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ある日カッパ姉ちゃんとカメラおじさんの家に一匹の子犬がやってきた。
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懐かしい人への旅5

2011年05月22日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
    5
 中村公彦さんに関しては2001年に岩本憲児・
佐伯知紀篇の「映画美術に賭けた男」(草思社)と
いう本が出版され、中村公彦さんの生い立ちから映
画美術、晩年のインテリアデザイナーとしての仕事
まで詳しく記されている。
 大正5年3月5日に熊本市の新屋敷で生まれる。
細川藩の旧城跡の家で育つ。その家は「城下の人」
で知られる義和団事件、ロシア革命そしてシベリア
出兵に関係して軍事探偵として満州・シベリアを舞
台に活躍した石光真清の生家であった。その石光真
清も中村公彦の親戚に当たる。その石光の叔父にあ
たる野田ひろ通の孫が中村公彦であったという。
 娘の公美さんから聞くと中村さんの祖父の野田ひ
ろ通は、明治政府はじまりの頃の初代陸軍主計総監
で男爵だったという。若い頃は後藤新平や斎藤実、
紫五郎などを書生として住まわせて面倒を看ていた。
この野田ひろ通と熊本で15才で結婚した敏との間
にできた男の子の淳造の子供が公彦でのちに母方の
性を名乗って中村公彦となる。熊本時代は絵が上手
で県の公募に入選したりしたけれど、画業に向かわ
ず早稲田大学の商科へ進み、三菱重工へ就職します。
 いわゆる美術畑を歩いてエンターテイメントの世
界に入るという標準的なコースを行った人ではなく、
戦前に一度サラリーマン生活をした人だった。それ
が終戦直後の混乱時期に財閥解体の財団法人に勤め
て比較的安定した生活をしていたところへ住んでい
た西新宿のアパートの隣室の人にムーランのタップ
ダンサー室町三郎がいた。その人に遊びに来ない
と誘われ、新宿ムーランルージュの舞台を見たとき
に「きみ、絵がかけるの」と聞かれて「はい」と答
えたのがムーランルージュの美術ひいてエンターテ
イメントの世界へ入るきっかけになったという。
 本当に人の運命はわからないものでたまたま知り
合った人がムーランだったという接点がなければ中
村公彦さんは、堅い財界の世界を歩かれていたので
はないだろうか。
 つまりはこの偶然がなければムーラン名の中村夏
樹という人物は存在しないことになったのだから不
思議なものだ。
 ここでムーラン時代に行く前に中村さんの映画人
生について触れておこうと思う。
 偶然というものが運命のいたずらをすると言った
が映画界へ入るのも中村公彦さんはこの偶然が大き
な力を発揮する。これはもう運命と言った方がいい
のではないだろうか。
 昭和26年の夏、ムーランが五月に解散してやる
こともなくなった中村公彦さんは、新宿の喫茶店に
いた。そこへ東京新聞などの新聞記者が屯していた。
「あら、夏樹さん。中村さん。ムーランがなくなっ
てどうしているんですか。」
と声をかけてきたという。
「いや、やることなくぶらぶらしてます。」
この頃はもはや財閥解体事業団を辞めていたらしい。
「それだったら、松竹に紹介してみましょう」
とその新聞記者から松竹・城戸所長へ話が行って中村
公彦さんは映画会社・松竹に入社することになります。
そしていきなり小津安二郎監督の原節子主演「麦秋」
の美術助手に就きます。浜田美術監督の元で初めての
映画体験をするのです。だからこの「麦秋」での中村
さんのエピソードでは、原節子が飲む銀座で買ったと
いうコーヒーカップを実際に中村さんが銀座まで行っ
て買ってきたところ、それは本来小道具の仕事で気ま
ずい思いをしたという。映画の美術助手はエリートで
美術監督浜田辰雄のサポートをする役目。小道具や大
道具は又別の人がやる。しかし中村公彦さんがこの後
わずか一年で美術監督になり、木下恵介の「女性の勝
利」「女の園」「二十四の瞳」に就くことになるのだ
から、いかに優秀だったかが覗える。松竹首脳陣とし
てもムーランでの舞台美術の腕を高く評価しての抜擢
だったのだろう。だから古くからいた松竹の美術助手
たちは面白くなかったようでいろいろヤッカミがあっ
たらしい。

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