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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)

2015年03月14日 10時04分35秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)
善得寺城の本城は虎口の開口部の東に位置する事は前文の通り。写真の虎口は六所家へ狭
まれているが、反対側より本城を通る今泉往還が始まる。日吉より北に向いていた根方街
道が、家康が廃城として善得寺御殿への今泉往還を作ってよりは永く根方街道として賑や
かだったと思はれる。根方街道の変遷は別の稿で書いてみたい。



虎口の東、推定大空壕を隔てて大手門に当たると考える。此処より家康の善得寺御殿への
道が始まる。不思議の曲折のある今泉往還である。此の曲折は善得寺城の在った時の廓の
形であり、家康が北条征伐の折占拠後、堀を埋めて善得寺御殿へと作った道と考える。



大手門を過ぎての平らの広場は馬場と考えられるが、今の姿である。広場を過ぎて直進す
ると搦め手と思はれる野面積みの石垣群に当たる。
本城の東部分に鍛冶屋瀬古と言ふ小字がある。島田より島田姓の鍛冶屋達が移住の場所と
考えられかなり広い、これも城の在った標である。
今泉往還の途次の郭跡と思はれる野面積みの石垣。積み変えられて居るかもしれない。








曲折の一つである愛鷹神社への道である。此の道は当時は無かったと思はれるが、一段の高見であり、愛鷹神社は本丸跡と考える。神社に立つと南は当時あった富士川が見渡せたと思はれ、眺めが良い。道を隔てての平地は本丸御殿の位置かもしれない。
此の道路と直交する道が次の写真で、福応寺の南の谷依り六所家の北の谷に通ずる大空壕の推定地である。梯郭式平城の基本である西と北の大空壕は箱壕の堅固の物と思はれる。廃城後埋め立てられて道となったと推定する。道路の右が本丸部で、瑞垣は愛鷹神社である。





「とさみずき」「ひゆうがみずき」が咲き始めた。



































富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)

2015年03月14日 10時04分35秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(148)善得寺城(再5)
善得寺城の本城は虎口の開口部の東に位置する事は前文の通り。写真の虎口は六所家へ狭
まれているが、反対側より本城を通る今泉往還が始まる。日吉より北に向いていた根方街
道が、家康が廃城として善得寺御殿への今泉往還を作ってよりは永く根方街道として賑や
かだったと思はれる。根方街道の変遷は別の稿で書いてみたい。



虎口の東、推定大空壕を隔てて大手門に当たると考える。此処より家康の善得寺御殿への
道が始まる。不思議の曲折のある今泉往還である。此の曲折は善得寺城の在った時の廓の
形であり、家康が北条征伐の折占拠後、堀を埋めて善得寺御殿へと作った道と考える。



大手門を過ぎての平らの広場は馬場と考えられるが、今の姿である。広場を過ぎて直進す
ると搦め手と思はれる野面積みの石垣群に当たる。
本城の東部分に鍛冶屋瀬古と言ふ小字がある。島田より島田姓の鍛冶屋達が移住の場所と
考えられかなり広い、これも城の在った標である。
今泉往還の途次の郭跡と思はれる野面積みの石垣。積み変えられて居るかもしれない。








曲折の一つである愛鷹神社への道である。此の道は当時は無かったと思はれるが、一段の高見であり、愛鷹神社は本丸跡と考える。神社に立つと南は当時あった富士川が見渡せたと思はれ、眺めが良い。道を隔てての平地は本丸御殿の位置かもしれない。
此の道路と直交する道が次の写真で、福応寺の南の谷依り六所家の北の谷に通ずる大空壕の推定地である。梯郭式平城の基本である西と北の大空壕は箱壕の堅固の物と思はれる。廃城後埋め立てられて道となったと推定する。道路の右が本丸部で、瑞垣は愛鷹神社である。





「とさみずき」「ひゆうがみずき」が咲き始めた。



































富士市今泉の昔話(147)善得寺城(再4)

2015年03月05日 15時41分03秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(147)善得寺城(再4)

梯郭式平城の私見図を記したが、現在に残る物は殆どなく僅かにそれと思はれる野面積みの
石垣だけである。現在の地図に角々の写真を列記して見る。
写真は西端の東泉院部より始める。



東泉院付近(1)~(6)。
東泉院付近は善得寺城の西部に当たり、城らしい部分が残されている地である。写真(1)
は其の主要部の大石垣である。石垣は高さの関係か、2段に分かれ下段の上の犬走りの上
に2段目の野面積みの石垣が聳えている。中央部は関東大震災の折に崩れ、新しく積み直
されている。野面積みの石垣は雑草等で荒れ、是非とも保存の手を加えたい物である。
(3)は東泉院北の空谷部分。是より東の福応寺の南の空堀に続く。何時の日か此の部を
試掘し濠跡が確認されると有り難い。和田川に沿う此の地に遊んだ時「カワセミ」の美し
い姿を見て感激した。
(4)は出丸と考える部分の広場(馬場?)であり、北に見える部分は物見台とみられる
石の高みがある。高い石垣の上のここよりの南は眺望が素晴らしい。当時は和田川の南に
富士川の本流が流れていた筈である。

          (1)              (2)


           (3)              (4)






「虎口」は城の門部を強化する石積みであるが、入り口は狭まり本城部分は広く作られる
より、この地点を大手口とすれば本城は此の東に在り、城山の地名も善得寺御殿への道図
の記にも合致する。




(19)城の南に連続する野面積みの石垣。横矢と思われる直角の部分で何故か水神様が
祀られている。水神様は(16)部、(19)部、搦め手部、和田川(新川)沿い等に祀
られており湧水地の為かも知れない。
(16)は昭和に十里木街道が出来るまでの街道で、西に本国寺の山門がある。東は崖で
此の間が私見する西の大空壕である。或いは大手口まで水濠だったかもしれない。本国寺
は裏鬼門に当たり前に何か鎮守があったかもしれない。



迎春花の時期となった。






























富士市今泉の昔話(146)善得寺城(再3)

2015年02月28日 13時33分50秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(146) 善得寺城(再3)

善得寺城の位置を示す物として、駿国雑誌に記されている家康の善得寺御殿への経路図
がある。是は六所家の保存文書の中の図を転記した物であるが、虎口を起点として善得
寺御殿への経路を由緒ありげの曲折を含め書かれている。



この図には面白い何点かがある。
起点より善得寺御殿まで曲折を経て十一町、此の道は後の図面では今泉往還として以降
長く使われている。現在の道路の通りであるが、此の上和田地区の曲折は不思議である。
是を善得寺城の梯郭式の壕を廃城後埋めて道路としたと考えると面白い。本丸・二の丸・
三の丸が見えてくる。
城は起点よりの城山地区に次の様に記されており記録として貴重である。
 但し古城跡と唱る場所へは東泉院依り辰に当てて一丁計り御殿地へ卯四分に当たりて
十一丁余云々。
 東泉院門前より城山へ十五間城跡と申す所へ六十間程。
此の道は家康の瀬古御殿を経て御殿地の北端より、古称「大宮道」となり鎌倉古道(根方
街道)に通じ昔の主要道となっている。此の道の坂本下に「高札場」があった事は主要道
の名残と思はれる。
築城にはその土地を撰ぶに「四神相応」の考えがあった様である。「四神相応」とは
中国の「礼記」で都・城の理想的の選地の考え方である。四神とは天上の四方を司る神で
あり、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武を指し、四神に囲まれた土地を適地と
している。
東に流水、南に窪地、西に大道、北に丘陵を備えた土地である。(城作りのすべて 学研)
東のガマと田宿川、南の和田川と広い富士川の河原、西の十里木道(根方街道また六所宮
を通る富士塚よりの富士山登山道)、北に富士山を見た城山の地は此の考えの適地と考え
られる。

以上の考えにて纏めたのが次の梯郭式平城図(仁藤案)である。



図中の名 出丸、本丸、三の丸、二の丸、水の手、搦め手、北廓北空堀等は皆私案による
物である。図で東泉院は出丸と考え、本城と共にで街道を扼し、城主等の館があったでは
ないだろうか。また北廓は大きな崖を作り防御にし、鬼門封じの寺があったではないだ
ろうか。本丸と考えられる愛鷹神社に立つと、南の見晴らしがよい。鍛冶屋瀬古は城の東
端にあり、島田より移転した鍛冶屋が住した場所と考える。現在も島田姓が何軒かあり、
後裔かもしれない。

庭が急に色付き始めた。さんしゅう・まんさく が賑やかである。春は黄色で始まる。




















富士市今泉の昔話(145)善得寺城(再2)

2015年02月21日 14時36分45秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(145)善徳寺城(再2)
  城山地区へ配置鈴木案(東西)



城山地区への配置南北案(仁藤)




5、東泉院付近(見崎氏案)
「駿河の今川氏」誌上の見崎氏案であり、図等お借りして記して見る。氏は地形等調査し、
伝えられている山城の円郭連郭式山城の善得寺城図は、善得寺城で無く興国寺城の物とし
て梯郭式平城図を述べられている。歩かれての地形調査より虎口より北の南北の空堀と福
応寺より東泉院北の谷を結ぶ東西の空堀を骨子として城の形を推定している。




氏は平城を推定され、東泉院付近を本城に又城山付近を廓として書かれている。



字上和田・鍛冶屋瀬古の付近の1mの等高線図である。図には愛鷹神社の高みと本国寺東
より北への約1mの窪みの連続が見られる。図には虎口の西に日吉より北上の道があり、
昔は此の道がそのまま北上し鎌倉古道(甲州街道また推定根方街道)と結ぶ細道がある。
この図より次の様な推定を加えて平城梯郭式を考えた。仁藤案である。
此の地は既に市街化され、平坦化され、土居・石垣等も損し推定は困難であるが次の各点
は興味深い。
本国寺東より北に10m~30mの幅の凹地の連続が見られる。虎口に接する大空壕の跡地で
はないだろうか?虎口の形より、此処の東城山の地に本城があった事が考えられる。
此の空壕の北端は東泉院の谷と福応寺の堀を結ぶ線に当たり、この線に北の空堀が考え
られる。是が善得寺城の骨子であり、見崎氏の図と近似する。

春は駆け足、庭にボケが咲き菜の花が賑やかである。