富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(22)今泉小学校の思い出(2)

2012年09月29日 08時15分19秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(22)今泉小学校の思い出(2)

今泉小学校が新校舎に移転の後、水の上の教場
は整備変容した。今泉公民館となり、図書館の
今泉分室となり、今泉地区の文化・福祉の拠点
となった。
当時を示すものは、記念碑と金子彦太郎氏の銅像
のみである。思い出を記して見たい。



遥かなり、わが師、わが友。
我が師は先年郷土史の大先達として活躍された
鈴木富夫先生をお送りしてより、お話出来る
方は奈木先生以外はいなくなった。淋しい限り
である。原先生、草分先生、渡辺先生、今村先生、
木下先生、小林先生、佐野先生、塩川先生、丹羽
先生皆思い出につながり、御顔が走馬灯のように
流れる。
わが友も既に残るは50%を割り、体の弱かった
自分が残っているのも感慨である。

学校には地区ごとに集まり、隊列を組み、上級生
がリードし、毎朝通学した。通学路は延寿堂道を
とおり、後に知る善得寺の卵塔を見て通った。

2・26の大雪には大喜びで、雪投げ竹スキー等
で積雪10cmを遊んだ。子供心に事件の事は
あまり覚えていない。



記念碑は下の運動場の東の端に、銅像は北の端に
建てられている。下の運動場の西端に国旗掲揚台
が在り、此の前に毎朝全生徒が集まり、朝礼・体
操を行った。



下の運動場の東は大きな石垣で、写真の自動車の
部分には椋の大樹が数本あり、大きな日陰を造っ
ていた。文集「椋の木」の名は此れより取り、国語
に熱心だった今村先生がリード下さり、思い出で
ある。今村先生の思い出は深く、この頃より自分の
詩心・句心を培って下さったこと有り難く、今の
俳号「壷天」に通じ、一生のご厚誼を戴いた。



運動場が狭い為、よく山の運動場を使った。往復
30分掛かる為、往復自体が良い運動だったと覚
えている。福応寺の前を通り、愛鷹神社の北を
経て畑道をよく走った。

山の運動場は、後に二中の敷地になった。付近には
雑木山が数あった。雑木は当時の薪となり、炭の
原料となり生活を支えていた。思い出の景色である。
雑木山は放課後の良い遊び場であった。蝶を追い、
甲虫・挟み虫を捕え、時には蜂の幼虫
等も食べた。今ではとても食べられぬが。

沢蟹・蝗も良く取った。よく食べた。
虎杖・酸い葉・つばな等も子供の食糧だった。
明るい雑木山には金蘭・銀蘭・春蘭等が賑やかに
咲いていた。
終戦後、雑木山が次第に減り、金蘭・銀蘭が見
られなくなり、更には春蘭も見えなくなるのを
淋しく覚えている。

毎年、回虫駆除の為に、海人草を飲まされたのは
嫌な思い出である。

体操の後など汗を消すのに石垣の裾の湧水が有り
難かった。
写真の正面の擁壁の裾に、滾々と湧水が在り、
四季同じ温度で有り難かった。時の経過で
湧かなくなったか,あるいは道路工事の為に
塞いだかわからないが淋しい。下の運動場
より、石段を駆け下り、湧水で汗をふき、
湧水を飲んだ。
左の端の田宿川の橋に学校橋の名が残っている。
石垣の上に椋の木が在った。石垣の上の左に教員室
が在った。
上の運動場に二階建ての校舎3棟があったが、
いずれも古く、30cmほどの丸太の支柱で支え
られていた。異様な姿だった。



昭和12年5月茨原の新校舎が完成し、移転した。
移転の日は、水の上の教場より新校舎まで、生徒
が並び、手送り出来るものはすべて手送りした。
机・椅子・掃除道具から薪まであらゆるものを手
送りした。自分は今の今泉幼稚園の辺に並んだが
自動車を見た覚えがない。自動車は少なかった為
かも知れない。思い出である。
新教場は運動場も広く、校舎も新しく、設備も
新式で自分は6年生の1年の喜びを享受した。
校舎の間に井戸の自噴が見られた。
田の中の学校で勤労奉仕として害虫駆除が行は
れた。田に入ると足に蛭が何匹も集り悲鳴を上
げた。きつい思い出である。
「今泉」誌は有り難く、担任以外多くの先生の
名に謝意を述べたい。鈴木長太郎先生、
大竹金太郎先生、黒田先生、萩原先生、稲葉先生、
山下先生、伊藤先生、梶原先生。




























































富士市今泉の昔話 (21)今泉小学校の思い出(1)

2012年09月22日 12時42分52秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(21)今泉小学校の思い出(1)

思い出の記の前に「今泉」(今泉小学校百周年記念誌 
昭和53年発行)よりの転記に依り歴史を記して見たい。
1、 今泉地区の寺小屋
福応寺   水の上   56人
本国寺   下和田   35人
法雲寺   市場    50人
妙延寺   寺市場
仁藤長兵衛 寺市場   80人
 (筆子塚が清岩寺に残されている)
妙延寺の寺小屋は「原泉舎」の名で呼ばれ、今泉村・
原田村の合同の学舎として先駆となっている。
入口の壁の鏝絵は二十四孝の一つであり見事である。
現在は広見公園に移設されている。



2、 今泉小学校発足(水の上教場)

明治11年5月水の上郷蔵跡地へ建設

校地5007坪、建坪116坪、7教室。
建設費700円

幕政時代に郷蔵(領主の年貢米の貯蔵場所)
が鍛冶屋瀬古より水の上の此の地に移転して
あったが、新政府で不要になった。その空地
が学校の場所として選定された。
其の建設費は今との差に驚かされる。

3、 明治19年
小学校令公布 
 尋常小学校4年(義務)
 高等小学校4年



4、 明治23年
教育勅語発布
小学校令改正
 小学校三年又は4年(義務)
 高等科2年又は3年、4年



5、 明治33年
小学校令改正
尋常小学校教科
 修身、国語、算術、体操、
  土地に依り図画、唱歌、手工を加える。
高等小学校教科
 修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、
 図画、唱歌、体操、女子には裁縫も

教場は大きく弐段に分かれ、下の運動場と上
の運動場更に離れた山の運動場と色々使い
分けていた。上の運動場の西端に大きな岩山
を造り、忠魂碑が建てられた。時の流れを
示す盛儀だった。

島田大尉や在郷軍人分会長などの姿が見られる。







6、 昭和12年5月茨原の新校舎完成移転。
約8000坪の敷地の整備、校舎3棟等の工費約18万円

















富士市今泉の昔話(20)外伝 善得寺城 雑記(3)

2012年09月13日 14時11分59秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(20)外伝 善得寺城 雑記(3)

前稿までに、城域の東と中央の部分の所縁と考える
場所と写真を列記したが、本稿では西の部分を述べ
たい。此処では虎口の形、大石垣等に由緒が考えら
れる。



13、公園に至る北空堀部分。矢印は直交する根方
街道推定地。西空堀の窪地は此処に始まる。



14、公園内東の谷部分。



17、公園内和田川。浅間社よりの清冽の水に
翡翠が見られる。



15、六所家東泉院広場。石垣の上は物見と言はれて
いる岩山。




15、六所家入り口。寄贈された膨大の資料
は市に依り整理されており、逐次発表されて
いる。又邸内の試掘もすすめられている。
城山に在ったと考えられる本廓に対してこの
部分は出丸としてと私見する。






16、城の威容を思はせる大石垣。
   野面積みの大石垣の威容は由緒を思はせ
るが、中央部は石垣が関東大震災で崩壊し
た為、現代式に修理されている。然し石垣は
湿地の城壁に使われる弐段積であり、下段は
野面積みのまま残されている。




16、大石垣の西部。
   大石垣の西部は野面積みのまま残って
いるが、崩壊の危険にさらされている。
   大石垣の由緒を更に尋ね、崩壊を防ぎ
整備保存を切望したい。





18、日吉よりの根方街道の推定の東泉院部分。





19、虎口部分より西に東泉院を望む。虎口の
形より、写真の部が入り口で、東の開放部が空堀
を隔てて大手門を守っていたと推定。虎口の形の
石垣は新しい。此処の東に本廓が考えられる。





善得寺城の私見は尚歴史が残っているが、
一休みし思い出の記を述べたい。
















富士市今泉の昔話(19)外伝 善得寺城 雑記(2)

2012年09月07日 13時03分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(19)外伝善得寺城 雑記(2)



前稿は城域の東の部分の私見を列記したが、
本稿では中央の部分を述べる。
11、愛鷹神社北の空堀推定地点。左は土居を備えた
本丸部分で、櫓・御殿の在った部分と推定。道路部分
は土居を崩して埋めた空壕部分と推定。右には更に濠
が在ったかもしれない。壕推定は西の公園内の谷に続く。




12昔の今泉往還。突き当たりで右折福応寺前に通ずる。
左は本丸推定部分で右は水廓推定。



12、愛鷹神社南の本丸部分。高みに櫓、右手に御殿を推定。



12、愛鷹神社西。左二の丸右本丸と推定。




12、搦め手部分石垣。



20、新川沿いの石垣。



20、二の丸、三の丸分岐点。道は旧今泉往還。突き当たり
は虎口・大手門(推定)。左は三の丸。右は二の丸(石垣上)。




20、分岐点より東視。三の丸の平地、馬場推定地。