富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

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2014年12月29日 14時45分02秒 | 昔話
富士寺今泉の昔話(137)善徳寺に関する当地の年譜(15)

当地の年譜を記して15回、源平時代より現代までの歴史を尋ねて年末になった。まだまだ勉強したき事が多いが一つの区切りとして「昔話」を今回で休み、改めて善得寺・善得寺城につき纏める事を考えたい。

天保 4 1833  天保の大飢饉。4年~10年(1839)。
天保11 1840  祥座元禅師没。(過去帳)
           是より善徳寺無住。
嘉永 6 1853  末寺善徳寺無住。(清見寺資料)
安政 元 1854  11月4日、安政の大地震発生。
           デイアナ号遭難。
           富士川東岸に陥没、堤防決壊により五貫島付近大被害。
           清岩寺本堂倒壊。
安政 4 1457  古郡重年(3代代官)他へ転出の後、江川太郎左衛門が代官と
           なり、富士川の治水を進めた。
           大被害を受けた五貫島等を救うため、後にいふ「帰郷堤」を
           1457年に開始し1458年に完成させた。完成後住民が故郷
            に帰った思いが多く、堤を帰郷堤といい大事にされている。
安政 5 1458  帰郷堤完成。
明治 元 1868  末寺書き上げ、今泉村善徳寺。(清見寺資料)
明治 4 1872  善徳寺廃寺となり、法雲寺に合される。
           合するにあたり、善徳寺資料も引き継がれ、中には善徳寺の過去
           帳があり、善徳寺を知る貴重な物となっている。過去帳には延宝
           年間(1672)より明治までの約600柱の戒名が記されている。           興味ある諸事項は前記したが、200年間にの数は少ない気がする。
明治13 1880  今泉大火(鍛冶屋瀬古より清岩寺まで類焼260戸余)により
           清岩寺主要堂宇焼失。
昭和 2 1927  清岩寺本堂再建。
昭和49 1974  福応寺に茶荃塚建立。
昭和61 1986  善徳寺供養祭開始。
           以降現在まで地方の行事として定着、毎年大勢の人を集め法雲寺
           の御住職を導師として盛大に行われている。現在は今泉地区の
           例祭となっている。

   以上にて善徳寺に関する当地の年譜を終わる。

家業の林業の標として、林業地の中心の瀬古辻に明善碑・五千石の讃句の碑・武者小路
の愛山碑をたてた。讃句の碑に2碑を侍ししめ林業への我が家の丹精・努力の決意の碑と
した。
   わが生は檜苗植え継ぐことで足る     壷天
   木を測る声を復唱息白し         稜子
     木の径を測るとその声を復唱し記録する二人作業の姿である。








林業の施業法として試行を重ねているが、現在は80年を伐期とする長伐期施業を進めており、写真は60年の杉林である。








富士市今泉の昔話(136)善得寺に関する年譜(14)

2014年12月24日 08時54分13秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(136)善徳寺に関する当地の年譜(14)
年次   西暦    事項
享保16 1731  今泉村一村一組を四組に分割。(邑宝鑑)
            東組1259石、西組703石、元組405石、
           月組314石。
延亨 2 1745  善徳寺火災。(今泉村誌)
宝暦 7 1757  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
宝暦12 1762  清岩寺寺域一反四畝永代供養料として拡大。
           水神堂の原田・今泉の分水整備。(原田村村誌)
宝暦13 1763  今泉代官金田伴右衛門を最後に旗本知行地(巨勢大和守)とな
           る。
明和 元 1764  古峰参公座元没。
           今泉村2950石、依田橋800石、伝法1025石、
           中里1300石、厚原1261石、その他何れも1000石
           以下
明和 5 1768  12月21日、白隠、原松蔭寺にて遷化。
明和 7 1770  頑極癡頑首座禅師没。
安永 3 1774  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
天明 1 1781  天明大飢饉。(天明2~8年)
天明 2 1782  清岩寺山門の扁額「冨永山」、芝増上寺の大僧正正誉上人筆が
           なる。
天明 3 1783  浅間山大噴火。
天明 5 1785  今泉村の領主巨勢より水野出羽守になる。(原田と共に)
天明 8 1788  清岩寺の沿革を記した名号塔建立。6地蔵と共に整備。
文化10 1813  拙翁到公座元没。(善徳寺過去帳)
文化14 1817  善徳寺に9カ村名主集合(吉村文書)
           本堂は集会を行へる広さがあった。
文政 7 1824  善徳寺出訴。(清見寺資料)
文政 9 1826  檀家に掛け合い。善徳寺祥道他6名。(清見寺資料)


祝日、晴れての雪富士の基、富士山全国女子大学駅伝が盛大に行われた。沿道の大声援
と女子選手の力走が目に残る。勢子辻の富士の一景。



勢子辻のの中に「林の讃句」林相をととのへ冬日深許す(上田五千石)を立てた。武
者小路碑と明善碑と共に林業地の標となる事を願っている。





















富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

2014年12月20日 09時12分04秒 | 昔話
富士市富士市今泉の昔話(135)善得寺に関する当地の年譜(13)

年次   西暦    事項
寛文 元 1661  法雲寺、龍岳周信和尚の時清見寺大梁和尚との縁により妙心寺派
           として再興。
寛文 2 1662  古郡孫大夫重政、善得寺村を今泉村とす。
           保泉寺中吉原に移転す。
寛文 7 1667  古郡氏富士川雁堤着工。
寛文 9 1669  慈照寺開基、広大院医冨川慈照居士没。
寛文11 1671  古郡重年、2代目代官となる。
延宝 2 1674  富士川雁堤完成。備前堤(人柱が備前の人だった為の名)完成。
           富士川本流を岩淵の派川に流す。
{富士川の上流の釜無川がある。此処も支流の氾濫による水害が絶えなかったが、信玄
が今に名が残る信玄堤を築営、治水を完成させ多くの田畑を為し得た。築営は甲州流で
信玄堤の内に大きな遊水地を設け、楊柳などの木を植え堤防と共に水勢を弱め治水を
完成させた。雁堤は此の甲州流の治水を範としていると思はれる。}
           水神下の堤防を川成島まで延長。
           古郡3代(重高・重政・重年)の偉業なる。
延宝 3 1675  末寺善徳寺在住。(清見寺資料)
延宝 4 1676  10代、法岩寿公首座没。(善徳寺過去帳)
延宝 8 1680  8月6日、大津波中吉原へ。
天和 元 1681  2年にかけて中吉原宿は現在の吉原宿に移転。
天和 2 1682  高林西堂和尚没。(善徳寺過去帳)
           11月1日、5代将軍綱吉により孝子中村五郎衛門表彰、永代
           90石賦与。
元禄14 1701  (善徳寺の檀家だったと思はれる家祖宗弘大徳没。)
元禄16 1703  地震により小田原城天守破損。
宝永 2 1706  瀬古の忠長の御茶屋御殿命により取り壊し。(駿河資料)
   3 1707  小田原城天守復元。
   4 1707  田宿の住人が富士川(富士川は雁堤で閉め切られており、潤井川
           の堤防欠壊が続いたためかも知れない)の洪水により移住が必要と
           なり、代官能勢の指示により瀬古の地(御殿)に引き越しした。
           吹上の水の再配分が図られた。吹上・寺市場に2、御殿に1の割合
           で分水が整備された。分水に工夫(甲州の三分の一の地の如く
           溜め池を作り、出口に滝を作り落ち口の比で水を分割。現在は道路
           下となっているが石堰は残つており大事にしたい)がされている。            (今泉宝鑑)
           この折埋められていた忠長卿の什器と思はれる銀製品が出土し、
           領主に提出したがその後不明。
           富士山宝永の大噴火。
宝永 5 1708  本国寺新川改修。今泉郷地の灌漑完成、中村三郎衛門の功として今
           泉の堰部に顕彰の碑がある。
正徳 2 1712  福応寺開山。古岸和尚(清見寺芝岸和尚の法脈)。
正徳 3 1713  熊野別当より家祖に普賢院免許状、桃色袈裟免許状あり。
正徳 5 1715  湘南薫座元没。(過去帳)
           8月7日、瀬古の鈴木氏宅に弁財天祀らる。駿河大納言の屋敷跡
           に権現様が祀られているの伝承があったが、東照大権現で無く九
           頭流権現だったが関係が考えられる。
享保 3 1718  白隠、妙心寺の首座となり白隠と号す。
享保11 1726  善徳寺の本尊寄進の蓮池金左衛門死去。(善徳寺過去帳)
           永明寺の蓮池の墓地に墓が残る。過去帳の氏名で現在確認できて
           いるのは唯一の物である。
享保12 1727  慈照寺廃。法雲寺に合併。
寛保 3 1734  福応寺全焼。

冬本番。雪姿を池に映しての富士が美しい。



我が林業地の北端の「こどもの国」の前に金原明善翁の林業推奨の碑を立ててある。
明治の末に家祖が翁の指導を得て、林業に丹精・努力を重ねた折戴いた色紙の辞である。
此の頃の植林が100年の樹齢を越え、林道板小屋線に明治の林の看板を立てた。
















富士市今泉の昔話(134)

2014年12月13日 08時00分34秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(134)年譜(12)

寛永 3 1626  1月11日、忠長甲府より駿府入り。
           忠長駿河大納言になる。
           善得寺御殿は駿河大納言の御茶屋御殿となる。
           駿河大納言はこの御殿での生活が多く、天下の副将軍と言はれ
           往来の大名の挨拶の滞在で吉原が賑はつたとの伝承がある。
           御殿の四方には大木戸が設けられ、御殿に入る坂本の坂 寺市
           場の坂 清岩寺の坂は石畳で整備された。
{四方の大木戸の2所の坂本坂の坂下、清岩寺坂の頂は明治初頭まであったとの事で
あるが、西・北の2所は場所が不明である。清岩寺前の物は1尺角の冠木門で、その基
礎の2ケは清岩寺の石垣に組み込まれたと外祖父より口伝されているが1ケしか確認で
きていない。清岩寺の参道の石垣に確認できる。清岩寺前の石畳の石は外された後1部
は参道の飛石として残されていたが最近残念ながら散逸した。石畳の石は外の部で残っ
ていると考えられるが確認できていない。}
寛永 4 1627  古郡重政、駿州代官として岩本陣屋に。
寛永 8 1631  駿河大納言、乱行や武田家旧臣の召し抱えによる謀反の噂等によ
           り家光の勘気に触れる。
寛永 8 1631   5月18日、忠長駿府より甲府へ。
寛永 9 1632   10月18日、忠長改易。甲府より高崎え。
寛永10 1633   忠長自刃(28歳)。家臣団離散。罰は家臣団に及び譜代は
            西へ、外様は東へ放逐された。
            茶屋御殿に在任に有泉大学と稲葉但馬守(内記正利?)があり、
            有泉は江戸へまた稲葉内記は九州へ送られている。此の離散後
            の屋敷の処理は、近くの清岩寺の整備の折で有泉の屋敷は寺の
            庫裏に、稲葉の屋敷門は寺の山門に活用された。山門は今に残り、            春日の局の二男の屋敷門とすると由緒が残る。この折長男の
            正勝は小田原で8万8千石となっている。
            末寺善徳寺(清見寺資料)
寛永12 1635   参勤交代開始。
寛永16 1639   大津波の為元吉原宿が中吉原に移転。保泉寺以外全寺移転。
寛永17 1640   善得寺村村高3545石の大村。
            依田原村是より分離800石。
正保 4 1647   十王子神社前に庚申塔建設。下方庄、横尾郷の記あり。建設
            者と思はれる10人余の姓名があり、是は上柳家の石碑の姓
            名と同じく甲州より移住の郷士と考えられ、梅雪時代よりの
            移住者が定着し現在まで続いた。現住の人々と何時の日か
            照合したい
            此の地区最古の庚申塔である。
            姓名の内仁藤・蓮池は我が家に関係あり、此の塔は上の山地
            区への水源の改善記念と外祖父より聞いている。
慶安 4 1651   12月28日、清岩寺火災全焼。
万治 2 1659   供養碑(在上柳家)、樋詰の滝行地より移転。横尾庄、勢子
村の 記 あり。前記の庚申塔と同じく10名余の姓名が残さ
れている。
万治 3 1660   富士川大洪水、既設堤破損。

冬枯れの庭の北に雪富士が聳えている。林地の冬の景を続けて見る。
冬紅葉の林道の景、紅葉の景の素晴らしさと共に春の芽立ちの侯に一帯が桃色を呈する景も素晴らしい。



林地の一景、大正10年に植え付け、現在95歳の林地 大正の林地として看板を立てた。
林地の標として武者小路先生の「仁者愛山」碑をを立てた。



















富士市今泉の昔話(133)年譜(11)

2014年12月06日 08時06分23秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(133)善得寺に関する当地の年譜(11)

年次    西暦     事項
慶長19 1614  「1月28日、大御所江戸より善徳寺に着かせたまふ。」
           (実記)
            10月1日、大阪冬の陣始まる。
元和 元 1615  4月1日、大坂夏の陣始まる。
           5月8日、豊臣氏滅亡。
           「10月1日、大御所善徳寺に着かせたまふ。」(実記)
           「10月2日、善得寺に延留江戸へ。」(実記)
           「12月15日、三島をいでたまひ瀬古善徳寺に着かせ
            たまふ。」(実記)
            「12月16日、善徳寺より駿府へ帰らせたまふ。」(実記)
            善得寺御殿にて家康仙頭の地(三島)を隠居所と定む。
            此の間に善徳寺の再建が許された。
            家康の駿府・江戸往復の途次の宿舎として御殿場に御殿場
            御殿新築。東西90m、南北82m。一度も使用されなかった。
元和 2 1616  新善徳寺再建。(延寿堂跡に寺域東西40間南北30間)
           小庵は今泉宝鑑によれば9尺2間。檀家寺として。
           10代法岩寿公首座入山。
{善徳寺は永禄12年(1569)に信玄により焼かれて以来1616年新築されるまで
47年間所要している。天正15年(1587)東杲禅師が太源禅師の33回忌の法要を
為し、資材を集めつつ再建の許可を家康に求めていたと思はれるが中々許可が得られなか
った様である。是は場所の事或いは規模の事或いは宗派の事もあったかもしれない。清岩
寺が同じ地に1580年に開基されている事より禅宗にの応援が少なくなっての事かも解
らない。資材を徴用され、文禄3年(1594)東杲禅師が清見寺で没してより、再建の
動きは止まっていたのかも解らない。10代法岩首座が檀家を集め、構想を持ち再建の
運動を再開したと考える。首座の法系が不知であり調査が必要である。何にしても大壇越
のなくの再建は大変だったと思はれる。}

           1月211日、家康 田中にて鷹狩り 急病。
           4月17日、家康急死。
           4月19日、久能山に葬る。
元和 3 1617  忠長甲府領主と為る。11歳。
           3月15日、日光への家康の神柩善徳寺御殿に泊、初夜法要。
            一行300余騎、雑兵1000人。
           4月4日、日光到着。
           「今夜の御泊は富士山の麓善徳寺なり。」(徳川実記)
           「神柩吉原を出て浮島ケ原経由三島へ。」(実記)
{吉原の地名がある。善徳寺の場所を全汎的に吉原と呼称していたと思はれ、他の記述と
共に秀吉の為の吉原御殿が此処に在った証と考えられ、次の移りを想定する。
 秀吉の為の吉原御殿―家康の善徳寺御殿―忠長の茶屋御殿―廃却 }
元和 7 1622  古郡重高により岩本山の南西端に雁堤の一番出し、二番出し完成。
           これにより富士川本流の東流が緩和され、岩本・松岡以南の水害
           を防いだ。駿州代官の功となった。
元和 8 1623  見性院(梅雪夫人、信玄の第二女)江戸にて死す。(甲斐国志)
寛永 元 1624  忠長駿河国守と為る。旧武田家臣は隋身。
寛永 2 1625  古郡重政、忠長の付け人と為る。駿州代官初代。


ブログ開設し昔話を続けること130回余、年譜の区切りとなる年末で一区切りをするこ
とにした。日を改めて善得寺及び善得寺城につき私説を再記して見たい。
次週には霜げると思はれる名残の花々を列する。