陳水扁については、彼のおかげで民進党が政権を獲得して、台湾の民主化が進み、台湾の歴史では空前の明るい時代が作られたという功績を十分認めるが、しかしもともと本を読まない、つまり勉強しない、教養のなさと底の浅さのためか、残念な結果になっているといえる。
また最近、著書を出して、訳のわからない民進党の同志の罵倒や暴露に終始しているようだが、もうはっきりいって、死んでほしいと思う。
彼が汚職をするような人物ではないと思うが(というか、汚職をするようなダーティな人間につきものの、人間的な妖しさや魅力がなさすぎw)、それを抜いても、退任後の彼のあり方やパフォーマンスの醜悪さは、まさに晩節を汚し、台湾の民主化の栄光を汚し、まさに万死に値すると思う。
と思っていたら、憤激せずにはいられない事実を、昨日29日に知った。
いつもの土日恒例で、自由時報をコンビニで買って(平日は職場で見る)行き着けの飯屋で読んでいたら、長年の友人の李筱峰が時々執筆しているコラムが目についた。「
假如我是陳致中」と題するもので、陳水扁の長男、陳致中が最近「平凡な家庭に育ち、本当の完全な自分自身でありたかった」と述べたことに対して「平凡さを望むなら、どうして結婚式を簡素にせず、母親が宝石ではなく、本を収集して勉強することを薦めなかったか」という中で、「(もし本を読むことに精力を注ぎ教養を磨いていたなら)李筱峰の絶版書《二二八消失的台灣精英》が陳水扁家から捨てられて、古本屋に売り飛ばされることがなかったであろう」とあったので、仰天した。
これは台湾人独特の自惚れではなく、《二二八消失的台灣精英》といえば、228事件についての議論が解禁された初期で、まだ社会的には不自由な雰囲気が残っていた時期にあたる1990年に、228事件の犠牲者について初めてまとめられた歴史的に貴重な本だからだ。
早速、李氏に電話して確認すると、2006年に李氏の友人が古本屋でたまたま見つけて、ほしかったので買ったところ、奥付のところに、陳水扁宛の献呈本で李氏のサイン入りの本だった、という。
私は忌憚なくいった。「失礼ながらもし90年代に大量に出たあなたの評論集の一つだったら、古本屋に出すこともあるだろうが、よりによって、あの本を古本屋に流すとは、失礼というか、レベルの低劣さにあきれる」といった。李氏自身も同意した。というか、李氏がわざわざその本を上げたのは、李氏のうぬぼれなどではなく、台湾の民主化史にとって客観的に見て意義の大きい本だからという意味があったのだ。
それでいて、陳水扁は大金を「建国基金」に使うつもりだなどと強弁していることについては、李氏は「あきれて物が言えない」といった。
ただ、李氏の文章では、李登輝がある学者の修士論文すら大事に所蔵していて詳しく読んだ形跡もあることをほめているが、私から見たら、李登輝のそういう「ひけらかし」は、李登輝がいう日本精神や武士道に反する、浅ましい行為であるといっておいた。
その点では、謝長廷のほうがはるかに日本人らしい。謝長廷も李登輝に負けないくらい本を読んでいて、本が大好きだし、しかもさりげなく言及するが、決して「私はこんなに本を持っているぞ」などとひけらかしたりしない。
そういう意味では、1994年に台北市長、2000年に総統になるべきだったのは、謝長廷だったんだろうな。歴史はうまくいかないものだ。
しかも2008年になってせっかく出てきた謝長廷を落として、顔だけで何の教養もない空っぽの馬英九を選んだ台湾人は、陳水扁を選んだ教訓を学んでいないという意味で、やっぱりアホだといえる。
陳水扁に話を戻すと、1990年というまだまだ微妙な時代に出た《二二八消失的台灣精英》を古本屋に売り、台湾の歴史、民主化の奮闘と悲劇の過程を一顧だにしないような人間が、一方で「建国基金」などというのでは、誰も信用しない。
はっきりいって陳水扁よ、あなたは、もう、死んだほうがよい。本当に台湾の将来を考えるのであれば、《二二八消失的台灣精英》を売り払った罪を恥じ、潔く割腹自殺することを勧めたい。
(もっともそれを恥じるような人間だったら、今頃こんなことになっていないとは思うが)