富士市今泉の昔話(160)根方街道(9)
根方街道慢歩の折、一時を得て天空の高野山に遊ぶ事が出来た。
家族挙げての介護を得ての贅沢旅行であった。四国88ケ所巡りの結願、56期生の戦死の兄の慰霊、卒寿の誕生祝いを兼ねての願いを果たす事が出来「有り難い」限りであった。
図らずも陸士56期生の慰霊祭が行われており、これも思はぬ多謝の内であった。
夢とも思はれる卒寿である。
ただ多謝の卒寿高野の青嵐 壷天
墓碑銘の指に涼しき高野山 稜子
高野山の多謝より再び根方街道に戻る。
記述の如く、根方街道は時代と共に南に移って居るのは図の通り。
赤線 戦国時代、善得寺城の頃推定の古道。日吉を出発点として鎌倉古道、甲州街道、根方 街道が共用されていた。
緑泉 家康が善得寺御殿を作り、今泉往還が形成された。
茶線 駿河大納言が権勢を得て、茶屋御殿を整備したと考える街道である。
この頃より今泉往還を廃止し、吉原よりの根方街道となっている。
空線 大正に入り、藪下の道が整備され根方街道が形成された。
水線 藪下より比奈までの直線路が開設され、更に南に直線路が開設され、浜街道と合致し ての国道1号線となった。
根方街道の変遷は、道祖神・庚申塔等の石造物を時代ごとに調査するとよいと思はれるが
後日に待ちたい。
庭に破れ傘の花が3本咲いた。しみじみ見ると面白い花である。
銀香梅、くちなしが芳香を流し始めた。
根方街道慢歩の折、一時を得て天空の高野山に遊ぶ事が出来た。
家族挙げての介護を得ての贅沢旅行であった。四国88ケ所巡りの結願、56期生の戦死の兄の慰霊、卒寿の誕生祝いを兼ねての願いを果たす事が出来「有り難い」限りであった。
図らずも陸士56期生の慰霊祭が行われており、これも思はぬ多謝の内であった。
夢とも思はれる卒寿である。
ただ多謝の卒寿高野の青嵐 壷天
墓碑銘の指に涼しき高野山 稜子
高野山の多謝より再び根方街道に戻る。
記述の如く、根方街道は時代と共に南に移って居るのは図の通り。
赤線 戦国時代、善得寺城の頃推定の古道。日吉を出発点として鎌倉古道、甲州街道、根方 街道が共用されていた。
緑泉 家康が善得寺御殿を作り、今泉往還が形成された。
茶線 駿河大納言が権勢を得て、茶屋御殿を整備したと考える街道である。
この頃より今泉往還を廃止し、吉原よりの根方街道となっている。
空線 大正に入り、藪下の道が整備され根方街道が形成された。
水線 藪下より比奈までの直線路が開設され、更に南に直線路が開設され、浜街道と合致し ての国道1号線となった。
根方街道の変遷は、道祖神・庚申塔等の石造物を時代ごとに調査するとよいと思はれるが
後日に待ちたい。
庭に破れ傘の花が3本咲いた。しみじみ見ると面白い花である。
銀香梅、くちなしが芳香を流し始めた。