富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(77)

2013年10月26日 08時36分24秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(77)外伝 善得寺考 霊場巡り(14)

善得寺調査を続ける時、四国三好市に善徳の地名が在るを知り、現
地を尋ねた。祖谷川の清流に沿って色々の地名が在った。「徳善」
「善徳東」「善徳西」の地名が在り、「善徳かずら橋」「善徳天神」
「徳善屋敷」等が在ったが、地名の由来に関しては役所を尋ねたが
不明で、昔善得寺といふ寺が在ったかと言ふ推定は持てなかった。
唯昔此の地に、善徳氏と言ふ土豪が領地していたと伝承が在った。
現在も「善徳」「徳善」の名の方が居られる。
帰途、阿波の「土柱」の名勝を尋ねるべく泊した折、四国遍路の
方々に会い、遍路の案内を戴き説明されたので「四国霊場巡り」
を発願した。
翌朝時を得て、近くの札所5ケ寺を回り発願の始めとした。
以降、高齢・持病の為ペースメーカーのオペを挟み7年を要した
が、バス・タクシー・ジャンボタクシーを借り、子供・孫の助け
を得て、夫妻共に満願を果たす事が出来た。有り難いことである。
時を得ての順拝の為、順拝の順は整っていないが、札所の順に記
し年月を補記した。
記事は平幡氏著「四国へんろ」よりお借りしている。

四国霊場第1番 霊山寺
 順拝日  平成21,11,3
 由緒等  御住職は俳句の御縁が在るとの事であったが、お会
      いすることは出来なかった。
      鳴門の渦潮の音を忘れ難く、1番札所に参じた。
      ご本尊は弘法大師作の釈迦如来。聖武天皇の勅願に
      より、天平の頃行基菩薩が      開基し、弘
      仁6年(815)弘法大師が21日ほど留まって修法
      され、此の間霊感を得て釈迦如来を刻み、天竺の霊山
      を日本に移される意味から竺和山霊山寺と号し、第1
      番の霊場に定められた。
 ご本尊  釈迦如来
 ご詠歌  りょうぜんの しゃかのみまえに めぐりきて
      よろずのつみも きえうせにけり




四国霊場第2番 極楽寺
 順拝日 平成21,11,3、
 由緒等 本尊の阿弥陀如来は1,4mの座像(鎌倉時代作)で重
要文化財になっている。
 ご本尊 阿弥陀如来
 ご詠歌 ごくらくの みだのじょうどへ いきたくば
     なみあみだぶつ くちぐせにせよ





四国霊場第3番 金泉寺
 順拝日 平成 21,11,3、
 由緒等 古くは聖武天皇の勅願で行基菩薩がご本尊を刻み、金光
明寺と称していたが、弘法大師が巡錫された時、黄金井
の霊水が湧きでたので、寺名を金泉寺と改めたと言ふ。
 ご本尊 釈迦如来
 ご詠歌 ごくらくの たからのいけを おもへただ
     こがねのいずみ すみたたへたる





四国霊場第4番 大日寺
 順拝日 平成21,11,3、
 由緒等 弘法大師は、此の地に暫く留まり、大日如来を感得し、
其の尊像を刻んで御本尊とし、寺号を大日寺と名ずけら
れた。
 ご本尊 大日如来
 ご詠歌 ながむれば つきしろたえの よはなれや
     ただくろたにに くろぞめのそで




四国霊場第5番 地蔵寺
 順拝日 平成 21,11,3、
 由緒等 寺は弘仁12年、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開基
し、其の折刻まれたのが5,6cmの本尊勝軍地蔵菩薩
と言はれる。
 ご本尊 勝軍地蔵菩薩
 ご詠歌 ろくどうの のうげのじぞう だいぼさつ
     みちびきたまえ このよのちのよ





四国霊場第6番 安楽寺
 順拝日 平成19,5,23、
 由緒等 善徳寺調査の為、西祖谷村を訪れた帰途、阿波の土柱を嘆
賞した。其の折、遍路さんより案内の御縁を得て、霊場巡
りの初めの札所である。
     寺伝によれば、昔此の地方で温泉が湧き、諸病に特効が
在ったため、弘法大師が留まって厄難や病気を救うため
に薬師如来を刻み、堂宇を建立してそこに安置し、温泉
山安楽寺と名付けられた。
 ご本尊 薬師如来
 ご詠歌 かりのよに ちぎょうあらそふ むやくなり
     あんらくこくの しゅごをのぞめよ




四国霊場第7番 十楽寺
 順拝日 平成 19,5,23、
 由緒等 此の地に留錫された弘法大師は、阿弥陀如来を感得し、
御本尊として刻まれ、安置された。人間の持つ八の苦
難を離れ、十の光明が得られるようにと、光明山十楽
寺と名付けられた。
 ご本尊 阿弥陀如来
 ご詠歌 にんげんの はっくをはやく はなれなば
     いたらんかたは くぼんじゅうらく




檜3年生の林地。早も鹿の被害、残念である。










































































富士市今泉の昔話(76)

2013年10月18日 20時21分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(76)年間ブログの整理(8)

昔話(47)外伝 善得寺考  雑(1)
善得寺は信玄の駿河侵攻により灰燼に帰した為、今に残る瀬古の
地に、妙心寺の伽藍を写真に偲んでみたい。
我が家の花色々。急に賑やかになった。



昔話(48)外伝 善得寺考 過去帳(2)
法雲寺に在る、善得寺の貴重な資料の過去帳に特記の方を記して
見る。「厭蓮社欣誉上人白音和尚」は浄土宗の僧とのみ記されて
いるが、「厭蓮社欣誉上人」が在り、同一の方と考えられ、無住
の折清岩寺と兼務が在ったと推定する。
「大安牧仙庵主」寺市場俗名金左右門、永明寺に墓発見した。過
去帳には本尊寄付と記されているが由来は尚調べたい。
過去帳で歴代の住職を知りたいと思ったが、東谷和尚以外は前住
(前住職)とのみで確定出来ない。新善徳寺を復興されたのは何
方か、またどの様な経緯か、知る由もない。




昔話(49)外伝 善得寺考 過去帳(3)
過去帳の法名の整理は先に鈴木先生がされているが、更に時代別・
地域別を整理考察を重ねた。
幕府の寺請制度・檀家制度による「宗門人別改帳」があり、善得
寺の一例を示す。
過去帳と墓石との照合の努力したが、永明寺の一例のみである。




昔話(50)外伝 善得寺考 今泉軒別書上帳(1) 
善得寺の資料の少ない時に、「今泉軒別書き上げ帳」を発見、こ
れには善得寺の場所や善得寺への道等が示されており、関係して
調べて見た。
是は領主水野出羽の守が将軍家茂の上洛の折、其の護衛を分宿さ
せる為全戸数の状況を調査した物である。
図は当時の今泉村の道路を示し、いまの根方道は無く、高札場が
在り、吹上には東谷和尚が香語を献じたと思はれる庚申堂が示さ
れている。




昔話(51)外伝 善得寺考 今泉軒別書き上げ帳(2)
古地図には尚興味の諸点が在る。
「御退場」。是は将軍が宿泊の時は、避難場所を定めておくとの
事である。宿泊の「東泉院」の東に退避所を設け、警護の「奥詰
衆」を福応寺に置いたのは西よりの攻撃を予想したかと面白い。
「郷蔵」は水野出羽の守の扶持米の集散の場所であり、今泉村が
2,951石の大村の為の物である。明治には小学校の場所と成っ
ている。
「東泉院」。家茂の幕末の上洛は3回あり、2回目のみ海路で、
1回目と3回目は東泉院に泊している。警護がし易く、設備が
揃って居たためと思はれる。
「溜め井」「道路名」が尚示されている。




昔話(52)外伝 善得寺考
書き上げ帳は今泉村の全戸数434軒のすべてを書いているが興味
の何点かが在る。清岩寺は現在は原田村であり、此処に書かれてい
るには理由が在ると思はれる。昔瀬古に所在と書かれた物が在り、
その為に含まれていたと考える。
全戸数がすべて道沿いに書かれており、是は昔村の官役・寄付は
住居の間口を基準とした「間口割」の証拠かもしれない。
上・中・下のランクはどの様に分けられ、どの様に使われたか解
らない。
元治元年(1864)に全戸数434の今泉地区は、平成19年
7月には4,638で、約150年の間に10倍以上になっている。




林業を継承して4代目。此の間の努力・丹精の実りとして、植え
付けより100年木迄多様の林相を形成している。「富士ひのき」
のブランド化の熱意として、各年代の林相を記して見たい。植え
付け早々より始める。植え付け2年目の檜部。

































富士市今泉の昔話(75)

2013年10月12日 09時32分20秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(75)年間ブログの整理(7)

昔話(41)外伝 善得寺考 富士の大木(5)
富士市北端の「勢子辻」に、市立「勢子辻ひのきの家」が完成し、中に古色
の「植森林興学校」の扁額が掲げられている。厚さ3cmの神代杉の板であり、
明治19年発足の学校であり、当地の林業の拠点だったと思はれるが珍しい。此
の地が神代杉の発掘で湧いた時期であり、別稿で述べたい。




(神代木―1)
数千年前の大木が、天災で埋没され、現代に発掘された物を「神代杉・神代檜」と
言ひ品質的に珍重されていた。
島根の「神代杉博物館」は圧巻である。
白糸財産区「神代杉展示館」の杉も3mに及ぶ径の物であり、素晴らしい。
裾野市「富士山資料館」にも神代檜・神代杉が展示されている。



昔話(42)外伝 善得寺考 富士の大木(6)
「富士山資料館」の展示に熔岩樹型の幾つもある。
御殿場市「市立富士山交流センター」は「樹空の森」と呼ばれ、大きな熔岩樹型が在
る。熔岩樹型は重なる富士山噴火の歴史といへる。




昔話(43)外伝 善得寺考 富士の大木(7)
富士山の熔岩流は山梨県にも多く、「貞観熔岩流」「剣丸火熔岩流」が良く知ら
れている。
(熔岩樹型―3)
熔岩樹型は数多くみられるが、地形の為か2m以上の物は見られない。
剣丸火熔岩流の上に「河口湖フイールドセンター」があり、此処には100ケ以上
の熔岩樹型があり、中の船津胎内樹型は今回の世界遺産の一項と成っている。近
くの吉田胎内樹型と共に複合型熔岩樹型で複数の木木より成る樹型で共に世界遺
産となった。
(花の都公園)は「鷹丸火熔岩流」のうえにあり、大型の木目熔岩樹型等地下観察
体験ゾーンが珍しい。




昔話(44)外伝 善得寺考 富士の大木(8)
(神代木―2)
箱根西麓地区も深良を中心に神代木の発掘が多い。発掘の苦労・成果の伝承も
数ある。
「富士山資料館」に此の幾つかが展示されている。




昔話(45)外伝 善得寺考 富士の大木(9)
(神代木―3)
愛鷹山は、洪積期より活動を続けBP40万年頃活発だった。死火山後の長期の
浸食作用により開析が進み、八方に伸びる多数の沢を中心に山裾は広く、集塊岩
質の泥流で覆われており、是が数百年の大木を育み、埋没の大木を生ぜしめたと
思はれる。
愛鷹山の東麓・西麓共に神代木が発掘され、東麓では妙心寺の欅の大木が取られて
いる。
西麓の「勢子辻」には発掘現場が見られ、伝承が在り、記録が色々とある。
内山組合の予算の中に「埋もれ木代金」として50円とある年が在る。当時の
内山取締り人の年収が36円であり、対比できる。50円は売上高の5%に当
たる為、現在の価格に考えると、一億に及ぶと思はれ興味深い。



昔話(46)外伝 善得寺考 富士の大木「10」
色々と調査の結果、富士山の周辺に大木の繁茂の時代が在った事を確信した。
「こどもの国」入り口の復層林は丁度米寿であり大事に育てたい。
将来の大木を夢見て、林業の施策を50年伐期より100年伐期の長伐期に変
更を進めている。




庭に酔芙蓉が満開に。










































富士市今泉の昔話(74)

2013年10月05日 11時43分27秒 | 昔話

富士市今泉の昔話(74)年間ブログの整理(6)

昔話(37)外伝 善徳寺考 富士の大木(1)

義元が短期間に善得寺の大寺を建設したのに、大木が近くで入手できたこと
の一因が在ると思はれ、古書に富士近辺の木に興味を持ち調べた。
大木に次の色々が在る。
 秀吉に依る方広寺の大仏殿の棟梁。日本一の大木と考えられ、末口1,5
 m長さ37m。妙心寺の欅の多数の柱材。末口60cm、長さ8mの芯去
 り柱を1本の木より4本とった大木。
 瀬古の善得寺の建設の時期に、愛鷹の葛山付近より大量に伐採された欅材。
 妙心寺と同様の大木と考えられる。
 富士市丸火公園の熔岩樹形。最大径3m長さ10m樹種不明。
 富士宮市の白糸に展示の神代杉。
 愛鷹勢子辻に伝承されている、切株で相撲が取れたと言ふ幻の大木。

(方広寺の大仏殿の棟梁)(1)
秀吉の威による大建設で、一千万人を要したと伝えられており、棟梁につい
ては家忠日記に詳しいのでいか記して見る。
天正17年(1589)7月9日家康伐採運搬開始。8月20日漸く大木を
木山より引き出す。


昔話(38)外伝 善徳寺考 富士の大木(2)
富士山が世界遺産に認定され、霊峰富士に育まれた「富士ひのき」も認定さ
れた意義を感じている。此の地は1000年単位で災害が在り、500年単
位の木の成長はあり、大仏殿の檜の大木はあり得たはずである。此の檜は現
在ブランド化の努力が重ねられている「富士ひのき」の偉大な御先祖様と言
える。
我が家の100年木も何本かは200年300年の樹齢を重ねさせたい。
富士南麓の林業は、治山治水の高名の「金原明善」翁の明治の指導に始ま
る。模範林の育成、緑化推進、組合指導等により林業地が育てられた。勢子
辻付近の溶岩台地には檜が適地であるとして、檜の林業地「富士」が現在ま
で続いている。
明善翁の偉業をたたえる為、「こどもの国」の東の高台に顕彰碑を建てた。




(方広寺の大仏殿の棟梁)(2)
家忠日記の如く木引きは8月も続き、8月末に漸く「大き」(現在の青木
の地)迄引き出し
9月4日には沼窪川に入った。是より富士川を下り、苦労の後9月12日
吉原に達した。
以降海路し、大阪・淀川より運搬の為に掘られた高瀬川で方広寺まで運ば
れている。

大木の口伝・古文書が現地に発見されて居ないのは残念である。
方広寺の鐘と今に残る大仏殿の柱の金環の写真を加える。




「富士ひのき」に関して近々テレビ放映が在る様子、林業の努力・丹精
を知って頂けると有り難い。


昔話(39)外伝 善徳寺考 富士の大木「3」
林業の丹精を讃える為、「林相をととのえ冬日深ゆるす」の句碑建碑。
(妙心寺の欅の柱等)
京都の妙心寺参詣の折、法堂を見学したが60cmの径の欅の柱の産地
を聞いた所「駿河の東山」よりと説明された。興味を覚えて駿河と考え
られる場所を探して歩いた。御殿場に東山の地名が在るが、新しく該当
しない為、更にこの地で言ふ東山即ち箱根の西の山々を訪ねて歩いたが
探し得なかった。此の間何人かの郷土史家にお会いし最後に愛鷹山の
「下和田」に妙心寺の欅の調達の伝承が在る事を知り得た。詳しくは
「裾野風土記」に記されている。
欅の柱材は芯去り柱で、径60cm長さ8,5mであり、一本の欅依り
柱を4本とったとの事であり、この大径の欅の数十本の繁茂の山の不動
山が偲ばれる。
愛鷹山は善得寺より見て東山と呼ばれており、善得寺の住職が此の建設
に関係した為、材が駿河の東山の伝承となったと考える。
「下和田」の篤行は妙心寺の山誌に伝えられている。



京都の東寺でも欅材は東山よりとされており、伺って話したところ京都
の東山との事であったが、この時期に京都にこのような欅の大木が在る
筈が無く、駿河と考えるが確認できていない。


昔話(40)外伝 善徳寺考 富士の大木(4)
富士山の周辺には流動性の高い玄武岩質の熔岩の為、立ち木・倒木を熔岩
が包み形成された熔岩樹形が多数ある。

(熔岩樹型)
富士山の四方に熔岩流が在り、青木原熔岩流・剣丸火熔岩流・大淵丸火熔
岩流・東臼塚熔岩流・小天狗熔岩流・日本ランド熔岩流等が知られている。
各熔岩流には多くの熔岩樹型が残されている。熔岩樹型の中で何本かの木
を重ねた複合の物は珍しく、世界中でも富士山の8個のみとの事である。
富士山が世界遺産に指定されるとき、鳴沢・船津の2ケは世界遺産に指定
された。日本ランドの複合樹型は何故か指定されて居ない。
「富士市の自然」誌には東臼塚熔岩流に次の報告が在る。調査保存したい
物である。
 総数482  直立樹型433 横臥樹型49
富士市丸火には直径3mに及ぶ世界最大と思はれる横臥樹型がある。


庭に酔芙蓉の数が増し、将に花盛りである。朝には純白の花を開き、温度
が上がるにつれ桃色と成り、夕方には赤に変じ夜には花を終わる一日花で
ある。