富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(167)清岩寺の由緒(7)

2015年11月15日 19時08分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(167)清岩寺の由緒(7)

特記の墓

医師 佐々提玄  延宝4年(1676)生、享保11年(1727)没。
 元近江に住していたが孝子五郎衛門の表彰に関し其の教導のため招聘され吹上に居を構えた と伝えられている。代を重ねて地域の医療に尽くされた。江戸期の儒者細井広沢と交あり、
 2代の墓に広沢の筆が残されていた。最近墓地整理のため墓石は整理されたようである。
 広沢は赤穂義士に好意示しており、また剣術の名士で堀部安兵衛と同門だつた。また吹上の 天神社の社額は広沢の筆といはれている。
 句を嗜み凌川と号す。


戒名 大徳の墓
 特記の戒名で寺の関係者や寺の建設・復興に功のあつた方への戒名ときている。禅宗(善得 寺に)や日蓮宗(蓮光寺に)でもこの戒名がみられる。
 墓で確認できぬ方は霊簿に依らせて戴いた。  


 願誉宗弘大徳  元禄14年10月12日(1701)仁藤家祖

 禅誉祖栄大徳  宝永3年9月17日(1706)末寺西運寺住

 相誉伝秀大徳 宝永4年5月28日(1707) 寺塔善慶院住

 順誉楽信大徳 享保20年8月29日(1735)木綿島 彦右衛門事

 胎誉玄悦大徳 宝暦5年6月15日(1755)  小野玄悦父

 戴誉浄運大徳 宝暦8年7月6日(1758)吉原 西運寺住

 通山徹心大徳 宝暦13年11月18日(1763)中野 玄悦仏

 真誉宗務大徳 文化5年11月28日(1808)  無量院住

 俊誉宗旨方英大徳 文政10年2月23日(1827)仁藤要右衛門

 顕誉道務大徳 文政10年7月21日(1827)依田橋 無量院住


白雲軒雁行   文政3年(1820)
 俳諧の名と思はれるが近在の会には名が見られない。花村家の系列とあるが檀家に名は切れ ている。


古歴の墓

開創 天正8年(1580)時代は檀家も少なく、したがつて古歴の墓も少ないが列記してみる。墓記は判読困難が多く、調査不十分のため霊簿をお借りした。何時の日か補記したい。
 慶長5年(1600)  中村吉久妻
 慶長19年(1614) 中村吉久
 延宝3年(1675)  厚原 吉左衛門
 寛文6年(1666)  同 家内
 貞亨5年(1688)  吉原 小松屋伝吉
 元禄6年(1693)  同 家内


塔類


 名号塔
  清岩寺山門の前に「南無阿弥陀仏」の書と清岩寺の開創の記を詳しく書いてある。
  書は祐天上人により書かれ、天明2年(1782)に建碑された。

  富士郡浄土宗最初清岩寺者本在干同郡今泉邨田家西南称専修寺聞誉上人所創基乃不断浄業  之道場也ー - -


 巡礼塔
  西国巡礼に端を発してより各地に順拝が行われ、当地にも駿豆横道33所や富士横道33  所などがあつた。念じて満願の時には記念の塔が建てられた。駿豆横道の塔(仁藤)と巡  礼塔がある。


 地蔵大士塔
  書は何方か判らないが天明の大飢饉の折火葬場に建てられたと思はれる。窯場と呼ばれる  高台(善得寺より清岩寺に譲られた場所)に六地蔵と共にあつたが、今は清岩寺の寺内に  設置されている。
  裏の不思議な石の窪みは地蔵大士の梵字の略号と思はれる。
  中村氏の施粥の篤行の折の「米とぎ石」の伝承がある。

 六地蔵
  地蔵大士の塔と共に移設された六地蔵と新たに寄進された六地蔵とがある。


 礎石
  駿河大納言の茶屋御殿が瀬古の地にあつた時その四方に木戸を設けられたと伝記されてい  る。東の木戸は清岩寺坂の頂部にあり明治の頃まであつたといふ。坂を整備する時木戸は  取り除かれその基礎の2ケは清岩寺の石垣に埋められていると伝承がある。
  1ケは山門参道の東側の石垣に確認される1尺の角柱の基礎である。1ケは駐車場の南端  にあり大事にしたい。
 御朱印地境界石
  参道の飛び石に使用されていたが今はない。
 石畳の石
  清岩寺坂は駿河大納言の時石畳が造られ明治まであつたが撤去後参道の飛び石に使用され  ていた。参道整備に外されいまはない


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
富士市今泉の昔話(167)清岩寺の由緒(7) (わらべ地蔵)
2016-01-02 10:50:48
初めまして、わらべ地蔵と申します。ジモネタで今泉の昔話 が目につき読まさせていただきました。
佐々提玄のお墓はまで残っています。
返信する

コメントを投稿