富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(86)

2013年12月27日 18時32分28秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(86)外伝 善徳寺考 霊場巡り(24)

伊予の旅を続ける。寺の由緒等の資料は平幡著「四国へんろ」より
引き続きお借りする。
途次に在る「松山」は俳人にはメッカとも言ふ土地、3回目の土地
であるが思い出も多い。「ぼっちゃん湯」「喧嘩場の松」「愚陀
仏庵」「五千石師との旅」これにくわえて今回は「秋山好古の墓」
「中村草田男の墓」にも参ずる事が出来た。松山城も歩き得た。







   (所感)坊ちゃん湯にみんな旅人簾古り   壷天
       坊ちゃんの喧嘩場の松青嵐     壷天
       15万石の句碑を湯宿に明易し    稜子
       城壁に蜥蜴さはしる子規の里    稜子
       洗礼名彫し石灼け伊予の晴れ    稜子

四国霊場第51番石手寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺の草創は聖武天皇の神亀5年(728)、伊予太守越
     智玉純が勅を奉じて鎮護国家の道場として伽藍を建立し、
     安養寺と名付けた事に始まる。御本尊の薬師如来は天平
     元年「729」行基菩薩が開眼し、法相宗に属していた
     が、弘仁4年(813)弘法大師が巡錫して真言宗に改
     めている。石手寺となったのは寛平4年(892)で、
     平安時代の末には7堂伽藍が完備した。
     (所感)結葉や観音おはす龍の上   稜子









御本尊 薬師如来
 御詠歌 さいほうを よそとはみまじ あんやうの
     てらにまいりて うくるじうらく




四国霊場第52番太山寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺の縁起によれば、用明天皇の2年、真野といふ長者が
     大阪への途次難破しそうになった時、信仰していた十一
     面観世音に救はれた。報恩のため1寺を創建し、其の尊像
     を安置した。後に聖武天皇の勅願によって行基菩薩が11
     面観世音を刻んで厨子内に安置した。弘法大師が留錫さ
     れたのは天長年間。
     (所感)辿り読む翁の句塚木下闇    稜子




 御本尊 11面観世音菩薩
 御詠歌 たいさんへ のぼればあせの いでけれど
     のちのよおもへば なんのくもなし





四国霊場第53番円明寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 天平勝宝元年(749)聖武天皇の勅願により、和気西山
     の海岸に創建され、寛永10年(1633)現在地に再興さ
     れた。厨子内に安置されている御本尊は行基菩薩作の阿
     弥陀如来。境内の片隅にはマリヤの像を浮き彫りした石
     塔が在り、キリシタン禁制の名残をとどめている。
     (所感)切支丹灯篭小さしえごの花   稜子




 御本尊 阿弥陀如来
 御詠歌 らいこうの みだのひかりの えんみょうじ
     てりそうかげは よなよなのつき







四国霊場第54番延命寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺の創建は、行基菩薩が不動明王を刻んで本尊として安
     置したのにはじまり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法
     大師が再興し、近見山円明寺と号した。その頃7堂伽藍
     が整い荘厳を極めていたが、度々の兵火にかかり、その
     たびに寺は移転し、天正年間の兵火に会ってから山の
     ふもとに移建された。明治以降寺名が円明寺から延命寺
     に改められた。
     (所感)つつじ大きくまるく育てて延命寺  稜子 





 御本尊 宝冠不動明王
 御詠歌 くもりなき かがみのえんと ながむれば
     のこさずかげを うつすものかな





四国霊場第55番南光坊
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 大三島には大山祇神社がある。此の神社の別宮を日吉郷
     に移し、24坊在った別当の内8坊を同地に移した。弘法
     大師は四国巡錫の時、別宮に参拝し、坊で法楽を挙げて
     霊地とした。後に天正年間の兵火で8坊は焼失し、禄の
     少ない南光坊のみ再興された。
     (所感)筆塚の大に仕ふる立葵   稜子





 御本尊 大通智勝如来
 御詠歌 このところ みしまにゆめの さめぬれば
     べつぐうとても おなじすいじゃく














富士市今泉の昔話(85)

2013年12月21日 09時32分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(85) 外伝 善徳寺考 霊場巡り(23)

伊予の旅(菩提の道場)を続ける。全国育樹の催事に皇太子の前で
長官賞の榮を受けた感激を思い出しつつの旅。面河渓谷の見事の紅
葉、星に近い久万の泊、久万林業の勉強、共に思い出。此の度は妻
子孫に付きそはれての仏を尋ねての旅である。

四国霊場第45番岩屋寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 弘仁6年、弘法大師が此の地を訪れた時、法華仙人といふ
     女人が居り大師に帰依し一山を献じて大往生を遂げた。大
     師は不動明王の木像と石像の2体を刻まれ、木像は本堂
     へ、石像は山に封じ込め、山そのものを御本尊不動明王
     として護摩修法された。寺号を海岸山岩屋寺と名ずけら
     れた。
     それ以来寺は修行の霊地として法灯を継承したが、明治
     31年失火の為焼失し、大正9年には再建されている。
     (所感)山号は海岸山とぞ夏うぐいす   稜子






 御本尊 不動明王
 御詠歌 だいしょうの いのるちからの げにいわや
     いしのなかにも ごくらくぞある




四国霊場第46番浄瑠璃寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺の創建は和銅元年「708」。薬師如来の別名の瑠璃
     光如来から寺号を浄瑠璃寺と名ずけた。本尊は行基菩薩
     の刻まれた薬師如来。本堂は天明5年(1758)の再
     建。
     (所感)千年のいぶきの涼し封じ石    稜子





 御本尊 薬師如来
 御詠歌 ごくらくの じょうるりせかい たくられば
     うくるくらくは むくいならまし





四国霊場第47番八坂寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 大同2年(807)弘法大師が此の地を巡錫の折、此の
     地が補陀洛山さながらで8葉の蓮台に似ている事より、
     8葉山の山号をつけ霊場とされた。大師は此の山に登ら
     れて求聞持の修法をされ、船舶の安全を祈願して、自刻
     の十一面観世音を安置された。
     (所感)山滴る石の炎を負ふ不動尊   稜子





 御本尊 阿弥陀如来
 御詠歌 はなをみて うたよむひとは やさかてら
     さんぶつじょうの えんとこそきけ





四国霊場第48番西林寺
 順拝日 25,5,13、
 由緒等 縁起によれば、聖武天皇の勅願によって天平13年
    (741)、行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、一宮別
     当寺と知って開創した。大同2年(807)には弘法大
     師は現在の地に寺を移し、十一面観世音を刻んで本尊と
     して安置した。
     (所感) 涼しさや観音やさし満願寺  稜子






 御本尊 十一面観世音菩薩
 御詠歌 みだぶつの せかいをたずね いきたくば
     にしのはやしの てらにまいれよ





四国霊場第49番浄土寺
 順拝日 25,5,13、
 由緒等 山裾に空也谷言ふ所が在る。是は村人が空也上人を慕っ
     てつけた地名で、此処に浄土寺がある。天徳の頃
    (557~60)、上人が此処で3年間教化に励まれた。
     此処に在る上人像は、村人の懇願により上人が去る時自
     刻された上人像である。
     本尊は行基菩薩作の釈迦如来。
     寺は天平年間に開創され、孝謙天皇の勅願所であった。
     後に弘法大師が巡錫され、伽藍を再興された。
     (所感)南風に押されて入る仁王門  稜子





御本尊 釈迦如来
 御詠歌 じうあくの わがみをすてず そのままに
     じやうどのてらへ まいりこそすれ




四国霊場第50番繁多寺
 順拝日 25,5,13、
 由緒等 御本尊は寺の開基である行基菩薩の作で、孝謙天皇の勅
願寺であった。弘法大師が長く留まって東山繁多寺に改
称された。時宗の開祖一遍上人も此の寺に留まって学問
修業されたと伝えられる。
     (所感)山門にまつはる定家葛かな  稜子






御本尊 薬師如来
御詠歌 よろずこそ はんたなりとも おこたらず
     しょびょうなかれと のぞみいのれよ










































富士市今泉の昔話(84)

2013年12月14日 08時10分05秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(84)外伝 善徳寺考 霊場巡り(22)

四国順拝4回目の旅。土佐の旅の最後の日は最南端の足摺岬より伊
予にも入り終えた。
桂浜の青松白砂、松の間にそびえる竜馬の大銅像に土佐の心意気を
感じた旅だった。
高知城の天守を仰ぎ、同じ山内侯の建てた掛川城と並べての親しみ
もあった。名にし負ふ龍が洞や林業地を尋ね得なかったのは残念
だった。

四国霊場第39番 延光寺
 順拝日 24,5,19、
 由緒等 神亀元年(724)聖武天皇の勅命で行基菩薩が薬師如
     来を刻み本尊として安置し、堂塔を建立したのが始まり。
     延暦14年(795)には弘法大師が暫く留まり、桓武
     天皇の勅願寺として再興し、脇仏を安置して堂塔を整備
     し、冷水を湧かせて宝医水と名つけられた。
 御本尊 薬師如来
 御詠歌 なむやくし しょびょうしつじょの がんこめて
     まいるわがみを たすけましませ






順拝の都合により伊予の一寺を順拝した。車ならではの又同伴無く
てはの旅だった事深謝した。
四国霊場第40番 観自在寺
 順拝日 24,5,19、
 由緒等 寺は平城天皇の勅願寺として、弘法大師に依って開創
     されたのは大同2年。
     平城天皇はその後此の寺に行幸し「平城山」の勅額を
     おくり、山号にもなっている。
     此の寺を開創した弘法大師は一木に本尊薬師如来・脇
     仏阿弥陀如来・十一面観世音の三体を刻まれ、残りの
     霊木で船形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた。
 御本尊 薬師如来
 御詠歌 しんがんや じざいのはるに はなさきて
     うきよのがれて すむやけだもの




四国霊場第41番 龍光寺
 順拝日 25,5,13、
 由緒等 縁起によれば、大同2年2月初午の日、弘法大師が此の
     地に巡錫すると、白髪の老翁に導かれた。そこで大師は
     此の地が霊場であることお悟り、其の尊像を刻み、堂宇
     を建てて安置し、稲荷山龍光寺と号し、四国霊場の総鎮
     守とされた。
     (所感)龍の玉祀る堂宇や今年竹     稜子
 御本尊 十一面観世音菩薩
 御詠歌 このかみは さんごくるふの みっきょうを
     まもりたまはん ちかひとぞきく




四国霊場第42番 仏木寺
 順拝日 25,5,13、
 由緒等 縁起によれば、大同2年、此の地を巡錫していた大師は、牛を引いた老翁
     に出会いすすめられるままに此の牛にのつた。すると近
     くの楠の枝に一つの宝珠がかかっているのを発見した。
     此の宝珠は大師が唐に居られるとき、有縁の地を撰ばれ
     るようにと、三鈷と共に投げた宝珠であった。
    (所感)鐘楼の藁屋根くずる紅うつぎ   稜子
 御本尊 大日如来
 御詠歌 くさもきも ほとけになれる ぶつもくじ
     なをたのもしき きちくにんてん




四国霊場第43番 明石寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺は欽明天皇の勅願によつて円手行者が千手観世音を安
     置し七堂伽藍を建立して開創したと伝えらっれ、後の天
     平6年(734)役小角より五代目の寿元行者が、紀州
     熊野より十二社権現を勧請して十二坊を建立し、修験道
     場として法灯を伝承した。弘仁13年(822)弘法大
     師が巡錫し、嵯峨天皇の勅願に依り荒廃した伽藍を再興
     して霊場に定められた。
     (所感)風薫る梛の大樹に願かけ    稜子
 御本尊 千手観世音菩薩
 御詠歌 きくならく せんじゅふしぎの ちからには
     だいばんじゃくも かるくあげいし





四国霊場第44番 大宝寺
 順拝日 25,5,12、
 由緒等 寺の創建は大宝元年「701」百済の聖僧が十一面観世
     音を奉侍して来日し、此の地に草庵を結んで安置したこ
     とに始まる。それから百十余年後、弘法大師が霊場と定
     められた。時の文武天皇の勅願によつて年号をとり寺号
     を大宝寺として創建される。
     (所感)急蹬一歩に日差す若楓   稜子
 御本尊 十一面観世音菩薩
 御詠歌 いまのよは だいひのめぐみ すがうさん
     ついにはみだの ちかひをぞまつ




檜7年生の林地。銘木指向の折には1回目の枝打ちの時期である
が、鹿の害より遅らせている。









































































富士市今泉の昔話(83)

2013年12月06日 19時11分43秒 | 昔話

富士市今泉の昔話(83)外伝 善徳寺考 霊場巡り(21)

四国霊場第33番 雪渓寺
 順拝日 24,5,20、
 由緒等 延暦年間に弘法大師に依って開創され、当初小林山高
     福寺と称し、その後「運慶」「湛慶」の所縁で慶運寺
     に改めた。寺歴によると一時荒廃し、月峰和尚が再興
     し、元親の死後その菩提寺となり、法号にちなみ雪渓
     寺となった。
     (所感) 此の寺に終わるこの旅7変化    稜子
 御本尊 薬師如来
 御詠歌 たびのみち うえしもいまは こうふくじ
     のちのたのしみ ありあけのつき




四国霊場第34番 種間寺
 順拝日 24,5,20、
 由緒等 敏達天皇の6年(577)四天王寺造営のため来日した
     百済の仏師が、海上安全を願い刻んだのが薬師如来で、
     これを山頂に安置された。やがて弘法大師が此の地に巡
     錫し、薬師如来を御本尊として寺を開創され、中国から
     持ち帰った五穀の種子をまかれた。種間寺の寺名はこれ
     に由来する。
     (所感) しまなみの海何処までも夕焼くる   稜子
 御本尊 薬師如来
 御詠歌 よのなかに まけるごこくの たねまてら
     ふかきにょらいの だいひなりけり




四国霊場第35番 清滝寺
 順拝日 24,5,20、
 由緒等 縁起によれば、養老7年(723)行基菩薩が御本尊
     薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院鐸木寺とした。
     弘仁年間に弘法大師が巡錫し、山中で17日間の修法
     され、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き
     でて鏡の様な池になった。そこで医王山鏡池院清滝寺
     に改め、霊場とした。
     (所感)花蜜柑の香に導かれ札所寺   稜子
 御本尊 薬師如来
 御詠歌 すむみずを くめばこころの きよたきじ
     なみのはなちる いわのはごろも





四国霊場第36番 青龍寺
 順拝日 24,5,20、
 由緒等 弘法大師は中国留学中、青龍寺の恵果阿闍梨に就いて学
     ばれたが、帰国にあたって師の恩に報いる為に有縁の勝
     地を撰ばれるようにと、明州から東に向かって独鈷杵を
     投げられた。やがてこの地の山上に在る松に止まった。
     帰国した大師は此の地に巡錫して感得し、弘仁6年
    (815)嵯峨天皇に奏聞して一宇を建て、自刻の波切不
     動を安置し、恩師を慕って寺名を青龍寺とした。
     (所感)山蟹の土のいろなす土佐の国   稜子
 御本尊 波切不動明王
 御詠歌 わづかなる いづみにすめる しょうりうは
     ぶっほうしゅごの ちかいとぞきく





四国霊場第37番 岩本寺
 順拝日 24,5,19、
 由緒等 寺は、古くは福円満寺と言い、開基は行基菩薩で、聖武
     天皇の勅を奉じ、天の7星をかたどって6ケ寺を建てて
     仁井田7福神とも称した。弘仁の頃になると、弘法大師
     が巡錫して5社・5寺を増築し、本地仏の御本尊である
     不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩
     薩の5体を安置し、3国相承の星供秘法を修し、藤井寺
     5徳智院と号された。また嵯峨天皇は勅願寺として御料
     地を給された。
     (所感) 卯の花の枝垂れ従ふ札所寺     稜子
 御本尊 不動・観世音・阿弥陀・薬師・地蔵の五尊
 御詠歌 むつのちり いつつのやしろ あらはして
     ふかきにいたの かみのたのしみ




四国霊場第38番 金剛福寺
 順拝日 24,5,19、
 由緒等 弘仁年間に弘法大師は此の地を巡錫して千手観世音を感
     得し、此の地が日本の最南端に在ることから、観世音の
     理想の世界(普陀洛世界)の地として朝廷に奏聞し、嵯
     峨天皇より「普陀洛東門」の勅額を賜り、弘仁13年
    (822)伽藍を建立し、千手観世音を安置した。
     (所感)山門を入るや夏うぐひすの声     稜子

     名にし負える足摺岬の絶景に感動。援けられつつの最南
     端の順拝の感激。一時を千金の思い。

 御本尊 千手観世音菩薩
 御詠歌 ふだらくや ここはみさきの ふねのさほ
     とるもすつるも のりのさだやま




6年生の檜。鹿の食害による枯死が見られる。