富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(30)

2012年11月24日 13時53分25秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(30)外伝 善得寺城 歴史

今川範政は禅秀の乱での功績により、義持より下方12郷を与え
られ、守護大名より変身した。
応永14年(1417)
  今川範政築城。今川のこの頃の築城は、「掻きあげ式」築城
  が多く、壕を掘り、その掻きあげの土で土居をつくり、城郭を
  造っている。
文明7年(1475)
   今川内紛調停の功により、早雲興国寺城と下方12郷(善得
   寺城を含むと私見)を受ける。
応永24年頃(1481頃)
  古郡光貞の三代主水光資は須津中里村に安堵地を得て、今川上総  
  介に被官し、荻野原の善得寺城を守護。
  古郡氏は都留市古郡を領していたが、和田義盛の乱に関係した為、
  鎌倉より逃れて古郡で滅亡した。
  残った一党が和田義盛の領地だった此の地に逃れ、上和田に在る義
  盛神社を祀ったとの伝承が在る。(古郡氏資料)
天文年間(1532-35)
  今川の支城。
天文4年(1535)
  武田信虎駿河侵攻。下方を領す。
天文6年(2537)
  信虎の長女(於豊)義元に嫁す。娘の化粧料として下方を義元に
  贈る。
  甲駿同盟に反発、北条氏綱駿河侵攻。 河東1乱第1次、6年2
  月―8年7月。
  北条氏綱、善得寺城占領。寺市場の善得寺を焼く。
天文8年(1539)
  今川、8月河東を回復。
  義元、善得寺城修築。(石垣,塀、惣構を進め、北条えの防備を
  強化と私見)
「惣構」等整備図私見。兵農分離の考えで、惣構の中に武家屋敷を考え
たとし、諸小路を記した。惣構としては、船久保の谷依り呼坂の崖を経
て鎖線の如く、郷蔵更に北廓に結んでいる。



天文9年(1540)
  善得寺を瀬古の地に再興。
  善得寺城への揚げ水整備。
天文14年(1545)
  河東第二次大乱、7月ー11月。
  氏康、河東侵攻するも、義元撃退。8月義元善得寺城着陣2万。
  9月信玄今川との同盟に依り着陣、善得寺城に泊。
  10月、吉原城自落、北条撤兵。
天文23年(1554)
  北条、吉原城を本陣に兵3万余。
  武田、加島の柳島を本陣として兵1万5千余。
  今川、三河攻撃より反転して善得寺城に入る、兵4万。

善得寺にて、今川・武田・北條の三国会盟。
永禄12年(1569)
  2月信玄、駿河第二次侵攻。善得寺、善得寺城焼き打ちされる。
  信玄退去後、4月北条は蒲原城・善得寺城など12塁を固め武
田に対抗、兵1万6千を配し、善得寺城に大藤佐衛門を置く。
  信玄第三次駿河侵攻。
元亀元年(1570)
  1月信玄駿河侵攻(4次)。
  4月信玄駿河侵攻(5次)。
元亀2年(1571)
  武田・今川和睦。河東一帯は武田領となる。横尾郷は穴山梅雪へ。
  甲州人多く移住。

天正5年(1577)
  甲相和睦。
  善得寺城、再び北条へと私見。北条七郎氏孝・内藤大和の守備。
天正14年(1590)
  秀吉に依る北条征伐に当たり、家康北条の支城を接収。
  家康善得寺城廃し、道路等整備。


一閑に掛川の庄屋屋敷の古色を見た。太柱・太梁の黒黒の威を感じ
たので昔を偲ぶ一景としたい。


























富士市今泉の昔話(29)

2012年11月17日 14時16分45秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(29)今泉小学校の思い出(3)

小学校の思い出は水の上の教場が多いが、既に二回を記した。
加齢の整理を進めた所、文集などが出てきた為記して見たい。
思い出は小学校の二年ごろが多い。二年の担任は今村甲子夫
先生(一夜)だった。学校に綴り方、童詩の流れが在り、先生
がリード下さった。
水の上の教場には、上の運動場と下の運動場が在り、上の部分
に古い校舎又下の部分に教員室があった。下の運動場の東は
崖(善得寺城の在った時は惣構の南縁だったと私見する)で、
縁に椋の木の大樹が数本あった。青嵐を為し、木の葉時雨を
見せ私たちを励ましてくれた。時の校長は鈴木長太郎先生(亡く
なられた富士市長鈴木清見氏の御尊父)で、「椋の木」
と言ふ文集を出して下さった。古い文集を見ると懐かしく、
その巻頭言と清見氏の文を見て戴く。






今村先生は綴り方(作文)の授業に多くの言葉を下さったので、
その一部を思い出として見たい。
写真に続く今村先生の文です。
 心がねじけると文もねじける。
 心がうれしければ文もうれしく、心にしんぱいごとがある
 と文もしんぱいな文になる。(心が泣けば文が泣き心が笑
   へば文も笑ふ)
 心がこまかければ文もこまかくなる。
 心がすなをで 正しく 美しければ 文もすなをに 正
 しく美しい。
   よくみる
   よくかく
   よくあじわふ

 書くまで 

  文をたくさんよむ
  できごと 人 ものごと をよくみる
  よくきく
  しらべる
  文話をきく
  書きつけておく

 書くとき
  ふり辺ってよく考える 
  だいを見付けてあつめる
  文字をきれいに
  中心をきめる
  どんな じゅんじょに書くか決める
  うそを書かないで 正直に書く
  くわしくかく
  心を書く
  大ざっぱにかく
  知っているだけ かん字をつかふ
  口語文か 文語文かきめる
  文段をつける
  、 。 「 」をつける

 書いてから
  よみ返す すらすら よめてお話が
  よくわかるか?
  なをす つけたす
  かんじに書き辺へる  かなを 
  なをす
  、 。 「 」をつける
  思った通りにかけたか
  心と文とちがっていないか
  面白くかけたか
  たりないところ よぶんなところ 
  ないか



一暇を得て井川の錦に。







































































富士市今泉の昔話(28)

2012年11月09日 21時33分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(28)善得寺考  試掘(2)

一次試掘状況の概況に続き、結果を市の教育委員会
の報告並びに図面をお借りし纏めて見たい。

曾利式・勝坂式の縄文土器片の他、律令期の竪穴住
居跡のカマドの粘土及び焼土を検出したが撹乱が激
しく、プランの確定には至らなかった。
また、礎石跡と推定される遺構が4カ所確認された。
これらは東西3.5m、南北3.5mで正方形のプ
ランを呈する。しかしながらこの遺構に伴う遺物は
なく時期的の物は不明である。(以上市報告書)

4個の礎石は有り難く、結論は戴けなかった為、私
見の検討を進めて見る。
60cm径の柱4本は普通の民家では考えられない。
此の地で大型の建造物は過去に色々とある。先ずは
善得寺、更に秀吉の北条征伐時の接待御殿、次に家
康の善得寺御殿、また駿河大納言の御茶屋御殿があ
るが、構造・配置より善得寺の鐘楼・塔楼と考えら
れる。
更に配置よりは鐘楼と考える。先の七堂伽藍の配置
より此処は庫裏と方丈との間で時鐘の位置に適って
いる。寺を建てる時に鬼門封じが普通考えられ、鐘
楼も此の為に東北の位置に置かれ、将に此の位置で
ある。掘立の鐘楼の柱跡と私見する。





4ケの礎石は鐘楼と考え、妙心寺等を調査し柱の太
さ及び正方形の配置は一致した。然しながら基壇が
見られなかったのは調査が部分的の為とも考えられる。
妙心寺の写真を示すが袴腰はなかった。




付近に礎石瓦の出土はなかった為瓦葺きではなく、
萱葺きだったかもしれない。建長寺の萱葺きの鐘楼
の写真を示す。



市の報告書には無いが、不思議の球状の礫の多数の
固まっての出土。多量の20cm以上の厚みの石化
した灰の写真を示す。図の○印部分、尚の調査を
お願いしたい。
礫は鐘楼の東北鬼門の場所であり、鬼門封じの物と
考えると興味がわく。寺の鬼門封じとして鐘楼や
開山堂の配置が在るが、猿の像の設置、水晶の埋設、
桃の木の植え付け等も見られるとの事である。



2次試掘

平成18年5月23日より5月29日まで
市の教育委員会に依り、1次の北の空地を試掘して
戴いた。写真の如く南北に2本のトレンチの掘作し
たが、奈良時代の竪穴住居跡を1軒の確認のみで、
他の遺構は確認されなかった。
子供の頃この辺でよく黒曜石の鏃石を拾った。







試掘は、1次と2次で終わり、4ケの柱基礎
のみ確認出来た。基礎は写真の如く元に戻す
ことなく、砂で覆い埋め戻しした。出来る
ならば元の姿に戻し、遺跡として確認し、善
得寺を偲ぶ物にして頂けると有り難い。























































































富士市今泉の昔話(27)

2012年11月02日 21時52分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(27)善得寺考  試掘(1)

河東第一の大寺であった善得寺を、現在の場所と妙心寺
の写真とで当時を偲んでみた。確信を持って伽藍の配置
を推定してきたが、実証すべく推定地の空地を、二回に
亘り市の教育委員会に依り試掘して戴いた。
吹上の南の丘を削り、凹凸をならしての伽藍の建設だっ
た筈であり、其の跡地より奈良時代の住居跡が発掘され
たことに、疑念も持たれる。
然しながら、4ケの柱基礎の出土は有り難く、その意味・
由来に就いて尚の調査をお願いしてある。
其の状況を写真で見て見たい。
試掘前の景である。


第一回
平成16年12月9日~12月17日  調査面積85平方m









空地にL型のトレンチを計画し、南北の辺より掘作、要部
は拡大の方法を進めてくださった。状況は説明戴けなかっ
たが、報告書には此の部には住居跡のみとのことであった。
善得寺跡として勘案は難しかったかもしれない。
基礎と思はれるような平らの石1ケ、焼け土の層(?)、
約20cmの厚みの大きな灰溜まり等はなお検討いただき
たい。



トレンチ内に2ケ、拡大部に2ケ計4ケの写真の様な基礎
状の石が出土した。小石の囲む円は径が60cm(木の柱
と考えられる)であり、石は3.5mの正方形の配置であ
る。
此の石が何であるかは結論戴けなかつた。
写真を示し各所に質問したが明確な答えは得られなかった。
柱の太さ、配置より鐘楼又は塔としか考えられない。又こ
の場所での出土は家康・駿河大納言に関係するよりは、
善得寺に関係すると私見する。







次回に更にこの纏めと第2回の試掘に就いて記して見たい。