富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(18)外伝 善得寺城雑記(1)

2012年08月29日 10時46分51秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(18)外伝 善得寺城 雑記(1)

善得寺城に関係すると思われる諸点の写真と私見
続けたいが、前提私見に欠落が在ったので補記したい。
今川範政は禅秀の乱の後、其の功に依り「下方の庄」
を知行地として与えられ、築城した。
善得寺城である。応永24年(1417)である。

この頃、尹良親王(後醍醐天皇の孫の王子)が応永
4年(1407)に富士宮の宇津野に寓居し、
富士十二郷の兵士と下方三郎(下方の庄の地頭?)
井出(井出の庄の地頭?)などの供奉が浪合記―古書
に記され、応永24年(1427)信濃にてご生害
とある。此の間に地頭が免ぜられ新領主誕生が
考えられる。
文明7年(1475)今川内紛調停の功に依り、
早雲に興国寺城・下方十二郷が与えられた。
此の一文に対して色々の説が在る。城と知行地
には切れない関係が在り、興国寺城は善得寺城の
間違いであるとする説。又下方の域は興国寺城
まで及んでいたとする説等々疑問のみが投げら
れている。
私見としては此の一文は肯定するが、見方として
次の整理をしたい。今川は富士川以東進出の根拠地
として下方(善得寺城を含む)を考え、興国寺城は
更にその前進基地として次への展開を考えての事とし、
領地と考えなかったと私見する。此の為に、
善得寺城は改築増築が重ねられていたと考える。

下方十二郷に就いても定説がないが次を私見する。
横尾・熱原・久弐・原田・加島・乗馬・
馬乗・鱗蛇・田子・吉原・蓼原・三沢以上十二郷。

天文4年(1535)武田信虎駿河侵攻。下方等領す。
天文6年(1537)信虎義元に娘の化粧料として
下方十二郷と興国寺城を返す。
対にして分与が行はれて居るのは不思議である。
城の歴史は後記する。



城に関係し、または関係すると思はれる個所に就き、
逐次写真・所見を記してゆきたい。
番号は図示し大体の位置を示す。
,1、 本国寺前、西濠の南端と私見。南よりの景。(17)に。

2、 「新川」掘作の功労者中村三郎衛門の顕彰碑。(17)に。
善得寺城築城の折には、和田川は此処を流れて要害
を為していたが、富士川の本流が西に変つた時、其の
本流跡に流れ、今泉郷地の水利が失はれた為「新川」
が増強された。

城は富士市上和田の城山の一帯に配置されているが、此の辺
一帯は曾比奈熔岩流の末端に位置し、各所に熔岩流の露頭が
見られる。此の露頭の上に組まれた野面積みの連続の石垣は
城に関しての場所もあると私見する。単なる野面積みの石垣は
多くは其の地の境界又は段差の為であり、城の名残とは考え
られないと教示を戴いている。
城の東はガマ(池沢地)に臨む要害で、熔岩の露頭を含む
野面積みの石垣群を南寄り列挙して見る。
3、城の搦め手口と考えられる部分を堰枠より遠望。





4、「搦め手」と考えられる部分の南の要害。熔岩の
露頭に石垣が組まれているが荒れている。史跡ならば。




5、搦め手を東寄り見た写真。水神様が祭られている。




6、搦め手の北側の部分。大きな露頭を包んで石垣が
組まれている。



7、水廓と考えられる部分の東の要害。6に続く。




8、東の要害の北端。北大空壕の東端であり、此の地に
在った廃寺意楽院依りの名意楽道の末端。崖の上に福
応寺が在る。此処より空濠は愛鷹神社の北を通り吉原
公園内の空堀推定地に続く。




10、福応寺前の今泉往還。左の崖下に始まる北の
大空壕は今は埋められて直線の道とな り愛鷹神社
に通ずる。往還は左に別れて廓の曲折に従い虎口
に通ずる。



























富士市今泉に昔話(17)外伝 善得寺城(3)その形

2012年08月24日 16時20分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(17)外伝善得寺城(3)其の形 

  思はずの一憩、院中よりの送稿も壱興。
  始めたばかりの稿続けたい。

善得寺城の形として連郭式山城の形はとり得
ないことを先記した。
場所は城山を中心とする梯郭式平城と考える時、
既に住宅が密集している為、何か地形的に城を
推定することが無いかと考えた。

等高線図を見たとき、明らかに差の見える窪地
の連続を発見した。本国寺の前より虎口を通り
北のk理髪店までの幅20m程の1m程度の
窪地である。これは大手門を含む西の大空壕の
跡と私見した。道路を造る時埋めきれなかった
名残の窪地ではないだろうか。
西空堀(私称)を考える時に東泉院の谷と福応寺
の前の谷が結ばれ平地化されているが、西空堀と
直交する北空堀(私称)が在った場所と考えられる。
これに出丸と考える東泉院と北廓と考えられる
福応寺の部分更に大空堀と東の沼南の川に囲まれた
本廓に依り善得寺城の姿が見えてくる。



本廓の中には、家康が北条征伐後、此の地より
善得寺御殿への道(後の今泉往還)を造って
いるが、不思議の曲折を為している。これは
掻き上げ式で為した空堀を埋めての曲折であり
三の丸・二の丸・本丸・水廓(私称)が
考えられ図示した。





城の築城には四神相応の理が在り此の地は
それに適っている。北に富士山、西に根方街道、
南に和田川、東に「ガマ」(沼地帯)の配置
は当に果っている。出丸と本廓で根方街道を
扼している。根方街道は古くよりの主要地方道
であり、城の配置に意味が在ったかもしれない。
富士川の渡船場「日吉」依り根方街道として、
北行し鎌倉古道に達する古道が見える。

以上の構想に依り各所の写真・所見等記して見たい。
先ず本国寺前で大西堀の南端の写真である。和田川
は現在此処で南下し元の富士川の本流の位置に流れ
役目を変えた。雁がね堤に依る加島五千石の誕生
である。城の南の要害であった川の役は終え、
今泉郷地への灌漑は用成さなくなり、僅かに
田宿川の源流とのみ残るようになった。
此の時に別記する予定だが、中村三郎衛門
(清岩寺開基)が多大の財力・労力を掛けて
本国寺より堰枠(現在の地名となっているが
水位調節装置)まで水路を開設し、「新川」
と呼ばれている。顕彰碑が建てられている。









此処から北の虎口(大手門)の土橋までは水濠で以降の大西空堀に接続する。
この部分の東に星一(渡井呉服屋)が在り、西に日野屋と言ふ酒屋が在り共に勢を競って
いた。桑海の変である。





















富士市今泉の昔話(16)善得寺城(2)

2012年08月14日 08時00分54秒 | 昔話
16外伝 善得寺城(2)その形
善得寺城は一般的に静岡で発見された下記の
連郭式の山城図が言はれてきた。この図には
方位が在り、縮尺が在るため現地に当てはまるべく
工夫がされてきた。此の地の郷土史の先達鈴木氏が
愛鷹山へ向けて図を適合するべく努力したもので
あるが、大空壕の適合は如何しても出来なかった
様である。
発見された善得寺城といわれる山城図を示す。
囲僥する大きな空堀が目立ち、寸法の在る
数か所が在り縮尺が推定でき現場に適合させて見れる。








鈴木氏が現場に適合させるべく努力された図を示す。
図に愛鷹山の表記が在り、そのため主軸を愛鷹山に
向けている。この城の大きさより東泉院だけでは足りず、
上和田の城山一帯に適合させているが、大空壕の
適合は出来なかった。又城の中心を示すことも
出来なかった。確信できなかったと思はれる。






鈴木氏の図に問題が考えられるため、愛鷹山の記が
富士山のミスと考え、主軸を富士山に向けて同じ
縮尺で私見を書いてみた図である。これでは城の
中心に愛鷹神社の高みが当たるが、大空壕の適合の
現地は考えられなかった。





決論的には連郭式山城図は善得寺城に当たらず、
小田原・静岡の各氏の言われるように、興国寺城
の物と思はれる。下図の様に興国寺城の試掘の
写真の空壕が在り、私見も同感である。




以下更に連郭式山城を廃し、
梯郭式平城の私見を提案したい。






富士市今泉の昔話(15)善得寺城

2012年08月09日 08時52分04秒 | 昔話
15 外伝 善得寺城(1)其の場所

善得寺城は今川範政が此の地を領した時にそ
の拠点として築城を始めとしている。其の
場所に関しては明示した図は無いが、古文書・
地形・地名等に推定しうるものが在るため、
まとめて私見を述べて見たい。応永24年
(1417)の築城である。

古文書に「和田川を濠とし荻の原の地に」
とある。富士川の本流が在るに抱はらず、
平流していた和田川の名にしているのは、
和田川の水量が多く壕となし得る状況
だったと思はれる。又荻の原の地として
いるが、現在この地に荻の原の名は無く、
さらに北の一色の地に名が残っている。
当時は上荻の原村と下荻の原村が在り名
は北にのみ残り、下には残っていない。
然し東泉院の記に荻の原の名が在り、
場所としては現在の富士市上和田の場所
としてよいと考える。

東泉院の資料に御殿地の図があり、徳川家康
の御殿の位置を図示している。(駿国雑志所載)
図を示すが此れには幾つかの興味の点が在る。
注記に下記が在る。
城は虎口の石積みより15間の地に城山、
一町の地に城跡。
家康の御殿は石積みより10町の地に。
今泉往還は同様に此処より発し家康の御殿後、
吹上の大宮道を北上し鎌倉古道に達している。
これは日吉より北上していた根方街道が此の
往還を経て鎌倉古道に至る道に変わったと
思はれる。此の往還が上和田の地で何故に
大きく曲折しているのか、私見したい

虎口(こぐち)とは城の大手門等を守るため,
設ける石積みの囲みであり色々の形が在る。
虎口(ここう)と読むと戦場での危険の場所・
時を言い虎口を脱すると言って危険を逃れる
時の慣用語である。虎口は其の役の為、外側
は狭く内側大手門側は広くなっており、今に
残る形は城の形を残している。石積みは昔の
物で無く時代は新らしいが。





此の地に城を感じさせる幾つかの地名が在る。
上和田区の城山。
上和田区の鍛冶屋瀬古。城に今の島田市より
刀鍛冶島田氏を移住させたと言われている。
武具を準備するための城に必要地名と
言はれている。

此の地の東に武家屋敷を考えさせる地名が在る。
立小路・向小路・西小路・曽我小路である。
義元は善得寺を瀬古の地に新設する時、揚げ水
(戦国時代城の為に遠方より高みに水を供給する
設備で大中寺に記が在る)として中島よりの
水利を造ったが、此の時末端を十王子神社の
高みまでサイフォンし、これよりこの武家屋敷の
地域まで流下させている。これは別記した。
武家屋敷と私見する向小路の写真を示す。
十字路の左は立小路、右は川戸道である。



善得寺城は以上の様に今泉上和田の地に在り、
規模はたんに東泉院の場所だけでなく、
上和田一帯の広さと考え、私見を進めたい。
























富士市今泉の昔話(14)

2012年08月06日 09時04分05秒 | 昔話
14 善得寺(考)其の場所(6)
善得寺は草創の一次期を天寧庵として、須津の地に
8年を経過、「香語」の如くさらに西へ移転した。
大壇越上杉憲顯・禅助の意による良地を択んでの
移転であり、大勲策禅師を開山として名を福王寺とした。
臨済宗建長寺派に多い名であり、宗風の敷衍と言える。
これは又上杉の勢力を富士川の東岸まで広げた事
と他ならない。
応安3年の移転であり、場所は勢子の西とのみ記されている。
今まで一汎的に現在の福応寺の場所と考えられていたが、異
論を持ちたい。
勢子の西とは勢子村の西部か或いは勢子
(瀬古の地名の異字とし)の西との考えがあるが、
此処では瀬古の西と考え現在の地名「水の上」
辺と考える。
ただし現在の福応寺の付近で無く、福応寺の東の
「八軒村」呼ばれる地域と考える。これは現在の
福応寺の付近は岡であり、水利無く、八軒村と
呼ばれるの辺のみに水利が在り寺が
建てられたとの考えである。現在はこの辺には水利無く、
此処一帯は曾比奈熔岩流の地域で水の湧くところは無い
との由である。然しながら二中の北に大木の続く
窪地が続いており、水気を感ずるため尚勉強したい。

富士南麓の湧水地の変遷も勉強したい。
地図および窪地の写真を示す。






現在の八軒村(通称)の地の写真である。



現在の福応寺は、寺伝に依れば正徳2年(1712)
古岸和尚の開山とされている。由緒書には上杉憲顕を開基、
大勲策禅師を開山始祖としている。寛保3年(1734)
の火災で堂宇・資料はすべて失はれ不詳とされている。
福王寺は更に拡大され寺市場に移り、名も善得寺と
改められた。此処に善得寺城を築城するに当たり、
北廓(私称)の場所に鬼門鎮護として、善得寺の院外
塔頭の福王院を置いたと考える。福王院は善得寺と
共に衰微したが、古岸和尚が建長寺派依り妙心寺派に
改め福応寺と再興したと考える

現在の福応寺は北と東を大きな崖で区切られている。
これは善得寺城を築城する時此処を北廓(私称)の要害
とし北の大空壕に繋ぐと考えた。





善得寺城は今まで連郭式山城として、善得寺城と称する
図が一汎的にされているが、これは興国寺城の図とする
方々が在り、自分もこれに同調し、善得寺城は梯郭式
平城と考え後記したい。
以上にて「善得寺の位置」に就いての稿を終え、
以降伽藍等更には外伝善得寺城等に進めたい。
第一次   天寧寺   須津小県
 第二次   福王寺   今泉水の上
 第三次   善得寺   今泉寺市場     北條に依る焼き打ち灰燼
 第四次   善得寺   今泉瀬古      武田に依る焼き打ち灰燼
 第五次   善徳寺   今泉寺市場延寿堂  廃寺に依り法雲寺に合併