富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(5)

2012年06月25日 13時15分16秒 | 昔話
5善得寺(考) 其の場所(1)
今泉地区の昔話は一時休み、此処に在った大寺善得寺に就き(考)として、先ずその場所の推定を進めたい。
善得寺の由緒を考えるのに資料は非常に少なく、僅かに東谷禅師が雪斉禅師の33回忌の法要に残した香語が在るのみである。東谷禅師は善得寺の9代の住職であり、その詳細は
別記する。雪斉は太原雪斉、善得寺の7代で今川の盛隆を支えた有名の軍師でもある。香語は法要の折其の遺徳・偉業を讃える供養文である。
香語の文を借りつつ推定を進めたい。
「吹上の南丘を撰びて凹凸の地を引き平らげ累石を積んで正覚園を構え、活伽藍を建て、大冨山を改め、富士山に作る。」場所を示す香語の一文である。
香語は富士市今泉の吹上の南を指しているが、現在は岡は無く平地で数条の石垣(累石)を東西に配しての階段状の地となっている。現在残るは西端の御守殿神社の数mの高みのみであるが、これが丘の名残であれば香語の示す工事の結果であり、この地が善得寺の場所といってよいと考える。
これに就いては富士市の郷土史家故山口氏が郷土誌「駿河2号」で富士市今泉の御殿の地に所在と触れているのみで、其の理由は示されていない。
私見の根拠を更に記して見る。
駿国雑誌に徳川家康の「善得寺御殿地の図」がある。これには富士市今泉の御殿の地区に御殿が在ったことを図示している。この御殿は家康がこの地で鷹狩りをした時の宿舎で   
「善得寺御殿又はこの場所の子字依り瀬古御殿」と呼ばれており、信玄に依り焼き打ちされた善得寺の跡地である。此の地は三方を数丈の崖に囲まれ、北の鎌倉古道まで約10町歩(100,000㎡)の面積の平地であり、大伽藍の場所として考えられる。
この南の約10,000㎡の地の数条の東西の累石で階段状に整地された場所は七堂伽藍の合った場所と考えられ、京都五山・甲府五山と同様の広さである。
香語は又善得寺が今川の官寺であり、臨済宗の禅修業道場であることを示している。
今川氏を大壇越とする豪壮な大寺院であり、臨済宗の道場としての大きさや形式を備えた大寺院であり、此の地の符合が見られる。











富士市今泉の昔話(4)

2012年06月22日 14時30分04秒 | 昔話
4吹上周辺のその昔(4)
寺市場より更に一之宮の高みへの導水はサィフオンの原理に依るしかないが、今川の時代に同様の設備が在ったとすると素晴らしい。
信玄が諏訪を領地する拠点とした諏訪湖の東に上原城がある。信玄の頃既にサィフオンの原理を使った証拠がある。この城は後ろの永明寺山より揚げ水し、大空壕の底を通る木管に依り城内の高みに導水している。今も水が溢れている。木管は現在は土管となりその由 緒が看板に書かれている。

タンクは既に廃墟化しているが、導水路と共に大事にしたい。溢流の水を無駄にせず原田公園の流水に活用を提言したが活用されそうもない。残念である。

タンクの西の高みに「かまば」がある。窯場と書けると思はれるが善得寺に関係している。善得寺が廃寺になる時清岩寺に譲られ現在に及んでいる。現在は檜山であるが、昔は雑木山で、子供の頃甲虫等を採る良い遊び場であった。頂に僅かの空地があり、その西端に石を積んだ基壇があり、その中心に地蔵大士の碑が建っていた。現在は清岩寺に移され「米とぎ石」と呼ばれているが由緒は知らない。又南側には数基の墓が建っていた。これ等より此処は臨済宗の火葬場があったと考える。碑の後ろの「米とぎ」の窪みは地蔵大士の梵字の略号であり、火葬場によく建てられる。

此処の小川で蚯蚓を使って沢蟹をよく釣ったころが懐かしい。
この地区の昔を記する時、当時の写真も語る一役と考え古い写真を探した。昭和30年頃亡母が撮ったスライドが多数あるので、記の時々に入れて見たい。既に故人となられた方の写真も又思い出と思はれる。




富士市今泉の昔話(3)

2012年06月20日 15時55分09秒 | 昔話
3吹上周辺のその昔(3)
富士市今泉吹上のこの地は鎌倉古道を中心として尚思い出が多い。古道は三島製紙の北を通り、松原川(瀬古川)を渡り、飯森神社の東の呼び子坂を経て西進している。
大正時代に青年団の記念事業として、名勝の建碑する時呼び子坂については此処より人通りの多い清岩寺の南の場所が良いとの事にて現在の場所に建てられた。現在の呼び子坂の道は源平時代には無く、駿河大納言の別所を造る時の開設のようである。善得寺・源太坂・平家越えの碑は皆同時の物である。
飯森神社の東は整備され原田公園となっている。原田公園は松原川に沿い枝垂れ桜の名所であるが、今はオウチの花盛りである

  ほのぼのと命ありけり花オウチ(故今村波津先生の絶唱

呼び子坂は万葉の「手呼の呼び坂」であるとして建碑もあるが、根拠は無く、十王子神社付近に残る地名「呼坂」がそれと考えたい。
古道は西進して、義元に依る用水路に当たる。当時は此処に何か配水の工夫設備があったと考える。現在は使用は中止され、写真の様に廃墟となっているが、市の水道が出来るまでは立派な配水設備があり、吹上・御殿・寺市場・一の宮の生活を支えていた。
配水設備は、西に貯水タンク東に濾過設備でコンクリ製だった。寸法は正確ではないが、タンクは2m×3m深さ2m程で、波板で壁・天井を覆い雨風を防いでいた。濾過設備は同様の寸法で深さ30cmほどの水路を数条の堰板で曲折の間に、石・玉石・礫・砂・炭で逐次濾過しタンクへ流した。屋根は厚い木の板を並べていた。貯水タンクの底に御殿・吹上用と寺市場用の二本の導管が設けられ、入口部の溢流で水圧を維持していた。

  配水設備の跡地。現在も水が溢れている。遠景は「かまば」の檜山。
古道は西進して、義元に依る用水路に当たる。当時は此処に何か配水の工夫設備があったと考える。現在は使用は中止され、写真の様に廃墟となっているが、市の水道が出来るまでは立派な配水設備があり、吹上・御殿・寺市場・一の宮の生活を支えていた。
配水設備は、西に貯水タンク東に濾過設備でコンクリ製だった。寸法は正確ではないが、タンクは2m×3m深さ2m程で、波板で壁・天井を覆い雨風を防いでいた。濾過設備は同様の寸法で深さ30cmほどの水路を数条の堰板で曲折の間に、石・玉石・礫・砂・炭で逐次濾過しタンクへ流した。屋根は厚い木の板を並べていた。貯水タンクの底に御殿・吹上用と寺市場用の二本の導管が設けられ、入口部の溢流で水圧を維持していた。

  配水設備の跡地。現在も水が溢れている。遠景は「かまば」の檜山。








飯森神社の西の水路跡。すいろは土管で埋設され西側のみが野面積の石垣として残って
いる。

















富士市今泉の昔話(2)

2012年06月16日 14時56分47秒 | 昔話
2吹上周辺のその昔(2)

今川義元の時代に富士市吹上・瀬古の地に丘を削って七堂伽藍を備えた善得寺が創設され、同時に用水として原田の中島の湧水依り延々の水路が開設された。

大伽藍の創設と共に大土木工事だったに違いない。善得寺が武田に依り焼き打ちされた後は高台の生活用水として活用され、武田の郷士の開拓以来富士市の水道が出来るまで続いてきた。

水路に就いては尚後記するが、この項では吹上・御殿の分水につき当時の状況を記してみる。洗い水となる水路の水は清岩寺の西で吹上・寺市場と御殿の地区に二分されている。比率は2対1であるが分水方法に工夫されている。

山梨県の北杜市に三分の一(地名)がある。これは多くの湧水を一つの川に集め、これを更に三等分し、下流の三村に不平の無い様にするための施設で、武田の時代と伝承されている。この骨子は集めた水を広い底の平らの池に導き、これに落差の等しい滝三ケを設け、滝口三ケの幅を等しくしている。写真は分配池の様子です。このミニチュアが富士川楽座の広場に設置されている。



この分水の方法が吹上の場所に作られており、昔よりの物と考えると素晴らしい。50cm程の小川を1500cmほどの底の平らの池に広げ、其の南端に落差50cmの等しい滝口を設け、滝口を2対1の比で分水している。現在は舗装され暗渠となっているが、場所は鉄格子を嵌められその分水の花崗岩は見る事が出来る。写真は現在の状況です。



昔は此処で大根を洗い、池では障子を洗ったことを覚えている。初夏の頃には「おんじょさん」(ウスバカゲロウの幼虫)の無数が群れを造って乱舞し、上下した。これを獲る蝙蝠も見られた。この頃はまた松原川に蛍が乱舞し蛍狩りを楽しんだ。

先稿で地図の説明が欠けていた。地図は市役所発行の昭和33年の物で、尚新道は無いが住宅が建ち始めている。太い点線は後記する今川義元に依る善得寺の北端を示し、約10町歩を私見する。この私見の図はなお誰も発表していない。北端の道は所謂鎌倉古道で、後に甲州街道となり、ある時期は根方街道を兼ねていた。古道が妙延寺の北を通る辺(現在H家の墓所)に榎木の大木が列を成していた。抱え余る大木は現在H家の墓所となり今はないが其の根は残っている。古道に関係の列樹ではないだろうか?