富士市今泉の昔話(22)今泉小学校の思い出(2)
今泉小学校が新校舎に移転の後、水の上の教場
は整備変容した。今泉公民館となり、図書館の
今泉分室となり、今泉地区の文化・福祉の拠点
となった。
当時を示すものは、記念碑と金子彦太郎氏の銅像
のみである。思い出を記して見たい。
遥かなり、わが師、わが友。
我が師は先年郷土史の大先達として活躍された
鈴木富夫先生をお送りしてより、お話出来る
方は奈木先生以外はいなくなった。淋しい限り
である。原先生、草分先生、渡辺先生、今村先生、
木下先生、小林先生、佐野先生、塩川先生、丹羽
先生皆思い出につながり、御顔が走馬灯のように
流れる。
わが友も既に残るは50%を割り、体の弱かった
自分が残っているのも感慨である。
学校には地区ごとに集まり、隊列を組み、上級生
がリードし、毎朝通学した。通学路は延寿堂道を
とおり、後に知る善得寺の卵塔を見て通った。
2・26の大雪には大喜びで、雪投げ竹スキー等
で積雪10cmを遊んだ。子供心に事件の事は
あまり覚えていない。
記念碑は下の運動場の東の端に、銅像は北の端に
建てられている。下の運動場の西端に国旗掲揚台
が在り、此の前に毎朝全生徒が集まり、朝礼・体
操を行った。
下の運動場の東は大きな石垣で、写真の自動車の
部分には椋の大樹が数本あり、大きな日陰を造っ
ていた。文集「椋の木」の名は此れより取り、国語
に熱心だった今村先生がリード下さり、思い出で
ある。今村先生の思い出は深く、この頃より自分の
詩心・句心を培って下さったこと有り難く、今の
俳号「壷天」に通じ、一生のご厚誼を戴いた。
運動場が狭い為、よく山の運動場を使った。往復
30分掛かる為、往復自体が良い運動だったと覚
えている。福応寺の前を通り、愛鷹神社の北を
経て畑道をよく走った。
山の運動場は、後に二中の敷地になった。付近には
雑木山が数あった。雑木は当時の薪となり、炭の
原料となり生活を支えていた。思い出の景色である。
雑木山は放課後の良い遊び場であった。蝶を追い、
甲虫・挟み虫を捕え、時には蜂の幼虫
等も食べた。今ではとても食べられぬが。
沢蟹・蝗も良く取った。よく食べた。
虎杖・酸い葉・つばな等も子供の食糧だった。
明るい雑木山には金蘭・銀蘭・春蘭等が賑やかに
咲いていた。
終戦後、雑木山が次第に減り、金蘭・銀蘭が見
られなくなり、更には春蘭も見えなくなるのを
淋しく覚えている。
毎年、回虫駆除の為に、海人草を飲まされたのは
嫌な思い出である。
体操の後など汗を消すのに石垣の裾の湧水が有り
難かった。
写真の正面の擁壁の裾に、滾々と湧水が在り、
四季同じ温度で有り難かった。時の経過で
湧かなくなったか,あるいは道路工事の為に
塞いだかわからないが淋しい。下の運動場
より、石段を駆け下り、湧水で汗をふき、
湧水を飲んだ。
左の端の田宿川の橋に学校橋の名が残っている。
石垣の上に椋の木が在った。石垣の上の左に教員室
が在った。
上の運動場に二階建ての校舎3棟があったが、
いずれも古く、30cmほどの丸太の支柱で支え
られていた。異様な姿だった。
昭和12年5月茨原の新校舎が完成し、移転した。
移転の日は、水の上の教場より新校舎まで、生徒
が並び、手送り出来るものはすべて手送りした。
机・椅子・掃除道具から薪まであらゆるものを手
送りした。自分は今の今泉幼稚園の辺に並んだが
自動車を見た覚えがない。自動車は少なかった為
かも知れない。思い出である。
新教場は運動場も広く、校舎も新しく、設備も
新式で自分は6年生の1年の喜びを享受した。
校舎の間に井戸の自噴が見られた。
田の中の学校で勤労奉仕として害虫駆除が行は
れた。田に入ると足に蛭が何匹も集り悲鳴を上
げた。きつい思い出である。
「今泉」誌は有り難く、担任以外多くの先生の
名に謝意を述べたい。鈴木長太郎先生、
大竹金太郎先生、黒田先生、萩原先生、稲葉先生、
山下先生、伊藤先生、梶原先生。
今泉小学校が新校舎に移転の後、水の上の教場
は整備変容した。今泉公民館となり、図書館の
今泉分室となり、今泉地区の文化・福祉の拠点
となった。
当時を示すものは、記念碑と金子彦太郎氏の銅像
のみである。思い出を記して見たい。
遥かなり、わが師、わが友。
我が師は先年郷土史の大先達として活躍された
鈴木富夫先生をお送りしてより、お話出来る
方は奈木先生以外はいなくなった。淋しい限り
である。原先生、草分先生、渡辺先生、今村先生、
木下先生、小林先生、佐野先生、塩川先生、丹羽
先生皆思い出につながり、御顔が走馬灯のように
流れる。
わが友も既に残るは50%を割り、体の弱かった
自分が残っているのも感慨である。
学校には地区ごとに集まり、隊列を組み、上級生
がリードし、毎朝通学した。通学路は延寿堂道を
とおり、後に知る善得寺の卵塔を見て通った。
2・26の大雪には大喜びで、雪投げ竹スキー等
で積雪10cmを遊んだ。子供心に事件の事は
あまり覚えていない。
記念碑は下の運動場の東の端に、銅像は北の端に
建てられている。下の運動場の西端に国旗掲揚台
が在り、此の前に毎朝全生徒が集まり、朝礼・体
操を行った。
下の運動場の東は大きな石垣で、写真の自動車の
部分には椋の大樹が数本あり、大きな日陰を造っ
ていた。文集「椋の木」の名は此れより取り、国語
に熱心だった今村先生がリード下さり、思い出で
ある。今村先生の思い出は深く、この頃より自分の
詩心・句心を培って下さったこと有り難く、今の
俳号「壷天」に通じ、一生のご厚誼を戴いた。
運動場が狭い為、よく山の運動場を使った。往復
30分掛かる為、往復自体が良い運動だったと覚
えている。福応寺の前を通り、愛鷹神社の北を
経て畑道をよく走った。
山の運動場は、後に二中の敷地になった。付近には
雑木山が数あった。雑木は当時の薪となり、炭の
原料となり生活を支えていた。思い出の景色である。
雑木山は放課後の良い遊び場であった。蝶を追い、
甲虫・挟み虫を捕え、時には蜂の幼虫
等も食べた。今ではとても食べられぬが。
沢蟹・蝗も良く取った。よく食べた。
虎杖・酸い葉・つばな等も子供の食糧だった。
明るい雑木山には金蘭・銀蘭・春蘭等が賑やかに
咲いていた。
終戦後、雑木山が次第に減り、金蘭・銀蘭が見
られなくなり、更には春蘭も見えなくなるのを
淋しく覚えている。
毎年、回虫駆除の為に、海人草を飲まされたのは
嫌な思い出である。
体操の後など汗を消すのに石垣の裾の湧水が有り
難かった。
写真の正面の擁壁の裾に、滾々と湧水が在り、
四季同じ温度で有り難かった。時の経過で
湧かなくなったか,あるいは道路工事の為に
塞いだかわからないが淋しい。下の運動場
より、石段を駆け下り、湧水で汗をふき、
湧水を飲んだ。
左の端の田宿川の橋に学校橋の名が残っている。
石垣の上に椋の木が在った。石垣の上の左に教員室
が在った。
上の運動場に二階建ての校舎3棟があったが、
いずれも古く、30cmほどの丸太の支柱で支え
られていた。異様な姿だった。
昭和12年5月茨原の新校舎が完成し、移転した。
移転の日は、水の上の教場より新校舎まで、生徒
が並び、手送り出来るものはすべて手送りした。
机・椅子・掃除道具から薪まであらゆるものを手
送りした。自分は今の今泉幼稚園の辺に並んだが
自動車を見た覚えがない。自動車は少なかった為
かも知れない。思い出である。
新教場は運動場も広く、校舎も新しく、設備も
新式で自分は6年生の1年の喜びを享受した。
校舎の間に井戸の自噴が見られた。
田の中の学校で勤労奉仕として害虫駆除が行は
れた。田に入ると足に蛭が何匹も集り悲鳴を上
げた。きつい思い出である。
「今泉」誌は有り難く、担任以外多くの先生の
名に謝意を述べたい。鈴木長太郎先生、
大竹金太郎先生、黒田先生、萩原先生、稲葉先生、
山下先生、伊藤先生、梶原先生。