富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(150)善得寺城(再7)

2015年03月28日 17時06分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(150)善得寺城(再7)

善得寺の本城の状況案を記してきたが、この状況で北条氏の攻撃を受け善得寺の全焼善
得寺城の落城の河東一乱となった。義元は失地回復後善得寺の再建、善得寺城の改善の
大工事を進めたと思はれる。



強化策として、図に示すように実線の本城に続き北条に対する東への強化に約2丈の崖
と舟久保の窪地を結ぶ鎖線の惣構えを加えたと考える。
今川が大施策を為す時は中央の流れを取り入れて、兵農分離の流れには武家屋敷の新設、
楽市楽座の考えには市場・寺市場の街筋の整備が進められた。
武家屋敷は惣構えの高台に設け、今に名を残している。立小路・向小路・西小路・曽我
小路である。此の高台には善得寺への中島よりの「揚げ水」を分水している。善得寺へ
の水路の途中の飯森神社の西に水タンクを設け、是よりサイフォンで十王子神社のタンク
へ揚水し、タンクより武家屋敷に配水している。武田の上原城のサイフォンの如く当時
としては最新期術だったに違いない。
惣構えは本城の外へ設けた防御線であり、写真の如く1~2丈の崖を結び一つの線とし
その高台に武家屋敷が設けられたと考えられる。
福応寺の南の崖に始まり、船久保の谷に終わっている。

福応寺の南の崖に続く崖で、今は今泉公民館が所在し、昔は小学校があった。



昔小学校、その昔は郷蔵の場所である。



法雲寺の崖で、此の頂が武家屋敷の向小路である。



呼び坂。頂が十王子神社で、右手に慈照寺跡の碑がある。



呼び坂の字地で、頂が十王子神社。何故の大きな崖か不思議だったが要害と理解。



舟久保の谷。2中の校庭に終わっているが、呼び坂の崖とは堀で結ばれていたと推定。



惣構えの中に地図に示す武家屋敷地と推定の小路4所がある。写真は向小路の端より善得寺の坂本を望んでいる。途中左に曽我小路が分かれる。



「常盤万作」の赤花が美しい。蕨も出始めた。



















富士市今泉の昔話(149)善得寺城(再6)

2015年03月21日 10時33分18秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(149)善得寺城(再6)

善得寺城の東の要害状況を見る。
福応寺の前の谷に始まる2~3丈の崖より南にガマ(湧水地)との間に崖が続く。
虎口より始まる家康の善得寺御殿への今泉往還は此処を通る。真直ぐの道は北の大空壕と
推定する場所であり、左の杜が愛鷹神社である。写真の左は曲折を経て虎口に通じ、右は
向小路(後に武家屋敷と推定の字名)・市場・田宿・坂本を経て瀬古の善得寺御殿に達
する。






福応寺より下の湧水地へ下りる意楽道(意楽寺があったよりの名前)、左の崖が南に続
いている。野面積みの石垣、露出熔岩を交えた崖、崩落の進んだ崖等と続くが調査保存
が進むことを願っている。







搦め手と考えられる東の道路。小道を挟んで野面積みの石垣が続く。





今年も「かたくり」の花が咲いた。欣喜雀躍である。庭の一所が輝いて見える。
彼岸には咲く「地獄の釜の蓋」(草の名)が小さな紫の花を見せてくれている。










富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)

2015年03月14日 10時04分35秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)
善得寺城の本城は虎口の開口部の東に位置する事は前文の通り。写真の虎口は六所家へ狭
まれているが、反対側より本城を通る今泉往還が始まる。日吉より北に向いていた根方街
道が、家康が廃城として善得寺御殿への今泉往還を作ってよりは永く根方街道として賑や
かだったと思はれる。根方街道の変遷は別の稿で書いてみたい。



虎口の東、推定大空壕を隔てて大手門に当たると考える。此処より家康の善得寺御殿への
道が始まる。不思議の曲折のある今泉往還である。此の曲折は善得寺城の在った時の廓の
形であり、家康が北条征伐の折占拠後、堀を埋めて善得寺御殿へと作った道と考える。



大手門を過ぎての平らの広場は馬場と考えられるが、今の姿である。広場を過ぎて直進す
ると搦め手と思はれる野面積みの石垣群に当たる。
本城の東部分に鍛冶屋瀬古と言ふ小字がある。島田より島田姓の鍛冶屋達が移住の場所と
考えられかなり広い、これも城の在った標である。
今泉往還の途次の郭跡と思はれる野面積みの石垣。積み変えられて居るかもしれない。








曲折の一つである愛鷹神社への道である。此の道は当時は無かったと思はれるが、一段の高見であり、愛鷹神社は本丸跡と考える。神社に立つと南は当時あった富士川が見渡せたと思はれ、眺めが良い。道を隔てての平地は本丸御殿の位置かもしれない。
此の道路と直交する道が次の写真で、福応寺の南の谷依り六所家の北の谷に通ずる大空壕の推定地である。梯郭式平城の基本である西と北の大空壕は箱壕の堅固の物と思はれる。廃城後埋め立てられて道となったと推定する。道路の右が本丸部で、瑞垣は愛鷹神社である。





「とさみずき」「ひゆうがみずき」が咲き始めた。



































富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)

2015年03月14日 10時04分35秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)
善得寺城の本城は虎口の開口部の東に位置する事は前文の通り。写真の虎口は六所家へ狭
まれているが、反対側より本城を通る今泉往還が始まる。日吉より北に向いていた根方街
道が、家康が廃城として善得寺御殿への今泉往還を作ってよりは永く根方街道として賑や
かだったと思はれる。根方街道の変遷は別の稿で書いてみたい。



虎口の東、推定大空壕を隔てて大手門に当たると考える。此処より家康の善得寺御殿への
道が始まる。不思議の曲折のある今泉往還である。此の曲折は善得寺城の在った時の廓の
形であり、家康が北条征伐の折占拠後、堀を埋めて善得寺御殿へと作った道と考える。



大手門を過ぎての平らの広場は馬場と考えられるが、今の姿である。広場を過ぎて直進す
ると搦め手と思はれる野面積みの石垣群に当たる。
本城の東部分に鍛冶屋瀬古と言ふ小字がある。島田より島田姓の鍛冶屋達が移住の場所と
考えられかなり広い、これも城の在った標である。
今泉往還の途次の郭跡と思はれる野面積みの石垣。積み変えられて居るかもしれない。








曲折の一つである愛鷹神社への道である。此の道は当時は無かったと思はれるが、一段の高見であり、愛鷹神社は本丸跡と考える。神社に立つと南は当時あった富士川が見渡せたと思はれ、眺めが良い。道を隔てての平地は本丸御殿の位置かもしれない。
此の道路と直交する道が次の写真で、福応寺の南の谷依り六所家の北の谷に通ずる大空壕の推定地である。梯郭式平城の基本である西と北の大空壕は箱壕の堅固の物と思はれる。廃城後埋め立てられて道となったと推定する。道路の右が本丸部で、瑞垣は愛鷹神社である。





「とさみずき」「ひゆうがみずき」が咲き始めた。



































富士市今泉の昔話(147)善得寺城(再4)

2015年03月05日 15時41分03秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(147)善得寺城(再4)

梯郭式平城の私見図を記したが、現在に残る物は殆どなく僅かにそれと思はれる野面積みの
石垣だけである。現在の地図に角々の写真を列記して見る。
写真は西端の東泉院部より始める。



東泉院付近(1)~(6)。
東泉院付近は善得寺城の西部に当たり、城らしい部分が残されている地である。写真(1)
は其の主要部の大石垣である。石垣は高さの関係か、2段に分かれ下段の上の犬走りの上
に2段目の野面積みの石垣が聳えている。中央部は関東大震災の折に崩れ、新しく積み直
されている。野面積みの石垣は雑草等で荒れ、是非とも保存の手を加えたい物である。
(3)は東泉院北の空谷部分。是より東の福応寺の南の空堀に続く。何時の日か此の部を
試掘し濠跡が確認されると有り難い。和田川に沿う此の地に遊んだ時「カワセミ」の美し
い姿を見て感激した。
(4)は出丸と考える部分の広場(馬場?)であり、北に見える部分は物見台とみられる
石の高みがある。高い石垣の上のここよりの南は眺望が素晴らしい。当時は和田川の南に
富士川の本流が流れていた筈である。

          (1)              (2)


           (3)              (4)






「虎口」は城の門部を強化する石積みであるが、入り口は狭まり本城部分は広く作られる
より、この地点を大手口とすれば本城は此の東に在り、城山の地名も善得寺御殿への道図
の記にも合致する。




(19)城の南に連続する野面積みの石垣。横矢と思われる直角の部分で何故か水神様が
祀られている。水神様は(16)部、(19)部、搦め手部、和田川(新川)沿い等に祀
られており湧水地の為かも知れない。
(16)は昭和に十里木街道が出来るまでの街道で、西に本国寺の山門がある。東は崖で
此の間が私見する西の大空壕である。或いは大手口まで水濠だったかもしれない。本国寺
は裏鬼門に当たり前に何か鎮守があったかもしれない。



迎春花の時期となった。