富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(64)

2013年07月26日 19時21分08秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(64)外伝 善得寺考 霊場巡り(9)

駿豆横道33霊場巡り(9)

昭和58年7月20日
富士川以東の札所を終え、所用を兼ねて静岡に順拝した。

清水寺
 駿豆横道33霊場第27番
 場所 静岡市音羽町
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 永禄2年(1599)今川氏輝の遺命により創立された。
    (由緒はフリー百科事典より)
    開基 今川義元。開山 道因大僧正。
    地形が京都清水寺に似ている事より名ずけたと言われる。
    後に徳川家康もしばしば参詣し、念持仏を納め本尊とさ
    れたと伝えられる。家康が建立したという観音堂及び観
    音の厨子は桃山様式で、慶長7年(1602)に造られ
    た物(県有形文化財指定)。平成7年に解体修理された。
    清水寺は駿府浅間神社の別当も勤め、明治の神仏分離の時、
    その護摩堂を移し、薬師堂としている。
    堂塔は信玄の永禄11年(1568)の第一次駿河侵攻に
    より焼失したが、家康の寄進等で再興し、正徳の火災を経
    て正徳4年に再建された。安政大地震では堂宇の殆ど崩壊
    焼失した。明治初期に浅間神社より薬師堂が移された。本
    堂は昭和6年(1931)中国寺院風に鉄筋で建立、現在
    に至っている。
    清水観音大祭は7月9日に行われる。この日は四万八千功
    徳日に当たり、此の日に参拝すれば一生分の幸福がもらえ
    ると言われている。米を一升の升に入れると46000~
    48000粒が入るので一升を一生とかけて言われている。
    東京の浅草寺では四万六千日としている。

30年前に妹との順拝には寺名塔は同じであり、豪華の厨子を覚え
ている。50年前母との順拝の折には近接する護国寺に参じ、戦死
した兄を偲んだ事を覚えている。







徳願寺(得願寺)
   
 駿豆横道33霊場第28番
 場所 静岡市向敷地
 本尊 千手観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 安部川西岸徳願寺山の中腹に在り、静岡市街地を望む。本尊
は「安部7観音」の一つ。古くは山頂に建てられた山岳密教
の大窪寺であったと推定されている。
    戦国時代、今川氏親の生母北川殿(北条早雲の妹)の菩提寺
となり、曹洞宗徳願寺となった。江戸時代後期に現在地に移
り、本堂・庫裏共に当時の形態を残している。
    慶長19年(1614)、片桐且元が有名の方広寺の鐘銘事
件の時、豊臣の使者として来駿の折、暇泊の伝承が在る。然
し駿府を見下ろす高場所を遠慮して、下の誓願寺に泊したと
の伝承もある。
    徳願寺は駿府城の裏鬼門の鎮護と言われ、徳願寺城は駿府城
を支える支城と考えられ、堀切・空壕・土塁の遺構が見られる

徳願寺の御住職が、戦後富士フイルムの足柄工場の青年教育に尽力さ
れており、工場勤務の自分と同県人のご厚誼を戴いた事が在る。庫裏
に伺い、寺の事等の話題に御厚誼の事を加えたが、是は先先代の方で
現在の御住職の祖父君に当たり、既に13忌を済ませたとの
事、年月の早い事また加齢の事歎ずる思いであった。
寺名が当初は得願寺であったが、何時何故徳願寺となったかお聞きし
て見たが、伝承は何もなく解らないとの事であった。大平の徳楽寺は
元は得楽寺であり、富士の善徳寺は善得寺であった事は同じ考えと思
はれるが不思議である。福島の山の寺にも同じ寺の名の変更があった。
50年前には、杖引く母と山道を歩いた事、汗しながらの眺望の事思
い出される。


北川殿の墓地である。





庭に芭蕉が茂り、浜木綿が咲いた。
























































富士市今泉の昔話(63)

2013年07月20日 08時52分38秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(63)外伝 善得寺考 霊場巡り(8)

駿豆横道33霊場巡り(8)
昭和60年2月21日(2)
根方方面の霊場巡りを終えて、反転車を西へ、霊場巡りを続ける。
清林寺(廃寺)
 駿豆横道霊場第19番
 場所 富士市天間川坂
 本尊 聖観音(手無し観音)
 宗派 日蓮宗
 由緒 一般には清流寺とも呼ばれ、御判所及び管理は近くの福泉寺
   (日蓮宗)が行っている。
    本尊は手無し観音と言われ、右手が無い。戦国時代の永禄2年
   (1559)、小泉村の漁師が潤井川で網を打つと、光明を放っ
    た小さな観音像が現れた。帰宅の途中、休息を取って居る間に、
    等身大に大きくなったので、此の地に堂宇を建て祀ったと言う。
    清林寺は廃寺となり、跡に観音堂のみ残り、観音様を祀ってい
    る。

    久日山福泉寺
    開創は明応元年8月(1492).吉野日向守の二男が当地に
    分家したが、今川と武田の合戦で戦死した為、其の子万右衛門
    が北山本門寺第6世の弟子の日悟上人を招き開創した。平成
    25年で開創521年になる。

福泉寺を尋ね、観音堂の案内等を戴いた。寺内に「荒木貞夫」の「孝」
の大書の碑が目に付いた。









大悟庵
 駿豆横道霊場第20番
 場所 富士宮市星山
 本尊 十一面観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 星山丘陵に建つ観音堂は「星山観音」と呼ばれている。昔は福
    興寺(真言宗)と称した。
    平安時代、弘仁3年(812)弘法大師が巡錫の折、白い絹に観
    音像を描いたものを本尊として開創したと伝えられている。
    今でも70年ごとに描き改める風習が残り、近年では沼津の画家
    一運斎国秀が明治42年に描いている。現在寺に残るは白布
    140反に移された観音像で、毎年3月18日に開帳される。

    観音堂は350年前に建てられたものである。

    観音像拝写記録(寺誌より)
    孝霊天皇御宇より凡そ1570余年の間、旧記不詳。
    文歴2年拝写。
    応永5年(1498)拝写。
    天文17年(1548)拝写。
    文禄2年(1593)拝写。
    延宝5年(1677)拝写。
    元禄11年(1698)拝写。
    明和8年(1771)拝写。筆者 江戸狩野春信。
    天保3年(1832)拝写。
    明治42年(1909)拝写。筆者 一運斎国秀。
    昭和28年(1953)拝写。
    画像御長 16,5間  御幅8,5間

星山地区も開発で新道が通じ、大悟庵周辺も大きく変わった。然し倭文
神社の大杉は変わらず、ホトトギスの声は満喫出来た。ホトトギスは平
沢寺で聞き、赤野観音でも楽しみ、大悟庵では堪能できた。郭公は近年
聞けなくなった。
寺伝等大黒様のご配慮を戴いた。



寺内に倭文神社が在る。その由緒を跋記する。
当神社は延喜式神明帳にある式内社で、又富士郡3座の一つでもあり、
日本最古唯一の織物・製紙の神である健羽雷神を奉斉する神社である。
(中略)
元来当地方には、藤・三椏・楮等が山野に自生しており、加えて清冽の
湧水も豊富であったので、製紙の発達の素地が在った。富士地域が有名
の紙の産地として知られている起源は茲に在るとされている。
御神木の大杉は富士宮市の指定保存樹であり、目通り幹周5,9mの巨
木である。




庭に早オミナエシが花を咲かせた。






































































            


富士市今泉の昔話(62)

2013年07月13日 10時56分31秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(62)外伝 善得寺考 霊場巡り(7)

駿豆横道33霊場巡り(7)
昭和59年10月18日
母の実家の火事後の新築祝いの帰途、根方の観音様2寺に参詣し、前回
に続けた。

妙善寺
 駿豆横道33霊場第18番
 場所 富士市東滝川
 本尊 11面千手観音(観音堂)
    釈迦牟尼仏(妙善寺)
 宗派 臨済宗
 由緒 寺伝によれば、奈良時代天平年間、聖武天皇の勅願により、行
    基菩薩が観音像を刻んで納めたという。現在の本尊は室町時代
    の優品。広目天・多聞天の脇侍仏は慶派の影響を受けている。

    創建 天平勝宝元年(749)2月
    開山・開基 行基菩薩
    中興開山 峰得禅師
    中興開基 小栗判官満重

    寺には小栗判官についての伝承が在る。常陸の国の小栗の庄の
    城主小栗判官は、鎌倉管領との戦に敗れ、照手姫(鑑石園の鏡
    石にある伝承)を連れ、名馬鬼鹿毛を従えて、毒殺を逃れて西
    下妙善寺まで至った。時の大空禅師は一行を手厚く看護した。
    回復した判官は更に西に逃れた。途中預けられた鬼鹿毛は、主
    人亡きあとを探しあるき、妙善寺までたどり着いたが力尽き息
    絶えた。禅師はこれを憐れみ、鬼鹿毛を観音堂の下に葬り手厚
    く供養したとの事である。

    臨済宗の中興の祖と言はれる白隠禅師は、妙善寺の板嶺周痩首
    座・及梵忠和尚と親交あり、よく滞在した。観音堂の扁額「常
    念閣」に白隠の落款がある。

    観音堂は文保元年(1317)に再建されているが、村山修験
    や東泉院との関係もある。

    観音堂には俳句の懸額(市文化財)が在る。

母との順拝は昭和35年4月、妹とは昭和59年10月。母との順拝は
此処より始め、今また思いを重ね得た。
子供の頃、滝川の観音様のお祭りを楽しみだった。屋台の立ち並ぶ境内
を友達とあるき、蟹・肉桂・綿菓子・金魚等を見て楽しんだ。例として
草競馬が行われたが、今にして聞けば名馬鬼鹿毛に由来との事である。
境内の桜は既に老木ながら数多く、花は見事である
涅槃図への参拝も回を重ねている。







福衆院
 駿豆33霊場第17番
 場所 富士市増川
 本尊 准堤観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 開創は行基菩薩、開基は長円和尚と伝えられる。元禄11年
   (1698)再興され、曹洞宗になった。
    境内に西国霊場や横道の巡礼供養塔が建つ。
    (以下「富士おさんぽ見聞録」資料)
    寺記は奈良期の宝亀2年(771)に行基が開いたと伝え、秘仏の
    本尊は行基作とする。後天台宗或いは浄土宗になったと言はれ、
    江戸期の元禄12年(1699)に原田永明寺14世覚誉長円が再
    建し、曹洞宗に改めた。
    文政10年(1827)の火災で堂宇・重宝・古文書などを失っ
    たが、慶応元年(1865)24世越童の大に再建された。
    本尊は33年毎に開帳される。

寺は根方街道の高台に位置し、眼下に浮島一帯を一望できる。寺内の本堂
前には石仏等の石像が並んでおり、順拝碑も並ぶ。街道沿いに写真の如く、
霊場道標・道祖神などが並び、旅人の安全を守る如くある。







庭のcat tail、又鬼ゆり。「猫の尾」の赤で賑やかである。





  















富士市今泉の昔話(61)

2013年07月06日 08時31分58秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(61)外伝 善得寺考 霊場巡り(6)

駿豆横道33所霊場巡り(6)
2度目の妹との順拝の順で整理してきたが、三度目の思い出を重ね
ての順拝の順は此れと相違してしまった。2度目の日付けを残し、
3度目の順で整理を続ける。

昭和60年2月21日。
根方方面の札所巡りを、次女の長男を加えて賑やかに進めた。狭い
街道を尋ね尋ねてての順拝に母との日の思いを重ねた。

玄機庵
 駿豆横道霊場第14番
 場所 沼津市東沢田
 本尊 聖観音(玄機庵)
    不動明王(大中寺)
 宗派 臨済宗
 由緒 大中寺末寺。現在東沢田公民館内に在り、檀家の人々によ
    り管理されている。昭和41年堂宇の新築の為発掘調査が
    行われた時、多数の人骨が出土した。戦国時代の近辺の合
    戦で死亡した人々の供養の為に建てられた堂宇と推定され
    ている。
    本尊は聖観音菩薩の座像で行基菩薩の作と伝えられている。
    開山は大中寺在住の文英禅師である。寛文12年
   (1672)遷化。
    大中寺の開山は夢想国師で、正和2年(1313)。

妹と順拝の折には大中寺の本堂の前にある見事の株立ちの「日向水
木」が花を見せていた。
玄機庵の本寺である大中寺は善得寺の末寺であった。大中寺に残る
古書の「揚げ水」は善得寺にも有り、諏訪の上原城の揚げ水と共に
興あり、御住職より色々ご教示頂いた。
大中寺は梅の名所として知られている。
善得寺7代の太源和尚は大中寺の9代として中興しており、善得寺
9代の東谷和尚は永禄年間に大中寺に寄進している等関係が在る。
三度目の順拝には満山の緑の中に蓮の花が美しく、隆隆の山桃の実
が足の踏み場もなく落ちていた。





大中寺の鐘楼門。



赤野観音堂
 駿豆横道33霊場第15番。
 場所 沼津市柳沢字赤野
 本尊 十一面観音
 宗派 真言宗
 由緒 この辺りの地名を阿気野といい、もとは阿気大神が祀られてい
    たと伝えられている。此の神社は現存しないが、その本地位と
    考えられる寺院の観音だけが残り、現在は広大寺で管理してい
    る。
    観音堂は寺から2kmほど登った愛鷹山の丘陵上にある。本尊
    は、天正9年(737)行基菩薩作と伝えられている。萱葺き
    の精巧な観音堂は、江戸時代中期の様式を伝えている。寛永
    14年(1637)に再建されたもので、左甚五郎が日光東照
    宮からの帰途に、藁人形を使い3日3晩で仕上げたと伝えられ
    ている。山号額は、幼少の頃此処に参籠し、出家の誓いをした
    といふ白隠禅師晩年の書。
    境内に大栢がある。
    広大寺はかって愛染院(廃寺)の末寺だった。
    この赤野観音堂は沼津市内数少ない江戸時代の建築様式を示す
    建物で、市指定有形文化財となっている。木造、茅葺き、寄棟
    造りの平屋建てであり、内陣は唐様式の鏡天井で、天井には龍、
    正面両面の壁面には飛天(天女)の舞う姿が描かれ、外陣・外
    回りは化粧天井になっている。屋根の茅葺きを除き創建時其の
    ままなのでかなり老朽化し、極彩色の絵画も薄れているが、よ
    くまとまったお堂である。
     (沼津市資料)
此処観音堂には浄界を恋うて4回程の参拝であり、今回は50年前の道
を辿ったがホトトギスの続けての声音に感激した。大栢も実を多くつけ
ていた。見下ろす山裾の緑、駿河湾の紺色、素晴らしい景色であった。
50年前は山道の入り口表示に依り、南より山道に入ったが車がやっと
通れる急坂を難渋して観音堂に辿りついた。大栢や石仏に母と感激した
覚えが在る。
30年前は、南よりの難儀に懲りて、北よりの道を取り山道を迷いなが
ら、素晴らしい岡上の寺域を喜んだ。
何年か前には北よりの道で参拝計画で進んだが、第2東名の工事に当た
り、道なき道を難渋しつつも観音堂に参拝出来た。一時の山気は格別
だった。




本寺の広大寺の前庭、栢の大木が在る。


大泉寺
 駿豆横道霊場第16番
 場所 沼津市井出
 本尊 聖観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 大泉寺は源頼朝の弟阿野全成の開基で、建仁年間の建立。境内
    に全成と時元の墓が残る。寺域は愛鷹山の山裾に広がり、前は
    浮島沼で交通の要衝を抑えており、源氏の軍事拠点だったと考
    えられる。
    開基の阿野全成は源頼朝の異母弟であり、義経の同母兄である。
    全成は幼名を今若丸と言い、義経と同様に醍醐寺で修業させら
    れていたが、頼朝の旗揚げを聞き、千葉の鷺沼で頼朝と合流、
    頼朝は直系の合流に感涙したという。義経との黄瀬川の対面に
    先んじてであるが、同様に最後は空しい。
    平家追討の功績により、駿河の阿野庄を与えられ、阿野全成と
    名乗った。
    北条政子の妹阿波の局を妻とし、4男の時元を得た。
    全成は頼朝の信頼を得て、義経や範頼の様に粛清されず重用さ
    れた。然しながら頼朝の死後は、北条に近い立場で、頼家の怒
    りを買い追討され建仁3年(1203)に下野で殺された。打
    たれた首は飛んで大泉寺の松に掛かったので、この松を首掛け
    の松と言われた伝承が在る。50年前の参拝の折には、寺庭に
    聳える松の大木が在ったが今は無い。
    全成が殺された後16年の建保7年(1219)死罪を免れて、  
    阿野庄に隠居させられていた全成の遺児時元が挙兵した。然し
    ながら僅かな兵で、北条義時の追討に敗れ、自殺した。
    これにより、公暁・実朝の死による源氏系流の断絶と共に、源
    氏直流は断絶した。
    全成と時元の墓は、大泉寺の住職の墓に並び、五輪塔と宝匡印
    塔双方の様式である。





我が庭に思わざる珍客飛来。将に玉虫色の彩を手に愛で再来を願い放
した。