富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(39)

2013年01月25日 20時24分02秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(39)外伝  善得寺考     富士の大木(3)

金原明善翁の指導により開眼した、富士南麓の人々は森林組合を各地に
結成、県・市の指導のもとに努力し、富士ひのきの林業地が進展してい
る。財産区設定も核と為っている。
富士南麓に林業地が形成されつつある一景を示す。




又適時に枝打ち・間伐を重ねての形成されての林地の句碑が在る為写真
とした。
富士市の「ひのきの家」の東に建碑した。
林相をととのへ冬日深許す
上田五千石(故人。富士中卒。俳人協会理事)
  句意。林に間伐等を十分に行い、林相を整え、林地の奥まで冬日が届
     くようにした林の見事さよ。林に讃す。
  侍して弟子の林業句碑2碑。
    わが生は檜苗植え継ぐことで足る       壷天
    木を測る声を復唱息白し           稜子




(欅の大木、妙心寺の柱等)
善得寺の勉強の間に、其の本山である妙心寺へは宿坊・花園会館に泊す等
何回か訪問した。
此の間に法塔の見学を得た時が在る。此の時に見事の「鳴き龍」の説明の
後、太柱の生地を尋ねた所、「駿河の東山」と聞き驚いた。遥々駿河寄り
の驚きと共に其の場所を知りたく探し始めた。東山の地名は御殿場に在る
が、市史を調べ、現地を調べた所、此処の地名は新しく昔よりの地名とは
言えなかった。但し、裾野地域では箱根山全体を東山と呼ぶ為深良の辺ま
で訪ねたが、該当無く、此の間此の地の郷土史家の小林氏・羽田氏・真田
氏の知見案内を戴き、裾野市下和田依りの妙心寺への大量の欅の出材を確
かめ得た。
下和田は木の良く育つ所で大木の地と聞いていたが、記は羽田氏の「裾野
風土記」の中の「妙心寺と下和田」の文をお借りし、調査の諸資料を追記
した。
下和田の方々の大量の欅の寄進の功徳は妙心寺に今も語り継がれている。

雲居禅師(1582~1659)は仙台の瑞巌寺を中興し、念仏禅を唱え
られ、京都への帰りに富士山修行の為下和田に駐在された。此の時下和田
山(標高1300m、不動山の奥)付近に杉・欅等の巨木の多いのに驚き
つつ、村の名主に妙心寺の再建への巨木の寄進を依頼をした。
名主は村人と協議し、総員の賛同が得られて雲居禅師に寄進を申し出た。
雲居禅師は喜んで愚堂禅師(1577~1661、)と諮り、
妙心寺の法塔の再建が具体化された。
妙心寺の再建の状況を「妙心寺誌」より抜粋する。下和田材の多用が考え
られる。
 寛永16年 1639  鐘楼建築
 承応2年  1653  大庫裏改築落成      
 承応3年  1654  大方丈改築落成
 明歴2年  1656  玉鳳院改築
 明歴3年  1657  法堂新築落成  承応4年(1655)着工

雲居禅師は伊予の生まれで、瑞巌寺の99世であり、大悲円満国師と諡さ
れており、塙団右衛門と共に大阪城にて戦った事もあり、戦後妙心寺に再
び入った。伊達政宗の知遇を得て後、富士山にて修業を重ねつつ、宝永7
年(1630)には熱海の興禅寺を中興し、此の間に下和田の材による妙
心寺の再興に寄与した。
愚堂禅師は大円宝鑑国師と諡され、妙心寺に在る時は宮本武蔵が参禅した
こともあり、雲居禅師とは修業仲間であり、前記の再興には疎通の関係が
役立ったと思はれる。
愛鷹山は善得寺よりみて「東山」と呼ばれており、これが駿河の東山と今
に残っていると思はれる。

妙心寺は記国屋文左衛門を使者として名主の元に送り、手配を進めた。
名主は山の雪の解けるのを待ち、役人と共に4月下旬に材料の見定めに
入った。用材の帳簿に基づき、必要の材に印をつけた。必要の材を慎重に選
んで、必要な量だけ山から切り出し、後の人たちの為に残せとの先人の言
葉を肝に銘じつつ、選木した。
伐採は、木の水分の関係より9月に始め、下和田の仙人のみで無く、須山・
今里の人々の加勢を得た。
造材・玉切りは寺からの要請で、近江や丹波依り派遣された仙人に依り行
はれ、4っ割にして芯去り柱が考えられ、その太さを喜ばれた。芯を取れ
ば乾燥が楽で、また材が暴れず柱に狂いが生じない理由である。
大木の造材に使う両引きの鋸を示す。材の大きさに合った鋸が造られたに
違いない。




造材された木は、橇馬により沼津港まで運び、筏の形で大阪まで運び、賀茂
川を上って寺まで届けた。橇馬の運搬には、中国の故事に習い道路に水を撒
き氷らせて滑らせた。
寺までの道路は大木の為障害と為る家を除去等の手配をした為、丸太通りの
名に為ったとの事である。
運ばれた木は、建築を依頼された多勢の飛騨国の匠丁(工人)たちは、のみ・
手斧・槌を使い昼夜を問わず奮闘し工事を進めた。
妙心寺の工事に、欅が何本使われたか不明である。或いは下和田だけの木で
は足らず、付近の山々からも出材されたかも判らない。末記するが、天文8年
に何かの大工事で葛山氏が5ケ所の欅の伐採許可しており、多量と考えられる。

以下妙法山誌より抄記する。
妙心寺の法塔の内部の構造は仏殿と同じに敷瓦で、欅の円柱を4っ割にし、内
陣だけでも18本ある。其の高さは8,5mで周囲2mの見事の物で富士山麓の
物である。此の柱で支える大梁は中々無く、漸く日向依り松の大木が得られた
が、長さ18m径1,6mの材2本である。淀より寺まで運ぶに1本に就き牛70
頭を要した。

大木の得られた下和田山はの西、愛鷹山の中であり、近くに不動様を祀る
不動山が在り、不動様まで下の道より長い参道が造られている。参道の上り口
辺に昔庵が在ったとの事依り、雲居禅師の修業の場所かもしれない。
大木の在った不動山の景、何か痕跡でもと願ったが積雪のため入山できず又他
日を期すことにした。の浅間神社の一景である。




以上欅の大木に就き妙心寺の記を続けてきたが、京都にもう一つの東山が在る。
京都の東寺にはその伽藍の木は東山依り運んだと記されている。東寺に伺い伺っ
たところ東山は京都の東山との返を戴いた。当時京都周辺で欅の巨木が得られ
るとは思えない。尚勉強したい。


また欅の調査の折、思いがけない記を得た。愛鷹山の東の地の領主葛山氏の大
量の欅の伐採許可の印判状である。裾野地区の5ケ所につき天文8年(153
9)の状である。

   引物之木可取山所々
     堀内山      千福山      北山
     今里山      下和田山
   右、任 龍光院殿御印判、5ケ所之山にをいて、つきの木計とるへし、
其外木は不可取之者也、仍如件、
天文8年亥     卯月12日

此れは此の地の轆轤師に出された状であるが、広い地域の大量の欅は何の大工
事か不審であった。天文8年(1539)は河東一乱の治まった時であり、北
条は伊豆に今川は駿河と約がなった時で葛山氏は今川の配下と為っている。天
文6年(1537)に善得寺は焼かれ、天文9年(1540)に瀬古の地に善
得寺が再興されており、此の時の大工事は善得寺の再興と考えられる。善得寺
の再興の工期の短い事に不審を持っていたが、芯去りの欅の大量使用で、工期
の短縮が在り得たかもわからない。通常の欅の工事では狂いを生じない為に乾
燥に数年を要すると聞いている。

善得寺再興の欅材は、東山(愛鷹山)より出材されており、関係した雪斎は妙
心寺の山門寄進等あり、妙心寺には欅材は東山よりの言葉に成って居たのかも
しれない。
轆轤師は木地師とも言はれ、「こけし」「椀」などを主として作る職人である
が、挽き物師の意味もあり、伐採の関係も私見した。
愛鷹山は、東部に大量の欅があったが、西部にも勢子辻の北部の「日を見ず」
の地も大径の欅の埋木があり、善得寺の欅が何処の物か尚検討したい。























































富士市今泉の昔話(38)

2013年01月18日 13時54分28秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(38)外伝 善得寺考 富士の大木(2)

富士南麓は古書に在る天を摩す大木の地が、何故か解らないが幕末の頃は荒蕪地・雑疎林の地
と為っていた。
先人達が此の地の開墾・植樹に努力していたが、鼠害・天災・地味に災いされ実効を上げ得ず
大変の苦労を重ねていた。内山組合の設立、活躍もその一つだったが。
明治に入り、遠州の偉人金原明善翁の指導を得て開墾植樹が進められた。明善翁は人ぞ知る天
龍川の治山・治水の功大の方である。富士南麓に関しての翁の年譜を抜いてみる。

明治34年 11月19日 静岡県山林協会設立。会長就任。(1901)
明治35年4月      山林協会経営の模範林を、富士山麓吉永村勢子辻に設ける事決定。
     11月     明治天皇行幸の途次、知事依り明善の富士山麓の植林の功を言上す。
明治36年1月      同志小野田五郎兵衛、山林協会副会長に就任、富士南麓の現場にて、             率先植林に尽力す。
 (当時植林に従事した祖父の詳細の記録が在り、何時の日か整理をしたいが、日記
  中に日本海海戦大大勝利の字が躍っていた。)

翁の指導に依る富士南麓の植林は急速に進み、育成された模範林の寄付に依り、内山組合
が活性化され、「富士ひのき」の基盤が始まった。この間の経緯は「内山組合誌」。に詳記
されている。富士熔岩地に檜が適材としての指導が「富士ひのき」の源流と為っている。
模範林は地区合計約184町で、植樹は73万本に及んでいる。
翁は質素を旨とし、修身・斎家を基本として治山・治水を全国に努力され、富士もその一
部である。

翁よりの手紙は、新聞紙を切り貼りした手創りの封筒を使用され、何通かを戴いている。
また碑文とさせて戴いた色紙の判は芋判の手創りと聞いている。
当時の林業の基地として、瀬古辻が在り、其処には明治依りの瀬古辻分校があり、内
山植林地の原動力になってきた。分校は今は市の「勢子辻ひのきの家」とし新発足してお
り、中には明治19年に発足した「植森林興学校」と大書の扁額が在る。これは此の地で
発掘された3cmの厚さの神代杉が使用されている。神代杉に関しては別稿でまた述べたい。
明治依りの林業の「生き証人」と言へるかもしれない。

「親に仕えて孝、子孫の為に林業を起こす、実に賢なるかな」85翁明善書
碑文である。「こどもの国」入り口の東の高台に在り富士に対している。





「松平家忠日記」を前稿依り続ける。
21日 降雨木引き。
22日 降雨。小材木運搬。
23日 降雨休み。
24日 木休み。
25日 富士雪。木引き105人。
26日 木引き。上出村木小屋場まで至る。
27日 小材木運搬。家康大宮にて富士大木を検す。
(此処まで推定600間やく1000m)
28日 家康大宮より甲府に赴く。
29日 家康2隊に速やかに富士大木を富士川沼久保まで出すことを命ず。然れども今日
は僅かに路頭まで引き出すを得たるのみ。
人夫137人着到。
30日 大木、大き(現在の青木の地名と推定)迄引き出す。
9月  1日 運搬。
  2・3日 運搬。
    4日 木引き沼窪川に入る。
    5日 大木川を下ること20町計。
    6日 川を下る20町許。溺死1。
    7日 大木、洲にかかりて動かず。
    (富士川の岩本よりの東流で洲が多く、困難したこと推定)
    8日 降雨、大木流下10町許。
9日 川浅くして動かず。再び陸揚げして引く。
   10日 木引き。
   11日 木引き。
   12日 大木始めて吉原に着す。これより船にて渡す。
   (吉原の地名は、吉原湊か或いは現在の今泉から吉原の地を言って居るか不明。
私見としては後者を考える。他の家忠日記の秀吉の北条征伐の折の宿舎の吉
原御殿と通ずる呼び名と思はれる。)
    13日 此の日より門木を引き、日々続く。
    18日 木引きの甲信の衆帰る。以降木引き止むこと無し。
10月 28日普請衆、引き上げ命令。

大木の引き出しは、現地に記録・口伝も無く場所の特定はできていないが、幾つかの
地名が在りさらに調べたい。
何にしても富士山に考えられないような大木が在ったことまたこの大森林が、徳川
300年の間に消滅したことは不思議である。
   
この後大木は、船に引かれて淀川・宇治川をへて、宇治より方広寺まで工事の為に
掘られた高瀬川により運ばれた。観光バスでガイドが高瀬川でこの運河を駿河より
大木が運ばれたと説明しており、昔を感じた。
今に残る方広寺の大仏殿の大石垣、柱用の金輪又柱の跡に建てられた柱様の石柱の
数の羅列等に昔が偲ばれる。

正月の雪景色。熔岩樹型の多い丸火公園の景。



























































富士市今泉の昔話(37)

2013年01月12日 18時13分45秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(37)外伝 善徳寺考 富士の大木(1)

善得寺・善得寺城の勉強の間の古書に富士の大木の記に幾つか
当たったことが在る。義元が善得寺の七堂伽藍の再建を短時日
で完成させえたのは、近くに大木が数あったので可能になった
と思はれる。短時日に生の木を使い狂いが出なかつたかの疑念
はある。
京都方広寺の大仏の棟梁  檜末口1,5m長さ25尋(37m)。
京都妙心寺等の柱     欅末口60cm長さ8mの芯去り柱、
             4本を採った大木。
富士市丸火の熔岩樹型   最大径3m、長さ10m、樹種不明。
神代杉・神代檜

大木の詳細に触れる前に、富士地域の現状を記して見たい。
この地域は、富士山を中心として愛鷹山・箱根山に及ぶ大樹林
帯を成し、下記の如き数と成っている。地域として「富士ひのき」
の銘柄化に努力を続けており、その成果が表れつつある。
富士傘下の大樹林地帯を夢見つつ。

地名     林地面積(千ha) 比率   畜材量(百万)
静岡県    498,94  64,1
富士市     12,1   49,6  2,2
富士宮市    25,6   65,8  3,8
沼津市      9,5   50,6  0,9
裾野市      8,8   63,4  1,5
御殿場市     11,0  56,6  1,1
      面積は国有林を含み、畜材は民有人工林のみである。
      比率は全体面積と林地面積の比率である。

林地寄りの富士の遠景と、瀬古辻の南に在る「仁者愛山」碑(武
者小路実篤書)と背後の大正の林地の景をのせる。樹齢は90年
余である。




(方広寺の大仏殿の棟梁)

本題の方広寺の棟梁に就いて記してゆく。方広寺は太閤秀吉が母
堂の供養に伏見に建てた寺であり、付帯して大仏が建てられた。
大仏は太閤の威勢にて、東大寺を凌ぐ物であり全体に掛かった人
工は1千万人と言われており、徳川実記・太閤記・甫庵太閤記・
家忠日記等に詳細記されている。
大仏殿は地震・火災に依り今は無いが、その巨大さを示す幾つか
が残されている。付帯の鐘楼と鐘が今に残されているが、徳川・
豊臣の手切れの原因となった「国家安康」の字が読める鐘があり、
大仏殿の柱用の金環と梁用の金枠が置かれている。人と対比して
その巨大さは解るが、柱は芯の柱に扇形の板を添え、金環で縛っ
た寄柱であり寄梁であり、東大寺と同様の構造である。
此の柱で支えた大仏殿の高さは30丈であり、大仏の高さは16丈
だった。
大仏殿の跡地には石柱を柱に見せて建て昔を偲ばせている。




特記される物に大仏殿の棟梁が在る。必要の木を全国探したが
中々無く、僅かに富士山麓に檜の大木が在るとのことで調査、
適木であることが確認され、秀吉は家康に伐採運搬を命じた。
棟梁の大きさは末口5尺長さ25尋である。想像を絶する巨大さ
であり、今では考えられない。
此の大仏は東大寺を凌ぐ物であり、東大寺の棟梁は末口4尺5寸、
元口5尺5寸長さ100尺である。東大寺でも全国を探し、懸賞で
周防の国に在ることが分かり、牛120匹で引き漸く東大寺まで
運ばせた。

家康は命に依り、駿・遠・参の3州の人士を動員し、時には自ら
督促して運搬を進めた。その詳細は「松平家忠日記」に記され
ており、抜粋する。

天正17年(1589)
 7月9日 秀吉、家康に大仏用木材を要請。家康命に従ふ。
  19日  駿・遠・参の三州の諸将、各々役夫を率いて駿府
に着到。
 8月2日  遠・参の諸将興津に赴く。
   3日  諸士加島より船に乗じ、上出の工事場に至る。
     「上出」の地名は富士宮の古老に聞いても無い。
これは「かみいで」と読み
      後に上井出の字に充てて地名になったと私見する。
 8月5日 初めて富士材木の引き出しに従事、長さ25仞の大
綱5条を纏い人此に集まり
     力を併せて援引せしが、この日は終に寸も動かざ
りき。
   6日 降雨。道路の修繕をなす。
   7日 降雨。材木引き出し凡そ30間。
   8日 凡そ130間。此の日着到130人と点ず。
      家康将士を慰労す。
9日 降雨。半日にて80間。
  10日 200間。
  11日 降雨。休み。
  12日 木引き。
  13日 降雨休み。
  14日 降雨休み。
  15日 木引き。
  16日 降雨休み。
  17日 工事急を要する為、家康二隊にての木引きを命じ、新た
に道路を開く。
  18日 降雨木引き休まず。
  19日 木引き。
20日 降雨。富士大木漸く木山を引き出すを得たり。
(此処までの推定1300間約2300m、後記の青木の地より逆算
すると、佐折の地が切り出し地と考えられるが、現在伝承等得られて
いない。)
       以下は次週に続ける。





































































富士市今泉の昔話(36)

2013年01月04日 16時02分47秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(36)外伝 関係諸寺(5)城端 善徳寺

新春。ブログ第一信。健有難し。健多謝。世に多謝。
  初旅を地図に妻とに四国旅
地図に辿った四国旅の米寿の満願を。愛林の丹精の実り在れと。
ブログの続を。
同胞の共生き。偕老同穴。



善得寺の資料少なく、全国に在る類字の善得寺・善徳寺・得善寺・
徳善寺等の由緒を尋ね、善得寺の所縁有ればとの願いでインター
ネット(平成10年)で調査した。
調査結果所縁の寺は94寺あったが、不思議の事には臨済宗の寺
は2寺のみであった。これは長い間に改宗・改名が在ったかとも
更に調査したい。
「大阿弥陀経」と言ふ経典に「其の善福徳は当に復た大師阿弥陀
仏の如くなるべし」とあり、善福寺の名の由来は此れよりと、全
国に在る多数の善福寺の内数寺に善徳寺の改名無いかを聞いたが、
無い或るいは解らないの返だけだった。

浄土真宗    32寺    城端 善徳寺他
曹洞宗      8寺
日蓮宗      5寺
真宗      22寺
天台真盛宗    1寺
真言宗      7寺
浄土宗      6寺
時宗       1寺
御嶽修験宗    1寺
臨済宗      2寺
単立又は不明   9寺
善徳寺に浄土真宗の多い理由につき、城端の善徳寺に泊した時に
ご住職にお聞きした所、教義に次の言葉の在ることを教えて戴い
た。善本・徳本の良い語を採っている。
「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善
 法の本なり。
「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至
 徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。

浄土真宗の城端別院善徳寺の由緒等を記す。寺伝をお借りする。
浄土真宗大谷派の古刹で、山号を廓龍山と言ふ。本願寺8代蓮如
上人は文明3年(1471)、越前吉崎より加賀を経て、越中井
波瑞泉寺(本願寺5代悼如上人開基)へ巡教の砌、
加越国境河北郡井家の庄砂子坂(現在の金沢市砂子坂)に、その
昔周覚法印が庵を結び布教された旧地に寄られ、仏法有縁の地と
して一宇を建立発願され、周覚の孫蓮真僧都に付属された。
蓮真は第三子実円に継がせ、文亀2年(1502)頃、砂子坂か
ら越中山本の里に寺を移し、善徳寺の寺号を免許され本願寺実如
依り「加越能三国之儀者善徳寺門徒たるべし」旨の書状授かる。
その後加越能の惣禄を命じられる。天文年中には福光へ移り、第
5代裕勝の永禄2年(1559)に篤信の城端城主荒木大膳の招
請によって城端に移った。その居城に寺坊を建て、慶長7年
(1602)本願寺東西分派にはいち早く東派に属した。これよ
り徳川300年加賀藩庇護の下、越中東派の触頭役寺を明治初期
まで勤め、本願寺連枝寺として隆盛し、明治4年以降由緒別院と
して今日に至っている。



善徳寺は城端城の一画を占め、寺域1町6反、伽藍29棟の広
大さで、城の太鼓門が移設されている。伽藍の配置は宗の基本
に従い、山門・本堂等全て東面している。山門に続く本堂、ま
た菊の門(勅使門)に続く大式台等何れも見事の彫刻を備え、
絢爛豪華である。
伽藍の南辺に宝物殿が在る。寺は戦禍を受けていない為、多く
の文書・宝物をそなえている。古文書9300点、歴史資料
190点の貴重の数々である。蓮如上人・親鸞聖人の御真筆は
殊に他では見られない。



寺の行事の幾つかを上げる。
1月1日より1週間       修正会
4月23・24・25日     蓮如上人御忌法要
5月14・15日        曳山祭
7月22日1週間        虫干し法会
9月2日            一心講盆踊り
9月15・16日        むぎや祭
11月10日 6日間      報恩講
虫干し法会は宝物を一堂に干し壮観であり、曳山祭りなど町を
挙げての祭りも盛大である。
善徳寺を中心としての門前町、楽市楽座を考えた町造りは劃期
的である。桜の頃の町を挙げての花まつりも盛大である。

富士の善徳寺でも寺市場(字名)に在った時には市場(字名)
に町が出来、善徳寺が瀬古の地に新設された時にも楽市楽座的
の寺市場(字名)が義元により造られたと考えられる。何れも
門前町である。