富士市今泉の昔話(86)外伝 善徳寺考 霊場巡り(24)
伊予の旅を続ける。寺の由緒等の資料は平幡著「四国へんろ」より
引き続きお借りする。
途次に在る「松山」は俳人にはメッカとも言ふ土地、3回目の土地
であるが思い出も多い。「ぼっちゃん湯」「喧嘩場の松」「愚陀
仏庵」「五千石師との旅」これにくわえて今回は「秋山好古の墓」
「中村草田男の墓」にも参ずる事が出来た。松山城も歩き得た。
(所感)坊ちゃん湯にみんな旅人簾古り 壷天
坊ちゃんの喧嘩場の松青嵐 壷天
15万石の句碑を湯宿に明易し 稜子
城壁に蜥蜴さはしる子規の里 稜子
洗礼名彫し石灼け伊予の晴れ 稜子
四国霊場第51番石手寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の草創は聖武天皇の神亀5年(728)、伊予太守越
智玉純が勅を奉じて鎮護国家の道場として伽藍を建立し、
安養寺と名付けた事に始まる。御本尊の薬師如来は天平
元年「729」行基菩薩が開眼し、法相宗に属していた
が、弘仁4年(813)弘法大師が巡錫して真言宗に改
めている。石手寺となったのは寛平4年(892)で、
平安時代の末には7堂伽藍が完備した。
(所感)結葉や観音おはす龍の上 稜子
御本尊 薬師如来
御詠歌 さいほうを よそとはみまじ あんやうの
てらにまいりて うくるじうらく
四国霊場第52番太山寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の縁起によれば、用明天皇の2年、真野といふ長者が
大阪への途次難破しそうになった時、信仰していた十一
面観世音に救はれた。報恩のため1寺を創建し、其の尊像
を安置した。後に聖武天皇の勅願によって行基菩薩が11
面観世音を刻んで厨子内に安置した。弘法大師が留錫さ
れたのは天長年間。
(所感)辿り読む翁の句塚木下闇 稜子
御本尊 11面観世音菩薩
御詠歌 たいさんへ のぼればあせの いでけれど
のちのよおもへば なんのくもなし
四国霊場第53番円明寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 天平勝宝元年(749)聖武天皇の勅願により、和気西山
の海岸に創建され、寛永10年(1633)現在地に再興さ
れた。厨子内に安置されている御本尊は行基菩薩作の阿
弥陀如来。境内の片隅にはマリヤの像を浮き彫りした石
塔が在り、キリシタン禁制の名残をとどめている。
(所感)切支丹灯篭小さしえごの花 稜子
御本尊 阿弥陀如来
御詠歌 らいこうの みだのひかりの えんみょうじ
てりそうかげは よなよなのつき
四国霊場第54番延命寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の創建は、行基菩薩が不動明王を刻んで本尊として安
置したのにはじまり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法
大師が再興し、近見山円明寺と号した。その頃7堂伽藍
が整い荘厳を極めていたが、度々の兵火にかかり、その
たびに寺は移転し、天正年間の兵火に会ってから山の
ふもとに移建された。明治以降寺名が円明寺から延命寺
に改められた。
(所感)つつじ大きくまるく育てて延命寺 稜子
御本尊 宝冠不動明王
御詠歌 くもりなき かがみのえんと ながむれば
のこさずかげを うつすものかな
四国霊場第55番南光坊
順拝日 25,5,12、
由緒等 大三島には大山祇神社がある。此の神社の別宮を日吉郷
に移し、24坊在った別当の内8坊を同地に移した。弘法
大師は四国巡錫の時、別宮に参拝し、坊で法楽を挙げて
霊地とした。後に天正年間の兵火で8坊は焼失し、禄の
少ない南光坊のみ再興された。
(所感)筆塚の大に仕ふる立葵 稜子
御本尊 大通智勝如来
御詠歌 このところ みしまにゆめの さめぬれば
べつぐうとても おなじすいじゃく
伊予の旅を続ける。寺の由緒等の資料は平幡著「四国へんろ」より
引き続きお借りする。
途次に在る「松山」は俳人にはメッカとも言ふ土地、3回目の土地
であるが思い出も多い。「ぼっちゃん湯」「喧嘩場の松」「愚陀
仏庵」「五千石師との旅」これにくわえて今回は「秋山好古の墓」
「中村草田男の墓」にも参ずる事が出来た。松山城も歩き得た。
(所感)坊ちゃん湯にみんな旅人簾古り 壷天
坊ちゃんの喧嘩場の松青嵐 壷天
15万石の句碑を湯宿に明易し 稜子
城壁に蜥蜴さはしる子規の里 稜子
洗礼名彫し石灼け伊予の晴れ 稜子
四国霊場第51番石手寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の草創は聖武天皇の神亀5年(728)、伊予太守越
智玉純が勅を奉じて鎮護国家の道場として伽藍を建立し、
安養寺と名付けた事に始まる。御本尊の薬師如来は天平
元年「729」行基菩薩が開眼し、法相宗に属していた
が、弘仁4年(813)弘法大師が巡錫して真言宗に改
めている。石手寺となったのは寛平4年(892)で、
平安時代の末には7堂伽藍が完備した。
(所感)結葉や観音おはす龍の上 稜子
御本尊 薬師如来
御詠歌 さいほうを よそとはみまじ あんやうの
てらにまいりて うくるじうらく
四国霊場第52番太山寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の縁起によれば、用明天皇の2年、真野といふ長者が
大阪への途次難破しそうになった時、信仰していた十一
面観世音に救はれた。報恩のため1寺を創建し、其の尊像
を安置した。後に聖武天皇の勅願によって行基菩薩が11
面観世音を刻んで厨子内に安置した。弘法大師が留錫さ
れたのは天長年間。
(所感)辿り読む翁の句塚木下闇 稜子
御本尊 11面観世音菩薩
御詠歌 たいさんへ のぼればあせの いでけれど
のちのよおもへば なんのくもなし
四国霊場第53番円明寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 天平勝宝元年(749)聖武天皇の勅願により、和気西山
の海岸に創建され、寛永10年(1633)現在地に再興さ
れた。厨子内に安置されている御本尊は行基菩薩作の阿
弥陀如来。境内の片隅にはマリヤの像を浮き彫りした石
塔が在り、キリシタン禁制の名残をとどめている。
(所感)切支丹灯篭小さしえごの花 稜子
御本尊 阿弥陀如来
御詠歌 らいこうの みだのひかりの えんみょうじ
てりそうかげは よなよなのつき
四国霊場第54番延命寺
順拝日 25,5,12、
由緒等 寺の創建は、行基菩薩が不動明王を刻んで本尊として安
置したのにはじまり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法
大師が再興し、近見山円明寺と号した。その頃7堂伽藍
が整い荘厳を極めていたが、度々の兵火にかかり、その
たびに寺は移転し、天正年間の兵火に会ってから山の
ふもとに移建された。明治以降寺名が円明寺から延命寺
に改められた。
(所感)つつじ大きくまるく育てて延命寺 稜子
御本尊 宝冠不動明王
御詠歌 くもりなき かがみのえんと ながむれば
のこさずかげを うつすものかな
四国霊場第55番南光坊
順拝日 25,5,12、
由緒等 大三島には大山祇神社がある。此の神社の別宮を日吉郷
に移し、24坊在った別当の内8坊を同地に移した。弘法
大師は四国巡錫の時、別宮に参拝し、坊で法楽を挙げて
霊地とした。後に天正年間の兵火で8坊は焼失し、禄の
少ない南光坊のみ再興された。
(所感)筆塚の大に仕ふる立葵 稜子
御本尊 大通智勝如来
御詠歌 このところ みしまにゆめの さめぬれば
べつぐうとても おなじすいじゃく