駿府竜泉寺より     
       磐田大晃寺を創 遷住 示寂

二世   法蓮社然誉上人善林瞳大和尚  御厨大乗寺より


三世   厭蓮社欣誉上人龍務大和尚   三島林光寺より

      善得寺過去帳に記載あり、兼務と思はれる。有縁あつたか廃寺時に関係がみら       れる。冨栄山専修院清岩寺を称す。

四世   乗蓮社大誉上人龍回大和尚


五世   広蓮社深誉上人存長大和尚


六世   妙蓮社極誉上人教徹大和尚


七世中興 啓蓮社運誉上人梅南大和尚
       
       慶安4年(1651)火災。承応2年(1653)再興。中興。

八世   照蓮社宋誉上人産徹大和尚


九世   親蓮社近誉上人三貞大和尚


十世   体蓮社実誉上人祖袋大和尚


十一世  本蓮社誓誉上人吟龍大和尚


十二世  迎蓮社來誉上人誠阿良育大和尚


十三世  聖蓮社賢誉上人本無和悦大和尚 元禄16年(1703)享保18年(1733)
                                        

十四世  神蓮社通誉上人究達慧俊大和尚 正徳2年(1712)


十五世  普蓮社沾誉上人未開慧辧大和尚


十六世  業蓮社成誉上人俊達義門大和尚             天明6年(1786)                                   
          遷化 72歳

十七世  萬蓮社量誉上人寿門巨祐大和尚 明和5年(1768) 文化11年(1814)                                
                                   


十八世  勝蓮社凡誉上人音海大和尚              文化8年(1811)



十九世  真蓮社実誉上人恵教大和尚              文化11年(1814)


二十世  音蓮社響誉上人流徹大和尚              文政5年(1822)

       遠州蒲西伝寺弟響誉・明誉は一卵塔。


二十一世 修蓮社善誉上人浄厳大和尚


二十二世 徳蓮社弘誉上人宣教大和尚


二十三世 大蓮社円誉上人常頓大和尚   文化11年(1814)


二十四世 金蓮社仙誉上人念孝大和尚


二十五世 操蓮社観誉上人貞旭大和尚   嘉永5年(1852)


二十六世 穏蓮社安誉上人本阿窮無泰従大和尚 安政2年(1855)
       安政元年震災。安誉上人修築。

二十七世 称蓮社念誉上人高阿得往泰信大和尚 明治9年(1876)

       明治13年 今泉の大火主要堂宇類焼 仮本堂建設
二十八世祐蓮社良誉上人信阿如法順保道大和尚                                          明治35(1902 )昭和18(1943)                           
       大正15~昭和2の間良誉上人本堂建築、仮本堂を庫裡に。
       遷化 78歳。

二十九世 誠蓮社僧正実誉上人真阿専修円照大和尚 平成2(1990)
       昭和39年に75坪の庫裡新築。遷化72歳。



三十世        彰誉上人       平成3(1991)入院
           晋山式 平成5年4月3日



別記  1805 文化2年   聡蓮社諦誉上人普念亡詮岸和尚
    1814 文化11年  国誉上人入院
    1822 文政5年   明誉代入院
                響誉上人没
    1841 天保12年  清岩寺直誉在
    1850 嘉永3年   孝誉 三島誓願寺より入院
    1851 嘉永4年   無住
    
    1862 文久2年   清岩寺安誉在













富士市今泉の昔話(164)清岩寺の由緒(4)

2015年10月18日 19時05分43秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(164)清岩寺の由緒(4)

清岩寺は前期の如く3世の欣誉上人により「冨栄山」の山号を附され「冨栄山清岩寺」として発展した。歴代御住職は別項とし、本稿では以降の事項を列挙してみる。

戦国の騒乱漸く治まり、新しい徳川の時代の初期である。慶安4年(1651)十一月二十八日早暁、清岩寺は火災にあつた。これにより堂宇・諸記録すべて灰燼に帰してしまつた。七世運誉上人の時である。運誉上人は諸檀家に勧請し寺の再興の努力を重ねた。
此の時駿河大納言が家光の不興を受け高崎で自刃、家臣一同も罪を受けて東西へ追放された。
1633年の時である。茶屋御殿も破壊され家臣の家も空き家となり始末されたに違いない。
此の家臣の中に「有泉大学」「稲葉但馬守」があり、その屋敷が寺の再興に利用されたと思われる。
穴山梅雪の家臣は武田滅亡後徳川に仕え、駿河大納言に仕えており、梅雪の家臣の中に有泉はあるが稲葉の名はない。駿河大納言の家臣に有泉はあり、稲葉はあるが春日局の二男である。長男は家光に仕え小田原城主従五位下である。二男は同じ従五位下の但馬の守と考えると一致する。

その頃今泉に有泉大学てふ人ありしが武蔵に移れるをもて、そが家を吉久買うて庫裡とし、又おなじ村の稲葉但馬が門を買いて山門となして、(駿河国新風土記)
その頃今泉村に有泉大学武蔵に移れるを、その家を中村吉久買い得て移建庫裡とし、同村の稲葉但馬の門を移し建つ。両氏は穴山家臣なり。(駿河志料)
後、善徳寺の代官、泉大学殿の武道館を本堂に、稲葉但馬の邸を庫裡に、その邸宅の門を山門に移築造営し、(清岩寺沿革)

清岩寺の西の瀬古にあつた駿河大納言の興亡は清岩寺への影響が残されている。然しながら大納言の自刃は1633年であり、吉久の卒年は1605年であり前記には間違いがある。大納言の没後家臣の追放があり、外様は東へ譜代は西へで、有泉は武蔵(江戸)にまた稲葉は九州(細川家)に追放され空き家ができたと思はれる。1635年頃?
駿河大納言の時屋敷の四方に大木戸を設けている。冠木門で尺の角柱でその一つの石基礎が石垣に組まれ今にのこつている。東門は新設の清岩寺の前の坂道にあり、此の坂は土地の人より「清岩寺坂」と呼ばれ記がある。坂はまた明治まで石畳みであつたとの事にて、その石は外されたのち清岩寺の飛び石とされていたが今はない。




家光の代、慶安2年(1649)十月拾二石の御朱印地を拝領、この辺の寺としては大きいほうである。

山門は火事震災に損することなくあると、春日の局の所縁と400年を超す年代は清岩寺の宝と考える。
七世運誉上人の努力に檀家の協力により復興した。此の時塔頭も二寺を備えての盛より上人を中興の祖としている。

全盛期の清岩寺は古図によれば、山門を入つて西側に寿徳院(143坪)、東側に善慶院 (115坪)があつた。(清岩寺沿革)。古図(寛政2年1790十一月)。
塔頭。善慶院、光照院、寿徳院。(駿河志料)
塔頭。善慶院、光照院、寿徳院の三寺ありしが二寺は廃して善慶院のみ存せり。(新風土記)


正徳二年(1712)寺域供養料として拡大。北辺一反五畝。

元文元年(1736)霊簿。14世通誉上人記。

天明二年(1782)山門額。増上寺大僧正誉上人の筆による「冨栄山」の山号。

天明8年(1788)名号塔。社多鸞山記。祐天上人の筆により、側面は清岩寺沿革。

文政6年(1823)清岩寺縁起書きあげ。中村藤左衛門。

安政元年(1854)安政の大地震により堂宇倒壊。8間4方の本堂倒壊。26世安誉上人努力により改築。

明治十三年(1880)二十七世念誉上人の時である。火事は今泉鍛冶屋宿より出火し、今泉全体を類焼清岩寺まで及んだ。慶安4年の火災の時は復興が早かつたが、今回の復興は遅れたようである。時代は明治御一新、廃仏毀釈の嵐の中物価高騰の折計画はなかなか進まなかつた。二十八世良誉上人の再建に対する熱意と努力は檀家を動かし、大正十五年((1926)二月槌音高く工事着工、昭和二年(1927)秋本堂堂宇完成にいたつた。その後庫裡完成を待つて遅れる事四年、昭和六年(1931)三月本堂入仏式を挙行した。回禄の災より再建まで実に五十一年、良誉上人の労や大なるものである。此の時鐘楼・鎮守堂・山門は難を免れた。

昭和39年(1964)第29世実誉上人が庫裡を新築。

昭和40年(1965)境内に六地蔵及び地蔵大士碑(米とぎ石)整備。

平成2年(1990)本堂修理、寺号額本堂に掲示。

平成21年(2009)~平成24年(2012)
 第30世匡頴上人の努力と檀家の総意により下記の如く平成の大整備を行なつた。耐震性の 向上に新建材の使用で外観一新の完成を見た。
 「第一期 本堂・位牌堂改修工事」
 「第二期 客殿・庫裡建替え事」
 「第三期 境内整備工事」


平成25年(2013)鐘楼老朽化し危険のため改築。