富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(26)

2012年10月25日 18時05分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(26)善得寺考 伽藍の配置(4)
七堂伽藍の北部を記したいが、全体配置の私案を
再掲する。



七堂伽藍の推定の北部には現在吹上の東西の道路が
在る。あるお寺のご住職に教えて戴いたが、法塔と
方丈との間には道路はありえないとの事である。
従って道路があれば、この図の推定は可笑しいこと
になる。私案として、信玄の侵攻により焦土化した
後、穴山梅節が領主となり、武田の郷士を此の地に
入植させた時に、此処に道路を造り其の南北で使用
目的を変えたと考える。南は官地にし、北を入植地
としたと考える。此の官地の部分に家康の善得寺御
殿が建てられたと考えられ、入植に就いては後に更
に記したい。
吹上の道路の東端寄りの写真を示す。



道路の左(南)には庫裏が在ったと推定するが、
痕跡は無い。
道路は呼子坂(青年団に依り呼称されたが、実
際は飯森神社の坂である)の頂より始まるが、
此処に清岩寺が在る。清岩寺に就いては更に述
べ、写真で入口部を示す。



吹上の道路の東端に北向きの道が在る。其の部
分の写真を示す。
此の道路は幕末の古地図に、大宮道と書かれて
いる。此処より北へ神戸・今宮・大淵を経て大
宮への道が、この時代の主要道だったと考えら
れる。
此の道は家康の御殿を示す東泉院依りの古地図
にあり、更に北へ伸びて鎌倉古道に通じている。
この時代の根方街道と考えられる。
家康の時代には呼び子坂の道は無く、駿河大納言
の時に開設され、頂に茶屋御殿を守る東の冠木門
が設けられている。この時代に根方街道は南下し、
此処より三島製紙の南の根方街道に通じ、明治ま
で続いたと考える。
道路の左(西)には空き地が在り、此処を市に
依り試掘して戴いた。柱の基礎と思はれる石置が
4ケ見られたが、これに就いては次週に記したい。



道路の中央で七堂伽藍の軸芯と直交し、左(南)
に法塔、右(北)に方丈が在ったと私見する為、
妙心寺の写真をお借りし当時を偲んでみたい。
妙心寺の案内コースとして法塔から明智風呂が
良くある。
法塔は天井の雲竜図が名高く又黄色調の鐘音も
きかせて戴ける。
この折に豪壮の建物の木は何処からかお聞きし
たところ
駿河の東山依りと教えて戴いた。帰宅し、駿河
の東山に就き調査して歩いた。御殿場に東山の
地名が在るが、これは新しく該当せず、更に郷
土史家を訪ね歩いて、裾野の下和田と言ふ所
より大量の欅の大木が出されて居る事が残さ
れていた。
これに就いては別に述べたいが、5尺に及ぶと
考えられる多量の大木は驚きであった。
義元が大寺を建てる時、其の大木が愛鷹山より
得られた故と考えられる。勢子辻の神代杉の発
掘時欅の大木もあったと伝承されている。



妙心寺の法塔より方丈への渡り廊の写真を示す。
この様に当時は吹上の東西の道は無かった筈で
ある。



東西の道の中央より南下する西廊の跡と考える
道の北端を示す。此の道の左(東)には法塔・
仏殿・山門が続き、右(西)には僧堂・禅鐘
(洪鐘)が在ったはずである。



東西道路の北側に庚申堂があったが、今は宅地
となり、昔の姿は無い。此の地は善得寺の飛び
地で廃寺の時に清岩寺に譲られたと思はれ、明
治の時期には清岩寺の名になっている。
此処が東谷和尚が雪斎の供養をした場所と推定
する。
南には護国廟だったと考える八幡神社が在った
が今は天神社になっている。鳥居の下に数基の
塚が在り、善得寺村の記が在ったのを子供心に
覚えているが、今は無い。吹上の何処かに在る
と考えるが見当たらず、残念である。力石は祀
られている。















































富士市今泉の昔話(25)

2012年10月18日 09時29分58秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(25)善得寺考 伽藍の配置(3)

七堂伽藍の配置の中央部の推定を示す。
中央部の現在は御守殿神社への道になっている。昔の野面
積みの石垣はコンクリの擁壁になっている。
神社部分は約3mの高みになっているが、昔の丘の名残と
いふより、高みを造ったと思はれる。此処に昔は稲荷神社
と八幡神社が在り、善得寺の護国廟となっていたと思はれ
るが、今は稲荷神社の中に応神天皇を併祇しており、八幡
神社は無い。名残として、力石が残されており、先年天神
社の中に整備した。
高みの八幡社には頼朝が参詣し、戦勝を祈願した伝承が在
る。此の高みより、富士川の平家軍を見下ろす頼朝の姿が
偲ばれる。
御守殿神社は護国廟の考えと共に、駿河大納言の御殿を守
る為に建てたとの説、また田宿の人々が此処に移住した時
其の守りとして建てたとの説もある。
社域に此の地の自治に功あった広瀬翁の顕彰碑が在る.翁よ
りは此の地の伝承を多く学んだ。



写真の左(南)には山門が在ったと考えられる為、妙心寺
の山門の写真で昔を偲んでみたい。山門は雪斎の妙心寺へ
の入山の折に寄進したものである。



道の右(北)には仏殿が聳えていたと考えられる為、妙心寺
の写真をお借りして見る。



道の東には、浴室・浴鐘・塔頭(詳細不明)があり、東司
も在ったかもしれない。妙心寺の浴室の写真を示す。妙心
寺の浴室は明智風呂として名が知られている。浴室は三黙
堂の一つで、修業の場であり、東廊で各塔楼と結ばれていた。
前の舗道は昔の東廊の跡と推定する。



雪斎の供養香語の一文「吹上の南丘を撰びて凹凸の地を引
き累石を積んで」の如く、此の伽藍の中央部を中心に、
約20,000立方mの土量を動かす大工事だったと考え
られる。
此の土で埋め立てまた築山(A家の茶山として昭和の中期
まであった)、山神社の山に使われたに違いない。
















富士市今泉の昔話(24)

2012年10月10日 18時29分55秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(24)善得寺考 伽藍の配置(2)

伽藍の配置に就き私見を記したが、現在の場所と昔を
よく残す妙心寺の伽藍の写真と対比しつつ昔を偲んで
みたい。七堂伽藍の南の部分である。


此の推定配置図の芯は御殿の南北の道路である。此の
道路の先に北極星が輝いているはずである。従って
この延長線上に日光の陽明門が在り、その上に北極星
が輝いている。北極星が陽明門の上に輝くことを知ら
ない人が多いが、北を大事にする道教の考えに依る
ようである。
御殿の南北の道路を南寄り見た写真であるが、此の
左(西)に在ったと考える伽藍を妙心寺の写真を借り
て想像して見たい。手前より仏殿・法塔、先は方丈である。



写真の舗装の部分が東廊の焼けた跡であり、御殿の
南北の道に当たると考える。



道路の左(西)に放生池が在ったと考え、其の部の写真で
ある。池依りの南と北の写真を続けて示す。池には天界橋
といふ石橋が在った。



放生池の南に勅使門、北に山門が考えられ、妙心寺の其の
部の写真を示す。








七堂伽藍の南の部分の御殿の坂本の坂の頂の写真を示して
きたが、坂の頂より西方の下方向の写真を示す。右に西廊
に当たる部が見え、下には寺市場・田宿の道が交差する。
右は勅使門に当たる部分と考えるが、昔の野面積みの石垣
が今はコンクリの擁壁に変はっている。左に何か堂・塔と
思はれる野面積みの基壇が在る。




西廊に当たると思はれる御守殿神社前の道を南端の坂本の坂
依り望む。右側に仏殿などの主軸、左に東司が考えられるが
場所が狭く、東に東司を配したが違っているかもしれない。
コンクリ部はいずれも昔は野面積みの石垣だった。
道路のコンクリ蓋の水路は放生池の廃水路と考えられる。









































富士市今泉の昔話(23)

2012年10月03日 17時49分26秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(23)善得寺考 伽藍の配置(1)

今川義元の中興した善得寺の場所として、吹上・御殿
に跨る約10町歩の地を寺域として次の理由に依り先
に推定した。
雪斎の為の香語(吹上の南丘を択びてー  )、地形
(北に向く二本の平行の道等の広い地形)、今川の官
寺、護国廟・栢の大樹の所在、臨済宗の禅の修行専門
道場。
地形図を示す。


禅の修行専門道場殊にの臨済宗の七堂伽藍の配置には
「きまり」が在るようである。
七堂伽藍の中心に勅使門・放生池・山門・仏殿・法塔・
方丈を一直線に配置し、其の軸芯を北に向けている。
何故に北向きなのか勉強したが尚わからない。更に伽藍
の配置は、人間の五体(頭・両手・両足或いは  )
(五大とも言ふ)に擬え、頭に方丈又は法塔、両手に
庫裏と禅堂又は僧堂、両足に浴室と東司を配置している。
これを行道(経を唱えながらの歩行修業)の為の東廊・
西廊で結び体を為している。
此の伽藍配置は京都五山・甲府五山また富山の瑞竜寺・
大乗寺等各地の大寺に見られるが例の幾つかを示す。
京都 相国寺
山門・仏殿・廊は戦禍で失われているが配置は解る。
水上勉の「雁の寺」の瑞春院がみられる。


京都 妙心寺
善得寺の本山であり、図のように50余の塔頭を
有する大寺で、伽藍の配置はよく残されている。
東廊、西廊は戦禍で失はれている。形を残す数少
ない寺院である。寺の建物の多くの柱に愛鷹山
(裾野市下和田)の欅材が使用されている。此の
詳細は別記したい。


伽藍の中に三黙堂と言はれる堂が在る。禅堂・
東司・浴室である。此処では声を出すことは
許されず、用は木版・鐘などで知らされる。
つまり東司・浴室共に大事な修行の場所である。
此の為に五大の中に含まれて居るとの事である。
饂飩供養の時だけは音を出すことが許されると、案
内の僧の方が笑って話して下さった。

寺域の西北に倉庫類がおかれ、経堂が良く見られる。

寺域の東北、鬼門の場所に其の鎮護の意味で、
開山堂が良く見られる。

以上の事より七堂伽藍を、吹上・御殿の場所に置いて
みた。約10,000平方mの地は適合していると
自認した。
図中、東司の場所を西に置こうとしたが、場所が
狭く、東に置いた。相違しているかもしれない。