富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(55)

2013年05月24日 18時31分56秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(55)外伝 善得寺考 霊場巡り(2)

(百観音霊場)
木曽福島の百観音霊場に関して先記したが、更に資料が在ったため詳記
する。
昭和の初期、木曽の此の地に百観音の信仰が広まり、木曽谷を全国一の
霊場化にの願と為り、木曽福島町を中心に2町6村の木曽谷に「木曽百
薬師奉讃会」が設立され、趣意書が配布された。
「木曽百薬師奉讃会設立趣意書」
  我が信州木曽は、古旭将軍木曽義仲公発祥の地として史上永く知ら
  るると共に、鬱密深沈たる大森林の雄偉なる景観は、今尚天下に冠
  たるものあり。仰げば西に信仰の霊峰御嶽の雄姿あり、東中央アル
  プスの王座たる駒ケ岳の威容あり、而して両山麓を巡りて木曽川の
  大渓谷を穿てり。千古斧鉞を入れざる大美林に配するに、此の清麗
  無比の渓流を以てす。古来我が信州木曽の地が、幾多文人墨客の錦
  心蕭膓により其の山水の風光を嘆賞せられたる。まことに所以ある
  かな。然る所、這般この景勝の浄域に點晴して一大霊場たらしめん
  との大願あり。発願の道者は法相宗大本山薬師寺の門下上田晋敬律
  師にして、其の期する所は専ら木曽百薬師の奉安にあり。而して今
  春すでに該本殿建設地として、木曾福島町正澤の地を卜し、橋本猊
  下の臨場を得て地鎮式を厳修、尚同所近く木曽百薬師大教会假奉安
  所を建立して、大本山薬師寺秘蔵の本尊如来を迎へ奉るに至りぬ。
       以下略
奉賛会は木曽福島町の援助に上松町が加わり、日義・新開・三岳・王
滝・木祖・開田の賛助と為り、大木曽の全面を抱擁、参道の延長30
余里に及ぶ事になった。
此の盛事を示す写真を示す。
上田晋敬律師は上田五千石師(故)の御尊父である。







此の盛事を記した新聞が残っているが、集まった信者約3000名と
している。





時移り、戦時中の変遷と町長の死去等により、大計画は頓挫し、歴史
に埋まって伝承を残すのみと為った。


下っての折、「駒の湯」の宿に泊した時伝承を聞き、上田五千石師と
の関係に驚き、御夫妻と共にの木曽の旅と為った。宿の主人の伝承・
資料より昔を偲び得て、地鎮祭の現場を訪ね、御本尊の残されて居る
場所に寄る事が出来た。
薬師寺より入仏の御本尊は、計画中絶後は願行寺(お不動様)に預け
られたが、無住と
為りさらに所縁の「百間滝不動」の堂に安置され、現在に尚祀られて
いる。
探し得て、御夫妻と共に香を献じた。







今に残るのは「薬師平」の地名と伝承のみである。

我が庭に煙の木の花が煙の様子を呈し始めた。













富士市今泉の昔話(54)

2013年05月18日 14時34分02秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(54)外伝 善得寺考 霊場巡り(1)

清岩寺の山門外に、霊場巡りの碑が在る。駿豆霊場巡りの碑であり、天
明の碑である。我が家所縁の碑として、祀りを続けているが、思いつい
ての記を続けて見たい。
駿豆霊場とは、駿河伊豆横道33ケ所霊場巡りであり、亡母と共に3回順拝
の思いが在り後記する。



霊場巡りの由来に付き、北条寺の時報の記をお借りして書いてみる。
弘法大師は、宝亀5年(874)讃岐国の屏風浦(香川県善通寺市)に
生まれ、若くして四国の山々を修行して回った。大師42歳の時、修業した
地を一巡して88ケ所の霊場を定めたと言われています。88ケ所と言ふ
数字は男42歳、女33歳、子供13歳の厄年の数を併せた物と言われ
ています。
昔は弘法大師の遺徳を慕う僧侶の、山岳修行の一つとして、霊場を順拝
していたが一般の人が巡礼にに出始めたのは15世紀室町時代の半ばと
見られています。
33観音霊場とは、観音菩薩が33の姿に変わり、衆生を救うといふ観
音信仰より生まれ、平安時代に「西国33観音霊場」が成立し、「巡礼」
の功徳が広まるとともに民衆化しました。中世には「坂東33観音霊場」
「秩父霊場」が成立。江戸時代には全国各地に霊所が成立し、観音信仰
が広がった。更に3霊場を連ねて1霊場(秩父水潜寺)を足して100
観音霊場巡りが発展した。

近世に成り、木曽福島に100観音霊場の企画が在り、上田五千石師
(故)の御尊父が導師と為り盛大に開山式が行はれた。時節柄建築には
進まなかった様であるが、当時の写真・口伝が木曽福島の「駒の湯」
旅館の御当主に残されていた。木曽福島の丘の展望の場所に上田五千石
師の御夫妻と共に、回向した思い出が在る。

当地には「富士33霊場巡り」「駿豆横道33霊場巡り」「駿河横道3
3霊場巡り」があり、善徳寺も札所と為っている「富士33観音霊場巡
り」に付き「富士おさんぽ見聞録」の資料(寺名、寺歴、御詠歌)を
お借りし註記して見る。

「富士33観音霊場巡り」
番  寺名      場所    宗派    備考
1  十念山宗心寺  富士宮    浄土宗
2  富士山重林寺  富士宮    曹洞宗
3  二桂院     富士宮    曹洞宗  廃寺
4  東盛院     富士宮    曹洞宗  廃寺
5  不死山岳松寺  富士宮    曹洞宗
6  東光寺     富士宮    日蓮宗  廃寺
7  恵日山千光寺  富士宮    曹洞宗
8  大乗院     富士宮    修験道  廃寺
9  穴王山清岩寺  富士宮    曹洞宗  廃寺
10 山宮観音堂   富士宮    不明   廃寺
11 来迎寺     富士宮    浄土宗
12 しけん寺    富士宮    日蓮宗  廃寺
13 瑞雲山大聖寺  富士宮    黄檗宗  廃寺
14 福寿山直至院  富士宮    浄土宗
15 久日山清流寺   富士    日蓮宗  廃寺
16 大冨山松岳寺   富士    曹洞宗
17 保昌寺       富士   曹洞宗  廃寺
18 神龍山慈照寺    富士   臨済宗  廃寺
  頼もしな誰呼ぶ坂の山人も
     呼べばこたうるたとえなるらん
  慈照寺の場所の地名は「呼坂」であり、紫式部の「手呼の呼坂」を詠
  んだ和歌に呼び坂の名が入っており、万葉集の「手呼の呼び坂」は此
  の地であり、現在碑が建っている呼び子坂では無い証といへると考え
  る。
  慈照寺は「昔話」に前記した如く、甲府と川中島にあり、共に武田家
  所縁の寺である。
  開山の系譜の飯塚氏による慈照寺跡の碑と中興開山の名のある是道和
  尚の卵塔の写真を示す。




19 富士山善得寺    富士   臨済宗  廃寺
  草木だにもれぬ御法と聞くときは
    愚かなる身も頼もしきかな
  稿を重ねてきた善得寺も、霊場としての順拝が在った事を知った。
  延寿堂跡に在った寺の場所は、写真の如く現在公園化されている


20 大冨山永明寺    富士   曹洞宗
21 藤沢山妙善寺    富士   臨済宗
22 円通山福周院    富士   曹洞宗
23 芙蓉山立安寺    富士   曹洞宗
24 不二山金正寺    富士   曹洞宗
25 照東山蓮盛寺    富士   日蓮宗
26 米宮山法源寺    富士   浄土宗
27 米宮山延命寺    富士   曹洞宗
28 福寿山瑞林寺    富士   黄檗宗
29 じげん寺      不明   不明    廃寺
30 海鳴山福泉寺    富士   曹洞宗
  物故された先住が中学の同期の為、順拝と共に回向させて戴いた。


31 柳島山養雲寺    富士   曹洞宗
32 光明寺       富士   曹洞宗   廃寺
33 国城山大法寺    富士   曹洞宗   廃寺
34 松岡山永光寺    富士   曹洞宗
35 明星山大悟庵   富士宮   曹洞宗

庭に加わっての花たち。雲南蝋梅、せっこく。




















富士市今泉の昔話(53)

2013年05月07日 18時37分20秒 | 昔話

富士市今泉の昔話(53)外伝 善得寺考 軒書上帳(4)

将軍の上洛は幕府に取り大変の事であり、その準備も大変の事だったに違い
ない。
徳川実記には3回に亘る上洛に就き、留守中の処理や上洛中の警護に細かく
記してある。
上洛途次の警護や京都の治安維持に就き、幕末とも為っての文弱の世と為り
人員に苦心し、応急に手を尽くしている。
先ず志の有る者は、百姓や浪人の身分に抱はらず採用し浪士隊を結成した。
文久2年12月に234人での発足。鵜殿鳩翁・山岡鉄太郎・清川八郎等
をリーダーとして、全体を7隊に分け、中山道を上洛、途次近藤勇も加わ
つたが京都で後の新選組・新徴組に分裂、役目を変え、幕府の崩壊を迎え
た。
幕府は、幕末時代に諸藩の兵力に対する無力を嘆き、対策を急いだ。直属
の武士としては、
旗本約5000人御家人約15,000人が在り、10万石の大名40に匹敵す
る人員であったが、平和に慣れ堕落して、武力では匹敵できなくなってい
た。此の為安政3年
(1856)急遽旗本等の軍事訓練機関として「講武所」を造った。世話
役師範等に、鉄舟・海舟・泥舟・秋帆等が居り、時代に即して、弓術は廃
し砲術を加え、剣術・槍術を強化した。「講武所」の総数は1000人にも及
び、この時期各地に転戦した。その中の剣槍の達人58人を撰び、奥詰とし
将軍の親衛隊を造り、此の度の上洛に供をしている。
親衛隊を含む約1000人の宿舎の配分が此の書上帳に示されている。

昔、昭和の頃陸軍の大演習に参加の将士は近くの民家に分駐した。我が家
にも前田公以下が泊し、羽織袴姿の父が記念写真に入っていた事を、古い
記憶に在る。天神様に軍馬を繋ぎ大事に介抱していた様子、軍隊の行進の
様子等遠くより眺めた記憶が懐かしい。

上洛に際して、近衛兵的な護衛兵として前記「講武所」の人々が在り、次
の人々が今泉村に分宿した。「駿河」誌には他の方の上洛の記が在り、追
記としたい。

講武所  槍術  頭取一人  師範役二人
  術方  120人  付属賄方
  奥詰 槍術方  50人
講武所  剣術  頭取一人  師範役二人
  術方  150人  付属賄方
講武所  砲術  奥詰 30人
  術方  36人
御作事奉行並  支配役共  87人
奥坊主  組頭 一人  奥坊主  40人
御同朋頭  御同朋
御書院番頭並   組与力同心共
御休息御庭の者  勤番
新番頭並     組共
御数寄屋頭    同坊主
御納戸並支配向  6尺新組共
御中間頭     中間
御小人頭     小人
御目付役   上下  16人
表坊主組頭  表坊主  同6尺共



御上洛に就いては、徳川実記などに詳しいが、町方から見た記録も面白く、
富士宮の桝弥(妻の実家)の周知されている「袖日記」の上洛に関する
項のみ抜き書きして見る。離れた町の記録がこの様に細かく残されて居るの
も不思議である。
文久2年(1862)9月29日
 将軍様来年2月上旬御上洛取り定まり候よし 宿々座敷の間数御改 右
 に付き米直段気を持 大豆 小糠等御馬の飼料高値
10月14日
 来年2月
 御上洛御手当 町方へ馬と丈夫の人足書き上 吉原宿より沙汰あり
 馬40匹程の内にて 用たつ馬3匹 跡は肥ふみ
 男140人より150人 外は麻疹後病人 老人等
 
 重役方より吉原宿へ申候由
 御上洛将軍様吉原宿御泊り 東泉院御本陣由
 興津泊り 清見寺御本院の由
 宿々並びに近在の民家 畳間数書上御改有之由
  吉原宿島や 豊後や御台所番の由
12月15日
 御上洛に就き道中普請先而中休みの処 又々2~3日前より普請取懸り
 候由
12月20日
 御公儀様より御上洛の御留守堅め 軍役人夫1000石に付き三人つつ
 当る 5ケ年に給金百両宛 江戸へ行 武芸稽古の由
12月22日
 江戸にて軍役人夫に 諸浪人並びに牢者の者罪軽き者は武士に取り立 
 牢名主などは与力格に 相成候 此の組人夫凡そ一万人出来候由
12月24日
 御上洛の節召連候人数仰渡し
 3000石以上の士は 槍一筋 侍9人 馬一匹 中間小者等にて都
  合26人
 300石以下は 槍一筋 馬一匹  都合17人
   但し具足着込みにても勝手次第と御触之由
文久3年(1863)正月8日
 昨12月28日仰渡し 御上洛の儀 将軍様当春蒸気船並海城船を以
 て御上洛の由風聞の処実説也
1月11日
 御上洛の儀 将軍様は御船にて 御同勢大名は陸を御登りの由 廻状
 当町方へ至着
1月14日
 御上洛の儀 追而2月13日陸御通行の沙汰あり 2月18日吉原御
 泊り
2月13日
 御船にて上洛の処又々変格に成
 御上洛の廻状 御代官所より至来
 将軍さま陸御通行と相定り 13日に江戸御出立 18日頃吉原宿御
 泊り
2月18日
 清明3月節昼8時7分に入 9紫月
 御上洛 御年18歳 丙午之御産と申事 今日将軍様 吉原東泉院へ
 御宿
 御歩行にて御笠 羽織 袴 御揃いの衆7人皆わらしにて  将軍様
 は御草履御召
 御旗本殿様方 御供大名衆皆々わらじ
 ドンドロ西洋筒自身かつぎ 200丁将軍家の両側2行に並び行 何
 れも6尺位の殿様方勢ひ揃ひ 50人程
 鉄砲金銀の金物光輝く 弓はなし 御道具別に無し
 在々より出る見物人 女子供皆往来へ膝付 将軍様御足元迄居並びて
 拝む事を御赦し也
 見物人敷物は不相成と被仰候事
 今日柏原浜御見物あり
 道中筋にて何にても珍しき物は御立寄御覧ある
 道中筋所々に接待あり わらじ 茶 赤飯 握り飯 串柿 鼻紙 
 馬の沓 御供の衆並びに助郷人足 雲助共へ皆施し也

 御上洛惣勢7000人と申事
 御還御は当8月共申 又は来春 或は5年 10年杯とりどり評
 判也
2月19日
 御上洛 今日興津清見寺御宿
     明日府中御逗留
     明後日久能山御逗留
 今朝将軍様東泉院御出立 吉原宿本陣迄駕籠にて 其れより本陣
御出立には御歩行にて
 元市場鶴芝暫く御見物の上富士川渡しに至り給ふ 富士山の景色
 折々立留り御覧の由
 見物人夥しく河原一はいに出る 見物人御ゆるし
 将軍様は床几にて四方盛砂一段高き処
 甲州舟300艘下し隙間なく渡す
 将軍様は新艘にて御越し有之
 赤飯の接待米10俵蒸と申事
3月18日
 公方様御還御 当25日吉原御泊りと申す事風聞 水戸様27日 仙台様
 晦日
 此の説不確 4月御還御の由 京都より御差留 還御のべ



朴の木高咲き数多。








































富士市今泉の昔話(52)

2013年05月04日 13時07分54秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(52)外伝 善得寺考 軒別書上帳(3)

書き上げ帳は、今泉村の全戸数434軒に就いて其の状況を書き上げて、
村役人の証印を記している。記載に就いて不思議の点がいくつか有る。
今泉の記載に拘わらず、何ゆえ原田村の清岩寺のみ記載されているのだ
ろうか。宿泊の場所が足りない為か。同じ水野の領地の為か。或いは
清岩寺の字が瀬古分の為か。他の文書に瀬古清岩寺の記が在る為此の考
えも出た。
全戸数がすべて道沿いに、一列に記載されている。昔村の官役・寄付の
割り当て等住居の間口を基準とし、「間口割」が行われていた証拠かも
しれない。
上・中・下のランクはどのような基準で定められ、どの様に使はれたか。
寺社、堂塔の詳細は解らない。

元治元年(1864)に全戸数434の今泉地区は、平成19年7月の
此の地区相当の戸数は4,638で、約150年の間に10倍以上に
為った事になる。



建物の状況は次のとおりである。
  上      27軒
  中      52軒
  下     355軒
           合計434軒
「上」の一例を示す。
       例 1      例2
 間口     4間     5,5間
 奥行     7間      5間
 部屋数   8畳2間   6畳、10畳
 板敷     20坪    19,5坪
 土間
 惣坪数    28坪    27,5坪
 名前     八郎平     幸右衛門

「中」の一例を示す。

 間口     4間      6,5間
 奥行     3間       4間
 部屋数    6畳     8畳2、6畳
 土間     9坪     15坪
 板敷
 惣坪数    12坪     26坪
 名前     市太郎    三四郎

「下」の一例を示す。

間口      5間     3,5間
 奥行      2,5間    2,5間
 部屋数    筵10枚     筵8枚
 土間      6坪
 板敷
 惣坪数     11坪     8,7坪
 名前      新助       善吉

「書上帳」は全体纏まった物に、村役人三役の記名がなされており、
当時の機構を知る事が出来、記帳の名と絵図の名を対比して見るのも
面白い。名主が三名の事は、大村の今泉村が三区分されていた事を証
している。

今泉村は巨勢大和守の采地であったが、沼津藩水野出羽の守が3万石よ
り5万石に加増された時に、原田村と共に天明2年(1782)水野藩
の領地と為った。       
領地は、一村一賄方の基本で、大村であった今泉村は村政として等分の
4組で運営していたが、文政9年(1825)には3組で運営している。
3組は、東組・西組・元組である。従って名主3名は此の各々の名主で
ある。
村役人は、前記名主を筆頭に組頭・百姓代による三役によりある程度自
治に任されていた。
筆頭の名主とそれを補佐する組頭、これに百姓を代表して名主・組頭の
職務執行を監査の役を果たしていた。

名主
  順蔵
  又左衛門
  重右衛門
組頭
  半右衛門
  六左衛門
  直兵衛
  十助(助)
百姓代
  與左衛門
  源左衛門
  久平



夏近しの子供の国の富士が美しい。



我が庭に「吊花」が満開となった。