富士市今泉の昔話(26)善得寺考 伽藍の配置(4)
七堂伽藍の北部を記したいが、全体配置の私案を
再掲する。
七堂伽藍の推定の北部には現在吹上の東西の道路が
在る。あるお寺のご住職に教えて戴いたが、法塔と
方丈との間には道路はありえないとの事である。
従って道路があれば、この図の推定は可笑しいこと
になる。私案として、信玄の侵攻により焦土化した
後、穴山梅節が領主となり、武田の郷士を此の地に
入植させた時に、此処に道路を造り其の南北で使用
目的を変えたと考える。南は官地にし、北を入植地
としたと考える。此の官地の部分に家康の善得寺御
殿が建てられたと考えられ、入植に就いては後に更
に記したい。
吹上の道路の東端寄りの写真を示す。
道路の左(南)には庫裏が在ったと推定するが、
痕跡は無い。
道路は呼子坂(青年団に依り呼称されたが、実
際は飯森神社の坂である)の頂より始まるが、
此処に清岩寺が在る。清岩寺に就いては更に述
べ、写真で入口部を示す。
吹上の道路の東端に北向きの道が在る。其の部
分の写真を示す。
此の道路は幕末の古地図に、大宮道と書かれて
いる。此処より北へ神戸・今宮・大淵を経て大
宮への道が、この時代の主要道だったと考えら
れる。
此の道は家康の御殿を示す東泉院依りの古地図
にあり、更に北へ伸びて鎌倉古道に通じている。
この時代の根方街道と考えられる。
家康の時代には呼び子坂の道は無く、駿河大納言
の時に開設され、頂に茶屋御殿を守る東の冠木門
が設けられている。この時代に根方街道は南下し、
此処より三島製紙の南の根方街道に通じ、明治ま
で続いたと考える。
道路の左(西)には空き地が在り、此処を市に
依り試掘して戴いた。柱の基礎と思はれる石置が
4ケ見られたが、これに就いては次週に記したい。
道路の中央で七堂伽藍の軸芯と直交し、左(南)
に法塔、右(北)に方丈が在ったと私見する為、
妙心寺の写真をお借りし当時を偲んでみたい。
妙心寺の案内コースとして法塔から明智風呂が
良くある。
法塔は天井の雲竜図が名高く又黄色調の鐘音も
きかせて戴ける。
この折に豪壮の建物の木は何処からかお聞きし
たところ
駿河の東山依りと教えて戴いた。帰宅し、駿河
の東山に就き調査して歩いた。御殿場に東山の
地名が在るが、これは新しく該当せず、更に郷
土史家を訪ね歩いて、裾野の下和田と言ふ所
より大量の欅の大木が出されて居る事が残さ
れていた。
これに就いては別に述べたいが、5尺に及ぶと
考えられる多量の大木は驚きであった。
義元が大寺を建てる時、其の大木が愛鷹山より
得られた故と考えられる。勢子辻の神代杉の発
掘時欅の大木もあったと伝承されている。
妙心寺の法塔より方丈への渡り廊の写真を示す。
この様に当時は吹上の東西の道は無かった筈で
ある。
東西の道の中央より南下する西廊の跡と考える
道の北端を示す。此の道の左(東)には法塔・
仏殿・山門が続き、右(西)には僧堂・禅鐘
(洪鐘)が在ったはずである。
東西道路の北側に庚申堂があったが、今は宅地
となり、昔の姿は無い。此の地は善得寺の飛び
地で廃寺の時に清岩寺に譲られたと思はれ、明
治の時期には清岩寺の名になっている。
此処が東谷和尚が雪斎の供養をした場所と推定
する。
南には護国廟だったと考える八幡神社が在った
が今は天神社になっている。鳥居の下に数基の
塚が在り、善得寺村の記が在ったのを子供心に
覚えているが、今は無い。吹上の何処かに在る
と考えるが見当たらず、残念である。力石は祀
られている。
七堂伽藍の北部を記したいが、全体配置の私案を
再掲する。
七堂伽藍の推定の北部には現在吹上の東西の道路が
在る。あるお寺のご住職に教えて戴いたが、法塔と
方丈との間には道路はありえないとの事である。
従って道路があれば、この図の推定は可笑しいこと
になる。私案として、信玄の侵攻により焦土化した
後、穴山梅節が領主となり、武田の郷士を此の地に
入植させた時に、此処に道路を造り其の南北で使用
目的を変えたと考える。南は官地にし、北を入植地
としたと考える。此の官地の部分に家康の善得寺御
殿が建てられたと考えられ、入植に就いては後に更
に記したい。
吹上の道路の東端寄りの写真を示す。
道路の左(南)には庫裏が在ったと推定するが、
痕跡は無い。
道路は呼子坂(青年団に依り呼称されたが、実
際は飯森神社の坂である)の頂より始まるが、
此処に清岩寺が在る。清岩寺に就いては更に述
べ、写真で入口部を示す。
吹上の道路の東端に北向きの道が在る。其の部
分の写真を示す。
此の道路は幕末の古地図に、大宮道と書かれて
いる。此処より北へ神戸・今宮・大淵を経て大
宮への道が、この時代の主要道だったと考えら
れる。
此の道は家康の御殿を示す東泉院依りの古地図
にあり、更に北へ伸びて鎌倉古道に通じている。
この時代の根方街道と考えられる。
家康の時代には呼び子坂の道は無く、駿河大納言
の時に開設され、頂に茶屋御殿を守る東の冠木門
が設けられている。この時代に根方街道は南下し、
此処より三島製紙の南の根方街道に通じ、明治ま
で続いたと考える。
道路の左(西)には空き地が在り、此処を市に
依り試掘して戴いた。柱の基礎と思はれる石置が
4ケ見られたが、これに就いては次週に記したい。
道路の中央で七堂伽藍の軸芯と直交し、左(南)
に法塔、右(北)に方丈が在ったと私見する為、
妙心寺の写真をお借りし当時を偲んでみたい。
妙心寺の案内コースとして法塔から明智風呂が
良くある。
法塔は天井の雲竜図が名高く又黄色調の鐘音も
きかせて戴ける。
この折に豪壮の建物の木は何処からかお聞きし
たところ
駿河の東山依りと教えて戴いた。帰宅し、駿河
の東山に就き調査して歩いた。御殿場に東山の
地名が在るが、これは新しく該当せず、更に郷
土史家を訪ね歩いて、裾野の下和田と言ふ所
より大量の欅の大木が出されて居る事が残さ
れていた。
これに就いては別に述べたいが、5尺に及ぶと
考えられる多量の大木は驚きであった。
義元が大寺を建てる時、其の大木が愛鷹山より
得られた故と考えられる。勢子辻の神代杉の発
掘時欅の大木もあったと伝承されている。
妙心寺の法塔より方丈への渡り廊の写真を示す。
この様に当時は吹上の東西の道は無かった筈で
ある。
東西の道の中央より南下する西廊の跡と考える
道の北端を示す。此の道の左(東)には法塔・
仏殿・山門が続き、右(西)には僧堂・禅鐘
(洪鐘)が在ったはずである。
東西道路の北側に庚申堂があったが、今は宅地
となり、昔の姿は無い。此の地は善得寺の飛び
地で廃寺の時に清岩寺に譲られたと思はれ、明
治の時期には清岩寺の名になっている。
此処が東谷和尚が雪斎の供養をした場所と推定
する。
南には護国廟だったと考える八幡神社が在った
が今は天神社になっている。鳥居の下に数基の
塚が在り、善得寺村の記が在ったのを子供心に
覚えているが、今は無い。吹上の何処かに在る
と考えるが見当たらず、残念である。力石は祀
られている。