富士市今泉の昔話(64)外伝 善得寺考 霊場巡り(9)
駿豆横道33霊場巡り(9)
昭和58年7月20日
富士川以東の札所を終え、所用を兼ねて静岡に順拝した。
清水寺
駿豆横道33霊場第27番
場所 静岡市音羽町
本尊 千手観音
宗派 真言宗
由緒 永禄2年(1599)今川氏輝の遺命により創立された。
(由緒はフリー百科事典より)
開基 今川義元。開山 道因大僧正。
地形が京都清水寺に似ている事より名ずけたと言われる。
後に徳川家康もしばしば参詣し、念持仏を納め本尊とさ
れたと伝えられる。家康が建立したという観音堂及び観
音の厨子は桃山様式で、慶長7年(1602)に造られ
た物(県有形文化財指定)。平成7年に解体修理された。
清水寺は駿府浅間神社の別当も勤め、明治の神仏分離の時、
その護摩堂を移し、薬師堂としている。
堂塔は信玄の永禄11年(1568)の第一次駿河侵攻に
より焼失したが、家康の寄進等で再興し、正徳の火災を経
て正徳4年に再建された。安政大地震では堂宇の殆ど崩壊
焼失した。明治初期に浅間神社より薬師堂が移された。本
堂は昭和6年(1931)中国寺院風に鉄筋で建立、現在
に至っている。
清水観音大祭は7月9日に行われる。この日は四万八千功
徳日に当たり、此の日に参拝すれば一生分の幸福がもらえ
ると言われている。米を一升の升に入れると46000~
48000粒が入るので一升を一生とかけて言われている。
東京の浅草寺では四万六千日としている。
30年前に妹との順拝には寺名塔は同じであり、豪華の厨子を覚え
ている。50年前母との順拝の折には近接する護国寺に参じ、戦死
した兄を偲んだ事を覚えている。
徳願寺(得願寺)
駿豆横道33霊場第28番
場所 静岡市向敷地
本尊 千手観音
宗派 曹洞宗
由緒 安部川西岸徳願寺山の中腹に在り、静岡市街地を望む。本尊
は「安部7観音」の一つ。古くは山頂に建てられた山岳密教
の大窪寺であったと推定されている。
戦国時代、今川氏親の生母北川殿(北条早雲の妹)の菩提寺
となり、曹洞宗徳願寺となった。江戸時代後期に現在地に移
り、本堂・庫裏共に当時の形態を残している。
慶長19年(1614)、片桐且元が有名の方広寺の鐘銘事
件の時、豊臣の使者として来駿の折、暇泊の伝承が在る。然
し駿府を見下ろす高場所を遠慮して、下の誓願寺に泊したと
の伝承もある。
徳願寺は駿府城の裏鬼門の鎮護と言われ、徳願寺城は駿府城
を支える支城と考えられ、堀切・空壕・土塁の遺構が見られる
徳願寺の御住職が、戦後富士フイルムの足柄工場の青年教育に尽力さ
れており、工場勤務の自分と同県人のご厚誼を戴いた事が在る。庫裏
に伺い、寺の事等の話題に御厚誼の事を加えたが、是は先先代の方で
現在の御住職の祖父君に当たり、既に13忌を済ませたとの
事、年月の早い事また加齢の事歎ずる思いであった。
寺名が当初は得願寺であったが、何時何故徳願寺となったかお聞きし
て見たが、伝承は何もなく解らないとの事であった。大平の徳楽寺は
元は得楽寺であり、富士の善徳寺は善得寺であった事は同じ考えと思
はれるが不思議である。福島の山の寺にも同じ寺の名の変更があった。
50年前には、杖引く母と山道を歩いた事、汗しながらの眺望の事思
い出される。
北川殿の墓地である。
庭に芭蕉が茂り、浜木綿が咲いた。
。
駿豆横道33霊場巡り(9)
昭和58年7月20日
富士川以東の札所を終え、所用を兼ねて静岡に順拝した。
清水寺
駿豆横道33霊場第27番
場所 静岡市音羽町
本尊 千手観音
宗派 真言宗
由緒 永禄2年(1599)今川氏輝の遺命により創立された。
(由緒はフリー百科事典より)
開基 今川義元。開山 道因大僧正。
地形が京都清水寺に似ている事より名ずけたと言われる。
後に徳川家康もしばしば参詣し、念持仏を納め本尊とさ
れたと伝えられる。家康が建立したという観音堂及び観
音の厨子は桃山様式で、慶長7年(1602)に造られ
た物(県有形文化財指定)。平成7年に解体修理された。
清水寺は駿府浅間神社の別当も勤め、明治の神仏分離の時、
その護摩堂を移し、薬師堂としている。
堂塔は信玄の永禄11年(1568)の第一次駿河侵攻に
より焼失したが、家康の寄進等で再興し、正徳の火災を経
て正徳4年に再建された。安政大地震では堂宇の殆ど崩壊
焼失した。明治初期に浅間神社より薬師堂が移された。本
堂は昭和6年(1931)中国寺院風に鉄筋で建立、現在
に至っている。
清水観音大祭は7月9日に行われる。この日は四万八千功
徳日に当たり、此の日に参拝すれば一生分の幸福がもらえ
ると言われている。米を一升の升に入れると46000~
48000粒が入るので一升を一生とかけて言われている。
東京の浅草寺では四万六千日としている。
30年前に妹との順拝には寺名塔は同じであり、豪華の厨子を覚え
ている。50年前母との順拝の折には近接する護国寺に参じ、戦死
した兄を偲んだ事を覚えている。
徳願寺(得願寺)
駿豆横道33霊場第28番
場所 静岡市向敷地
本尊 千手観音
宗派 曹洞宗
由緒 安部川西岸徳願寺山の中腹に在り、静岡市街地を望む。本尊
は「安部7観音」の一つ。古くは山頂に建てられた山岳密教
の大窪寺であったと推定されている。
戦国時代、今川氏親の生母北川殿(北条早雲の妹)の菩提寺
となり、曹洞宗徳願寺となった。江戸時代後期に現在地に移
り、本堂・庫裏共に当時の形態を残している。
慶長19年(1614)、片桐且元が有名の方広寺の鐘銘事
件の時、豊臣の使者として来駿の折、暇泊の伝承が在る。然
し駿府を見下ろす高場所を遠慮して、下の誓願寺に泊したと
の伝承もある。
徳願寺は駿府城の裏鬼門の鎮護と言われ、徳願寺城は駿府城
を支える支城と考えられ、堀切・空壕・土塁の遺構が見られる
徳願寺の御住職が、戦後富士フイルムの足柄工場の青年教育に尽力さ
れており、工場勤務の自分と同県人のご厚誼を戴いた事が在る。庫裏
に伺い、寺の事等の話題に御厚誼の事を加えたが、是は先先代の方で
現在の御住職の祖父君に当たり、既に13忌を済ませたとの
事、年月の早い事また加齢の事歎ずる思いであった。
寺名が当初は得願寺であったが、何時何故徳願寺となったかお聞きし
て見たが、伝承は何もなく解らないとの事であった。大平の徳楽寺は
元は得楽寺であり、富士の善徳寺は善得寺であった事は同じ考えと思
はれるが不思議である。福島の山の寺にも同じ寺の名の変更があった。
50年前には、杖引く母と山道を歩いた事、汗しながらの眺望の事思
い出される。
北川殿の墓地である。
庭に芭蕉が茂り、浜木綿が咲いた。
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