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富士市今泉の昔花s9(141)善得寺城(再8)

2015年04月03日 08時25分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(141)善得寺城(再8)
善得寺城の位置、姿について私見を重ねたが最後の城の推移につき整理して見る。

善得寺城の推移。

応永13年(1416)8月禅秀の乱。
応永14年(1417)範政禅秀の乱平定に功あり、義持より下方の庄を与えられ領す。
           守護大名より変身。
           範政、領地の要として善得寺城築城。
           善得寺の西の荻野原に和田川を濠として前記の梯郭式平城を為す。
           この頃島田の島田義助などの刀鍛冶が移住してきた。
文明7年(1475) 今川内紛調停の功により善得寺城を含む下方12郷が早雲に与えられた。
延徳3年(1489) 早雲伊豆進室により今川領にもどる。
天文4年(1535) 武田信虎駿河侵攻。下方等領す。
天文6年(1537) 2月信虎の長女(於豐)今川義元に嫁し、甲駿同盟なる。
           信虎は娘の化粧料として下方12郷を義元に贈る。
           甲駿同盟に反発、4月北条氏綱駿河侵攻。河東一帯を制圧、善得寺・           善得寺城を焼く。
天文8年(1539) 8月今川氏河東回復。
天文9年(1540) 善得寺瀬古の地に再建、同時に善得寺城改築。武家屋敷を含む惣構を           設け東北条へ備えた。
天文10年(1541)第2次河東一乱の北条の攻撃を今川撃退。
天文14年(1545)8月義元河東回復。善得寺城着陣、兵2万。
           北条・上杉を追い3方輪の誓句。
天文23年(1554)北条駿河侵攻。武田今川応援のため加島に布陣。今川織田と対陣中を           帰陣、善得寺城に入る。
           扱いありて3国会盟の和成る。
永禄3年(1560) 義元戦死。
永禄11年(1568)信玄、家康と今川領の駿河を大井川を境に分割を約す。
           信玄の駿河第1次侵攻。
           北条薩垂峠以東を占拠、善得寺城に大藤左近衛門を置く。
永禄12年(1569)2月信玄駿河第2次侵攻、善得寺・善得寺城を焼く。
           4月信玄甲府へ。
           北条善得寺城などの兵一万六千を配し小田原に帰陣。善得寺城に大藤           左衛門を置く。

元亀元年(1570) 信玄駿河侵攻第3次、第4次。
天正10年(1582)武田氏滅亡。武田領は徳川領となる。
天正18年(1590)北条征伐。7月北条降伏。
           吉原御殿新築。
慶長8年(1603) 家康征夷大将軍となり、江戸開府。
           家康の狩用に瀬古御殿。(善得寺御殿)吉原御殿整備か?
           善得寺城を廃し、日吉より瀬古御殿への今泉往還築造。廃城の堀を埋           めて道路とした。以降、明治に新道が出来るまで今泉のメイン道路と           して使用されて来た。

以上にて善得寺城の再記を終える。

庭に自然の花々が賑やか、「菜の花」がいっぱい、「むらさきけまん」がいっぱい。
「おきなくさ」「やぶれかさ」「むさしあぶみ」「さくらそう」「ちだけさし」「うらしまそう」
等々芽が出てきて嬉しい。






















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