富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(159)根方街道(8)

2015年05月29日 19時45分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(159)根方街道(8)

根方街道は既述のように浮島沼の陸地化更には宅地化に伴い逐次南に移っている。明治に入り測量の実施以降その変化が見られるため、地図を挙げて見る。

明治20測量、28年第1回修正、31年製版。
富士沼・須津沼は既に無く、須津沼は形の池だけ。残された浮島沼は西端のみ。



明治20年測図、大正4年第2回修正測図、大正8年印刷。



明治20年測図、大正4年第2回修正測図、昭和5年部分修正。
残る浮島沼が更に変形。



明治20測量、大4第2回修正、昭15部分修正、昭1
9部分修正、昭23資料修正。
浮島沼の形が無く、沼沢地に。



明20測量、大4第2回修正、昭15部分修正、昭19部分修正、昭39部分修正(鉄道)。



びょう柳の黄色が賑やかになった。



空木と萩が競い合っている。















富士市今泉の昔話(158)根方街道(7)

2015年05月23日 18時25分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(158)根方街道(7)

大正になり、田宿の「金子曲がり」より清岩寺坂の下までの「藪下」の道が開設され、同時に御殿より下る坂道も開設された。長い時
間をかけて根方街道の現在の姿になった。
金子曲がりには写真のように、根方街道と明記の石標が豆腐屋の角に建てられていた。現在此の石標は「広見公園」に置かれている。
「広見公園」には石標として「東街道」「仁藤春耕」の碑等が並べられている。





石標は此の角に在り、直進は十里木道と右折は根方街道と記されている。碑は青年団による皇紀2600年の記念碑である。十里木道は直進して今泉往還と直交、寺市場の坂を登り妙延寺の西を十里木に通じている。



金子曲がりを右折後の写真である。直進は根方街道の比奈に直行の新道、左折が藪下を通る根方街道。



藪下の街道で、左折の同時に御殿に通ずる急坂が新設された



藪下道は北進して呼び子坂(何時の日か正しい名に戻すことが必要)道に当たる。



坂下の場所で、文字盤の場所に近日まで青年団による呼び子坂の記念碑があった。碑は清岸寺門前に移設された。



東行の根方街道は新設大道と直交、三島製紙の南で旧の根方街道と合流する。



根方街道は浮島沼の陸地化に伴い、宅地の増大と道路の南への移動が進み現在となっている。

庭の赤花の山法師が咲き始めた。一杯の花が見事である。
赤花の下野も色濃を咲かせている。













富士市今泉の昔話(157)根方街道(6)

2015年05月16日 19時24分29秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(157)根方街道(6)

駿河大納言の時代に清岩寺坂が通じ、今泉往還は坂下の新しい道で根方街道となり、宇東川地区の住宅地が形成されたと思はれる。この形が幕末まで続いている。大納言により整備された清岩寺坂・坂本坂・寺市場坂の石畳は明治まで残っていた伝承がある。清岩寺坂の石畳は撤去後一部は寺の参道の飛石として残されていたが、寺の整備の間に散逸されたようであり、残念である。



明治の時代に地図のように下和田の田の中に「佐野新道」が出来た。現在の下和田の道の南で、子供のころ遊んだ道であるが今は細い裏道として残るばかりである。此処から「泉町」「富士見町」に通じ、「田宿」で旧根方街道に合している。この時点で今泉往還を出発点とした根方街道が吉原を出発点と変えている。
「佐野新道」の名の由来は解らない。裾野の「佐野」迄の愛鷹山裾の道と考えると根方街道の意味が出てくるが、よく解らない。
佐野新道は合流後、坂本・御殿を通り清岩寺坂を下る大納言時の道を使っている。

現在の下和田の変則交差点で、左に北進の十里木街道、正面が現在の下和田街、次の細道が佐野新道の名残の細道、右端が根方に通ずる新道である。



新道の名残の細道。電柱の処を左折が細道。直進が下和田街を横断して善得寺城の天守と推定する愛鷹神社に通ずる。



子供のころ遊んだ田の中の細道。



新道は合流後富士フィルム跡地(前は北辰製紙跡)に当たって北進。次の写真の様に田宿川を渡り直進して坂本に達し根方街道となっている。直進路の途中の金子曲がりで大正時代に新道が加わった。直進の道は田宿川の土手伝いに沖田まで続いていた。土手伝いに子供の頃魚釣りや蝗取りに遊んだ記憶が楽しい。子供の頃の田宿川は工場の排水で褐色に濁り悪臭の川であったが、今に見る清水は土地の方々の努力による物である。松原川で蛍の乱舞していた思い出がある。





「大山蓮華」が咲き始めた。山中で出会うと純白・芳香に感激する。



オウチの花が咲いた。此の時にいつも思い出す。今村波津先生の絶唱「ほのぼのと命ありけり花樗」が忘れられない。







富士市今泉の昔話(156)根方街道(5)

2015年05月09日 16時53分28秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(156)根方街道(5)

根方街道は愛鷹山の南に広がる浮島沼の北縁の街道である。浮島沼は東西約6km、南北約2kmの低湿地で、富士沼・須津沼・柏原沼・広沼・大沼等より成っていたが、富士川や愛鷹山系の川の沖積と地盤変化により西より陸地化が進み、現在は残り僅かとなっている。地形の変化は街道の変化となり、徳川時代には現在の根方街道に近い線まで南に動いていたようである。
家康の頃は前記の如く飯森神社より東行している。或いは家康時代江戸へ根方街道が使はれる事もあったかもしれない。
駿河大納言が瀬古の茶屋御殿に別所した記録に、四方の道に大木戸を置いたと記されている。その東の木戸が明治時代まで清岩寺の前の坂の頂部にあり、廃止する時其の礎石を2ケ清岩寺の石垣に組み込んだと伝承されている。現在は其の1個のみ写真の如く残されている。
南の入り口の木戸は坂本の坂の基部に確認伝承されている。
西と北の場所の伝承はない。
家康の時代には無かった清岩寺坂が駿河大納言の時代には東の入り口として新設されたと考えられる。
頼朝の時代には此の坂は無く、此の坂を呼び子坂と呼ぶのは荒唐無稽であり、大正時代に青年団が名の碑を立てただけであり、前記の如く飯森神社の南の鎌倉古道に移すべきである。

根方街道は駿河大納言の時代に坂を下り、坂下の新設の道が三島製紙の南で現在の根方街道と結ばれ、住居が拡大された。



茶屋御殿に至る坂本部。直交する道路は左が北条に焼き打ちされた善得寺跡である。坂の頂部は義元建の善得寺跡である。基部に南口の木戸があったと伝承されている。道路と直交部に高札場があった。



左が御殿部である。




呼び子坂と誤称されている坂の頂部。東の木戸の伝承がある。清岩寺鐘楼。



基礎の一つ。1尺の角柱の冠木門である。



珍事。筍はついに1,5mの高さまで伸びたが此処で滑り落ちた。



吊花が満開となった。


富士市今泉の昔話(155)根方街道(4)

2015年05月02日 19時53分41秒 | 昔話

富士市今泉の昔話(155)根方街道(4)

根方街道は応永の頃(1400頃)善得寺城が出来日吉より北上の街道として確定と推定以来、鎌倉古道と一致し往来され続けた。時移り、1590年の頃秀吉の北条征伐があり、今泉瀬古の地と推定される吉原御殿の建設で大きく変化したと思はれる。
1600年の頃、江戸開府された頃善得寺城は廃城となり、家康の鷹狩りの拠点として吉原御殿を改築しての善得寺御殿が使われたと思はれる。此の為に、日吉より善得寺御殿への堀を埋めての曲折の今泉往還が出来たと思はれるのは前述の善得寺城の平城推定の基本となっている。
六所家資料に在る家康の瀬古御殿への道筋の図であり、その出発地の虎口を含む今泉往還の始まりである。







曲折の内、善得寺城の本丸と推定の愛鷹神社に至る道筋であり、往還は此処で右折する。





曲折を過ぎ、復応寺の前の往還。右の高みが家茂の泊地の御退場場(避難場所)。寺の南は往還整備時に整備されたと推定。



武家屋敷の向小路より旧善得寺跡の坂本を望む。途中に高札場がある。



瀬古の北上の往還である。左が吉原御殿・善得寺御殿・茶屋御殿の地である。



大宮道で吹上の地より北上する。鉄格子の部に昔の水配分の工夫がある。



今川時代の善得寺への水路であり、此の水路の右(東)に土手の形で道路があり、鎌倉古道の水タンク部で古道に合流し根方街道となっている。今は屋敷となり路の姿はない。子供の頃此の川でよく沢蟹を釣って遊んだ。



我が家の庭は二本のオガタマの木が満開で匂い、ハンカチの木・なんじゃもんじゃの木が。