懐かしい人への旅 大隅 充
8
2010年の夏は、異常な暑さだった。日本列島が
毎日焼けるような熱風につつまれていた。一歩外へ
出るだけでも頭がクラクラした。七月。いつ梅雨が
明けたのかもわからないうちに連日真夏日がつづい
て、熱中症で家の中で亡くなる老人もいるくらいだ
った。ムーランの手がかりがない中、ただ下林さん
に教えられた戦前のムーランにいた元ムーラン女優・
大空千尋さんにとにかく逢えるという一つの望みだ
けを頼りに酷暑の中汗を拭きながらその電話で聞い
た住所の老人ホームへ向かった。
その老人ホームは、歴史があり病院などの設備が
しっかりした高級なところで、都心の環七より一歩
入った住宅街の木々に囲まれた巨大な森の中にあった。
その敷地には六階建ての鉄筋の居住施設が何棟も建
ち並び病院や事務棟が正面玄関にあった。その老人
ホームに足を踏み入れると都心にいて郊外の自然環
境のいい立地でいる錯覚をおこすほど緑に囲まれて
少しは涼しい気分を味わえた。
大空千尋さんは、この歴史のある老人ームの最上
階にいられた。別棟には利根はる枝が入居されてい
たという。戦後ムーランの演技派女優だった。
しかし惜しくも二年前にご病気で亡くなられていた。
わたしたちが、案内された食堂は、昼と夕方の間の
ちょうど休憩時間だった。日差しの強い庭に面した
テーブルに座った大空さんはほっそりとした顔立ち
の85才にはとても見えないきれいな老婦人だった。
かなりの大病を何度もされたといわれる大空さんは、
そんなことは微塵も感じさせない凛とした佇まいの
とても丁寧な言葉づかいご婦人だった。
私は、十四才でムーランに入りました。両親が反対
するのも聞かずに最初は、踊り子からスタートして
男の子の役ばかりをやらされました。初めの三カ月は、
山本浩久さんからみっちりクラシックバレーの基礎
を仕込まれました。みんな子供でなかなかできなく
私も苦労しました。
大空さんは、大正14年生まれでちょうど昭和の
年と重なる。14才でムーランに入ったということは、
昭和14年に入座したということになる。生まれたの
は、静岡県の三島だったという。
すぐに東京の大田区に移り住んで子供時代を過ごした。
わたしは、ムー哲もやりましたよ。
そう言われたがムーラン初心者の私としては、その
「ムー哲」なるものがなんなのかわからなかった。
わたしは、明日待子さんが喉を痛めて休んだときなど
にムー哲をやらされました。それはどういうものですか。
という私の問いに丁寧に説明してくれた。
ムーラン哲学講座の略。芝居やレビューの始まる前
に絞められた幕の前で大学博士の房のついた帽子と黒
マントを着て、一人でその日のニュースネタから五分
ぐらいのエスプリのきいた演説風漫談をやる。
それは、佐々木千里が昭和7年の7月から始めたもので、
新聞記事を読んで毎日その日のネタを佐々木自身が考
え書いてその時の看板役者にやらせていた。
どうも最初のムー哲は、有馬是馬がやったようでのち
に有島一郎も黒木憲三もやったし、昭和14年ぐらいの
中期になるとアイドルの明日待子が博士の黒マントで
やるとかえって可愛らしくて人気を博したようである。
その代役を大空さんもやったということは、結構若手と
しては目をかけられていたということになる。