カジュアル・アミーガ         本ブログの動画、写真及び文章の無断転載と使用を禁じます。

ある日カッパ姉ちゃんとカメラおじさんの家に一匹の子犬がやってきた。
日々のうつろいの発見と冒険を胸に生きていこう!

Cardごのみ494~お裁縫切手&ハッピー・ベイキング

2018年02月11日 | 投稿連載
上はお裁縫の時間をイメージして作った一枚。
可愛いキルトのパーツやボタンを切手シールの上に散りばめました♪
下はタイトル通り、楽しいお菓子作りの空間。
ネコさんが台所ではしゃいでいますね☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cardごのみ461~獣たち&シープドッグ

2017年06月25日 | 投稿連載
今日は動物のシールを使ったカード二枚です。
上は森に住む獣たちのシールを、
外国の切手で囲んでみました☆
下は古い廃版のシープドッグに、
パッチワーク柄のシールを合わせました♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極めて稀な症例ね。

2015年07月24日 | 投稿連載
カメラおじさん、脇がヒリヒリと
痛いんで、病院へ。

「ネットで調べたら、帯状疱疹かと・・」
「でも水泡が何もでてないわね・・」
「ネットで調べたら、早めに薬呑んだ方がいいと」
 ーーーーーーーーーーー
「痛いんですか・・」
「腕の裏も痛いっス」
「世界に稀に症状が出ずに痛みがある例があるけど」
「・・・・・・」
「わたし、迷うわ。」
「・・・・・・」
「お薬、高いですし・・・」
「高い?値段がー」
「どうしようかしら・・」
「・・・・・(冷房で寒いんですけど)」
「迷うわ・・・」
てなてなやり取り15分ー。
「薬だしてください。」
「やってみます・・?」
「・・・・はい」
「ところでネットで調べたっていうの、やめて貰えます?」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すてきな、た子ちゃん3-風邪ひいてるのに

2013年11月29日 | 投稿連載
た子ちゃん、風邪ひいて病院からの帰り。
野良ネコにエサをやっていたおじさんに
近所のお兄さんが怒って捕まえた。
「いつもエサやってる。おまえだな。」
おじさん、逃げようとして
「手を離せ」と噛みついた。

た子ちゃんに警察呼んでといわれ
警察くると今度は、事情徴収。
た子ちゃん、風邪ひいてるのに
寒い中えんえんと立たされた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すてきな、た子ちゃん2-夢の中の友だち

2013年11月01日 | 投稿連載
わたしも楽園へ行きたい!
写真のように。
夢の中でもいいからさ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すてきな、た子ちゃん

2013年10月04日 | 投稿連載
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅8

2011年08月20日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 大隅 充
     8

2010年の夏は、異常な暑さだった。日本列島が
毎日焼けるような熱風につつまれていた。一歩外へ
出るだけでも頭がクラクラした。七月。いつ梅雨が
明けたのかもわからないうちに連日真夏日がつづい
て、熱中症で家の中で亡くなる老人もいるくらいだ
った。ムーランの手がかりがない中、ただ下林さん
に教えられた戦前のムーランにいた元ムーラン女優・
大空千尋さんにとにかく逢えるという一つの望みだ
けを頼りに酷暑の中汗を拭きながらその電話で聞い
た住所の老人ホームへ向かった。
 その老人ホームは、歴史があり病院などの設備が
しっかりした高級なところで、都心の環七より一歩
入った住宅街の木々に囲まれた巨大な森の中にあった。
その敷地には六階建ての鉄筋の居住施設が何棟も建
ち並び病院や事務棟が正面玄関にあった。その老人
ホームに足を踏み入れると都心にいて郊外の自然環
境のいい立地でいる錯覚をおこすほど緑に囲まれて
少しは涼しい気分を味わえた。
 大空千尋さんは、この歴史のある老人ームの最上
階にいられた。別棟には利根はる枝が入居されてい
たという。戦後ムーランの演技派女優だった。
しかし惜しくも二年前にご病気で亡くなられていた。
 わたしたちが、案内された食堂は、昼と夕方の間の
ちょうど休憩時間だった。日差しの強い庭に面した
テーブルに座った大空さんはほっそりとした顔立ち
の85才にはとても見えないきれいな老婦人だった。
 かなりの大病を何度もされたといわれる大空さんは、
そんなことは微塵も感じさせない凛とした佇まいの
とても丁寧な言葉づかいご婦人だった。
私は、十四才でムーランに入りました。両親が反対
するのも聞かずに最初は、踊り子からスタートして
男の子の役ばかりをやらされました。初めの三カ月は、
山本浩久さんからみっちりクラシックバレーの基礎
を仕込まれました。みんな子供でなかなかできなく
私も苦労しました。
 大空さんは、大正14年生まれでちょうど昭和の
年と重なる。14才でムーランに入ったということは、
昭和14年に入座したということになる。生まれたの
は、静岡県の三島だったという。
すぐに東京の大田区に移り住んで子供時代を過ごした。
 わたしは、ムー哲もやりましたよ。
そう言われたがムーラン初心者の私としては、その
「ムー哲」なるものがなんなのかわからなかった。
 わたしは、明日待子さんが喉を痛めて休んだときなど
にムー哲をやらされました。それはどういうものですか。
という私の問いに丁寧に説明してくれた。
 ムーラン哲学講座の略。芝居やレビューの始まる前
に絞められた幕の前で大学博士の房のついた帽子と黒
マントを着て、一人でその日のニュースネタから五分
ぐらいのエスプリのきいた演説風漫談をやる。
それは、佐々木千里が昭和7年の7月から始めたもので、
新聞記事を読んで毎日その日のネタを佐々木自身が考
え書いてその時の看板役者にやらせていた。
どうも最初のムー哲は、有馬是馬がやったようでのち
に有島一郎も黒木憲三もやったし、昭和14年ぐらいの
中期になるとアイドルの明日待子が博士の黒マントで
やるとかえって可愛らしくて人気を博したようである。
その代役を大空さんもやったということは、結構若手と
しては目をかけられていたということになる。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅7

2011年06月12日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
      7
七夕の日に亡くなられた中村公彦さんは、膨大な
資料を残された。映画だけでなくムーランルージ
ュ新宿座の舞台装置の図版から写真など約40個
のダンボールが早稲田大学の演劇博物館に収めら
れた。
 日活時代の弟子である土屋伊豆夫氏の話だと映
画のセットを組んでいて徹夜で酒場のセットをつ
くって先生に朝見せると「後3センチ全体に上げ
よう」と一センチ二センチの単位に拘ったという。
 たとえば川島雄三の「州崎パラダイス」の橋の
袂の飲み屋でカウンターに新珠三千代が座ったと
き全体の背景とのバランスや肘をついてお酒を呑
む新珠の姿がきれいに見えるためのカウンターの
位置がきっと先生の目にはあったのではないだろ
うか。 
 その几帳面な性格がその資料の整理の仕方にも
現れていて、アルバムや図版のファイルは年代順
にきちんと整理されていた。喫茶店のマッチ箱の
デザインからチラシ、新聞広告まで収集していた。
 面白いことにそれが「新宿」と名の付くものな
ら何でも集められていた。戦前昭和10年から昭
和13年まで早稲田の学生だった中村公彦さんの
青春は、新宿にあった。ちょうど昭和初期の新宿
に花開いた喫茶店文化と重なって、今では考えら
れない新しい若い熱気が新しい街「新宿」あった
のではないだろうか。それまで浅草、銀座の繁華
街はカフェ文化だった。女給さんのいるカフェは、
高価で学生にはとても気軽に入る所ではなかった。
それがコーヒー一杯で何時間でも粘って学生がロ
シア文学やフランス映画の議論ができた。また若
い男女の語らいの場でもあった。つまり学生が多
かった新宿に「中村屋」「仏蘭西屋敷」などの喫
茶店のコーヒーの香りがカルチェラタンの雰囲気
を漂わせていた。
 この若くて新しい自由で明るい街・新宿で「ム
ーランルージュ新宿座」ができたのは、言って見
れば当然のことだったといえる。
 なぜ最晩年になって中村公彦さんが「ムーラン」
に拘って本を出そうと原稿を書いていたのかがこ
の新宿の喫茶店のマッチを見たときわかったよう
な気がした。
中村公彦さんにとってムーランルージュは青春だ
ったのではないだろうか。最後にはじまりだった
青春を語ろうと思われた。そしてなんとかそれを
残そうとしていたのであった。
 何かを残す人の人生の重さは、その仕事が大き
ければ大きいほど伝播力が大きい。それは家族だ
けにとどまらず幾多の後輩の手によって語り継が
れる。
 今回「ムーランルージュ新宿座」の旅を始めて
みるとそのことが自然と肌で感じるようになった。
それぞれのムーランの関係者に取材していくとそ
れはそのまま家族の物語でもあった。子供がいる
ところは、父母のことを残して語ろうとするし、
ないところはその弟子や養女が大切に思い出をと
っていたりした。あるいは私のように無関係であ
りながら研究や激しい興味で残そうとすることも
ある。
 それはその人の人生の重さが重いほど、閉じら
れたその人の青春という箱のカギを開けたときそ
の輝きは新鮮な驚きとなって宝の光を放っている。
 中村公彦さんの仕事は、岩本憲児さんらの立派
な本があるが、30代から日活を辞める50代ま
での間どれだけ忙しい生活を送ったか。黄金時代
の映画の現場は、徹夜や地方ロケの繰り返し。そ
れをこなしてきた中村先生の生活を垣間見るエピ
ソードをその家族の話から覗うことができる。
 それは娘の公美さんの葬儀のときにうかがった
中村公彦さんの父としての思い出であった。
 あるとき小学生の公美さんの誕生日に公彦さん
が割烹着を着て台所に立って娘のために手料理を
つくっていた。その恰好が当時流行っていた柳家
金語楼の「おトラさん」という人気キャラクター
のおばさんの恰好を真似て包丁を握っていた。娘
からしたら、今日はお父さんがいて自分のために
誕生日を面白い恰好して祝ってくれると期待でい
っぱいだった。しかし今村昌平たちの電話で付き
合いマージャンに行ってしまう。そのときの光景
が葬儀の日父の思い出として甦ったという。偉大
な父親をもつ家族の物語を示唆するほろ苦い心に
残るエピソードである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅6

2011年05月29日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
      6

この松竹にいた三年半の間に中村さんの関わった木下作品以外の
美術監督作品には川島雄三監督の「相惚れトコトン同志」「学生
社長」、小林正樹監督「息子の青春」、野村芳太郎監督「次男坊」
「きんぴら先生とお嬢さん」(大阪志郎・高橋貞二)などがある。
俳優では大阪志郎さんと知己を得て生涯付き合いがあったと娘さ
んの公美さんは言っておられた。
 そして昭和29年に新生日活へ移籍する直前にやったのが木下
恵介「二十四の瞳」で中村公彦さんがロケマッチという手法の名
手だったことをこの作品で見てとれる。
 映画ファンなら誰もが知っているこの映画は数々の映画賞を総
なめした。監督、撮影、脚本、主演・・ただ美術だけがとれなか
った。
それは今でもこの映画を観た人が勘違いしているのだが、全部小
豆島に行って撮ってきたものと思っているフシがある。教室にし
ても高峰秀子の家にしても大船のセットである。しかしロケ先の
瀬戸内海の美しい風景とマッチしたセットを組んだ中村美術があ
の子供達の純真な笑顔や涙を引き立たせたのだった。
その技術が巧すぎて、評論家でさえ映画美術の姿を読みきれなか
った。
 映画賞の発表のとき木下恵介監督が中村さんにそのことを言っ
て「それだけあなたの美術がすぐれていたということですよ。あ
まりにも自然なセットだったから・・」
と慰められたというエピソードがある。
 この中村美術の天才的なロケマッチ手法はその後日活に移って
から今村昌平作品で花開くことになる。
 「にっぽん昆虫記」は、映画の美術の考え方をまるっきりひっ
くり返したと言っていい今村昌平監督作品である。撮影所で作ら
れていた映画産業は、必ずセットやロケセットでその背景となる
舞台を描いてきた。ところがこの「にっぽん昆虫記」は、東北の
寒村の農家を一軒借り切って撮影された。そして徹底してその実
際の農家の中で撮影された。普通農家の居間のシーンだとセット
が組まれ俯瞰で撮影するときは、天井のないスタジオセットの上
にクレーンにカメラを乗せて撮影する。しかしこの作品では、
実際の農家の天井にカメラを仕込むし、壁に穴を開けて引き画を
撮ったりした。つまりこれは、ロケマッチの極致と言っていいも
のになった。ほとんどドキュメントに近い作法である。映画のウ
ソから自由になりたいと願った今村監督と中村美術が合体した瞬
間だった。
 それはちょうど時代がハリウッド的な絵空事に満足できなくな
っていた時期でもあった。その下地は、ロッセリーニに代表され
るイタリアのネオリアリズモの影響があり、その後のフランスの
街にカメラを持ち出して即興で演出するヌーベルバーグの流れと
呼応する映画史的な動きと同期しているものでもあった。
 余談だがこの後今村昌平は、実際にドキュメント映画へ傾倒し
て行って創作をしばらくやめてしまう。中村さんは、今村のいな
くなった日活で逆に井上梅次監督作品でセット美術の舞台的な展
開へと再び戻って行く。
 さてここで話をムーランルージュへ戻して中村夏樹の誕生から
進めていこう。
 中村公彦さんが戦後ムーランの前身「劇団小議会」に参加する
のが昭和21年の10月からで芝居「女性研究第一話」とバラエ
ティ「街の小議会」で最初に「中村夏樹」のペンネームが載るこ
とになりました。この劇団「小議会」は、ムーラン研究者では正
確に年代区分をされるので戦後第二次ムーランという人もいるし
、この前に五月から七月にかけてムーランの作家中江良夫と焼け
跡で浪曲をやっていた鈴木勝親分とがはじめた劇団「赤い風車」
というものがあるので第三次という人もいる。
 ただこの「小議会」は御殿場で戦後第一回衆議院選挙で落選し
ていたムーランの創設者佐々木千里を再び、中江良夫が呼んでき
て本格的に始めた興行だった。だからトップスターの明日待子、
小柳ナナ子などが表紙を飾り新生にっぽんの新宿でムーランの芝
居とバラエティを繰り広げたが三ヶ月しかつづかなかった。客足
がどんどん減っていった。
 佐々木千里の意図は、敗戦で焼け野原になった日本、東京では
時代に沿わなかった。今日食べるものがなく、戦地から帰ってき
た復員兵は、家族が空襲でいなかったり、逆に夫を戦争で失い子
供を女手ひとりで育てなければならなかったりした。戦災孤児が
溢れ、パンパンと呼ばれる街娼が辻辻に立ち、新宿周辺でもやく
ざと三国人との抗争がはげしく死体が路地裏に転がっていたりし
た。そんな混乱した世相で佐々木千里の戦前のユーモアとエロス
は、物足りないものだったのではないだろうか。もはや佐々木千
里の時代ではなかった。時代はもっと即物的な欲望の大きな渦に
飲み込まれていた。だから中江良夫もどこか違うと感じていた。
ムーランルージュは新しいこの敗戦の混乱に対応しなければなら
ない。また佐々木千里の敗北は新しいムーランの始まりでもあっ
た。
 戦後ムーランの始動は、さらに三ヶ月の準備期間を待って昭和
22年の4月8日からの劇団「ムーランルージュ新宿座」からと
なる。今度は、三崎千恵子と夫の宮坂将嘉が座長になり、台湾の
華僑である林以文が資本を提供することで安定的に興行すること
ができた。
 中村公彦さんの美術も低予算の中で演目の主題をクローズアッ
プして大胆にデホルメしたデザインのセットとなった。このデホ
ルメと「生活の河」や「にしん場」に見られる実写的なリアルな
セットも又別にありそれらを見事に両輪の翼として成立させていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅5

2011年05月22日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
    5
 中村公彦さんに関しては2001年に岩本憲児・
佐伯知紀篇の「映画美術に賭けた男」(草思社)と
いう本が出版され、中村公彦さんの生い立ちから映
画美術、晩年のインテリアデザイナーとしての仕事
まで詳しく記されている。
 大正5年3月5日に熊本市の新屋敷で生まれる。
細川藩の旧城跡の家で育つ。その家は「城下の人」
で知られる義和団事件、ロシア革命そしてシベリア
出兵に関係して軍事探偵として満州・シベリアを舞
台に活躍した石光真清の生家であった。その石光真
清も中村公彦の親戚に当たる。その石光の叔父にあ
たる野田ひろ通の孫が中村公彦であったという。
 娘の公美さんから聞くと中村さんの祖父の野田ひ
ろ通は、明治政府はじまりの頃の初代陸軍主計総監
で男爵だったという。若い頃は後藤新平や斎藤実、
紫五郎などを書生として住まわせて面倒を看ていた。
この野田ひろ通と熊本で15才で結婚した敏との間
にできた男の子の淳造の子供が公彦でのちに母方の
性を名乗って中村公彦となる。熊本時代は絵が上手
で県の公募に入選したりしたけれど、画業に向かわ
ず早稲田大学の商科へ進み、三菱重工へ就職します。
 いわゆる美術畑を歩いてエンターテイメントの世
界に入るという標準的なコースを行った人ではなく、
戦前に一度サラリーマン生活をした人だった。それ
が終戦直後の混乱時期に財閥解体の財団法人に勤め
て比較的安定した生活をしていたところへ住んでい
た西新宿のアパートの隣室の人にムーランのタップ
ダンサー室町三郎がいた。その人に遊びに来ない
と誘われ、新宿ムーランルージュの舞台を見たとき
に「きみ、絵がかけるの」と聞かれて「はい」と答
えたのがムーランルージュの美術ひいてエンターテ
イメントの世界へ入るきっかけになったという。
 本当に人の運命はわからないものでたまたま知り
合った人がムーランだったという接点がなければ中
村公彦さんは、堅い財界の世界を歩かれていたので
はないだろうか。
 つまりはこの偶然がなければムーラン名の中村夏
樹という人物は存在しないことになったのだから不
思議なものだ。
 ここでムーラン時代に行く前に中村さんの映画人
生について触れておこうと思う。
 偶然というものが運命のいたずらをすると言った
が映画界へ入るのも中村公彦さんはこの偶然が大き
な力を発揮する。これはもう運命と言った方がいい
のではないだろうか。
 昭和26年の夏、ムーランが五月に解散してやる
こともなくなった中村公彦さんは、新宿の喫茶店に
いた。そこへ東京新聞などの新聞記者が屯していた。
「あら、夏樹さん。中村さん。ムーランがなくなっ
てどうしているんですか。」
と声をかけてきたという。
「いや、やることなくぶらぶらしてます。」
この頃はもはや財閥解体事業団を辞めていたらしい。
「それだったら、松竹に紹介してみましょう」
とその新聞記者から松竹・城戸所長へ話が行って中村
公彦さんは映画会社・松竹に入社することになります。
そしていきなり小津安二郎監督の原節子主演「麦秋」
の美術助手に就きます。浜田美術監督の元で初めての
映画体験をするのです。だからこの「麦秋」での中村
さんのエピソードでは、原節子が飲む銀座で買ったと
いうコーヒーカップを実際に中村さんが銀座まで行っ
て買ってきたところ、それは本来小道具の仕事で気ま
ずい思いをしたという。映画の美術助手はエリートで
美術監督浜田辰雄のサポートをする役目。小道具や大
道具は又別の人がやる。しかし中村公彦さんがこの後
わずか一年で美術監督になり、木下恵介の「女性の勝
利」「女の園」「二十四の瞳」に就くことになるのだ
から、いかに優秀だったかが覗える。松竹首脳陣とし
てもムーランでの舞台美術の腕を高く評価しての抜擢
だったのだろう。だから古くからいた松竹の美術助手
たちは面白くなかったようでいろいろヤッカミがあっ
たらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅4

2011年05月15日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
       4
中村公彦さんは、救世軍病院で七夕の日に94才
で亡くなられた。
半月ほどの闘病の末ドイツから帰って来られた長
女のくみさんや長男の公治さんの家族・親類。そ
れから映画美術の弟子達など数々の知人たちの見
舞いを受け簡単な会話を交わすことができ、最後
は肺炎が引き金になって老衰による長寿を全うさ
れた。
 私は、三輪画伯や土屋さんと入院されて早い時
期にお見舞いに行き、「ムーランの映画をつくり
ます」と挨拶して手を握ってもらった。先生は、
枯れた声で「ああ」と言って細くなった瞼の中の
瞳にはっきりとした光を放って頷かれた。先生の
手は大きくてしっとりとしていて思いの外、力強
がった。
「ムーランを頼むよ」と言われたように感じた。
まさかこの瞬間がその後の長いムーランルージュ
新宿座への旅立ちの第一歩になるとは夢にも思わ
なかった。先生が倒れてからムーランの取材と企
画はもう無理だと回りからも囁かれていたし、ど
のプロダクションもプロデューサーもそんなもう
誰も知らないモノをやったってショウバイになら
ないし、個人的につくっても誰が見るの?と言う
声が圧倒的だった。そんな中私は、正直なことを
言えばほっとした部分があった。これでムーラン
の記録映画製作がやめられる。自分としては、自
主制作するとしても資金があるわけでもないし、
ムーランと言っても中村先生以外に伝手もなく、
どういう風に取材をしていけばいいのか皆目見当
もつかなかったので、その肝心の先生の取材がで
きないということはこの企画がそもそもみんなの
言うように無謀なものでこの先の途方もない苦労
を考えるとできなくてよかったと安心する気持ち
があったのは、事実である。
 ところが病室のベットで先生と手を握った時何
かが変ったような気がした。そのときは全くそれ
が何かはわからなかったけど、今思ってみるとそ
れは、先生のムーランに対する意思だったように
思う。
 本当にこんなことってあるんだなとびっくりす
る。それもこの後不思議なことが次々と起こって
くるのだからあの先生のムーランに対する情熱と
思いのこもった握手が最初のはじまりだったのだ
とつくづく思う。人の一生とその生き抜いてきた
その人間の意思というものがどれだけ大きな力を
もっているのかがまさしく実感させられた。人っ
て強い思いがあればそれはその人の死後も受け継
がれるのだ。それが偉大な人であればなおさらそ
の伝播力は強いのかもしれない。
 あの病室の見舞いのとき先生の看病に来ていた
中村先生の亡くなった奥さんの妹さんの下林智子
さんが「ムーランの戦前の踊り子さんがわたしの
知り合いでまだいますよ。」
と教えてくれた。
「戦前のムーランを知っている人」がいる。こち
らは、藁をもつかむ気持ちで「是非紹介してくだ
さい」とその場で連絡先を聞いた。
それが大空千尋さんという戦前数年いて戦争と終
戦で一時途絶えて戦後また復帰して女優として活
躍した人だった。この出会いが不思議のはじまり
の第二歩だった。
 そして中村公彦さんの葬儀は、7月8日。調布
メモリアルホールで行われて多くの映画関係者や
故人をしのぶ人たちが集まった。
 花輪で目立ったのが「二十四の瞳小豆島」とい
う木下恵介監督の名作の地元のものと急遽朝届い
た「吉永小百合」という献花だった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅3

2011年05月08日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
     3
 黒澤明監督の名作「生きる」という映画をいま
見返して、この死期を悟った市役所の役人がどう
生きたかという地味な内容であるにもかかわらず、
映画の中身は、ミュージカル映画としての貌をも
っているということを発見することができる。
 末期の胃がんを知った志村喬が小説家の伊藤雄
之助とパーッと生の享楽を味おうとキャバレーや
ストリップ劇場を渡り歩く。そして役所を辞めた
若い女とカフェや映画館をめぐる。ここで流れる
音楽。ジルバからジャズ、アメリカンポップ、大
正歌謡、クラシック・・何でもありでそれぞれが
その主人公の心のアリ様に刺激を与えて休むこと
がない。
ぐいぐいと物語の核心へ引きずり込まれる。
 この大事なシークェンスでキャバレーのピアノ
弾きがブーちゃんこと市村俊幸だ。そして後半の
葬式の場面で役所の同僚が左ト全、藤原鎌足。私
は、大好きなこの映画のこの三人の俳優がムーラ
ンルージュ新宿座の出身だったと知ったのは、最
近のことだった。他にも「用心棒」の岡引の沢村
い紀雄や「酔いどれ天使」の千石規子などもムー
ラン出身で黒澤映画の常連である。調べると黒澤
明は、戦前のムーランに助監督時代から通ってい
たという。「野良犬」では、戦後のムーランの楽
屋まで行き、淡路惠子に決まる以前にムーランの
踊り子を使いたかったという。
 また黒澤と同じくムーランに通った映画監督が
川島雄三で「幕末太陽傳」では、ラストで市村俊
幸が出てくる。この映画も私の生涯ベストテンに
入る映画である。
 実は、この「幕末太陽傳」の美術監督をしたの
が中村公彦さんであった。日活時代の川島雄三や
今村昌平、浦山桐郎のほとんどの作品を手がけて
「ロケマッチ」の名手といわれた日本映画美術屈
指のデザイナーだった。その中村公彦さんの美術
監督になるきっかけが戦後ムーランルージュ新宿
座だった。晩年特にそのムーラン時代の青春を講
演や著述で語っていた中村さんに会えるという機
会にめぐり遭った。中村公彦さんの弟子に当た
る元にっかつ撮影所所長の土屋伊豆夫氏や画家の
三輪敏雄氏から先生に一度「ムーラン」のことを
聞いたらという提案に単なるムーランって何んだ
ったのだろうという好奇心で中村先生とアポイン
トをとることになった。
 平成22年(2010)6月16日。中村公彦
さんは、94才になっていた。
 西武線の新井薬師駅から歩いて10分の哲学堂
公園の入り口の高層住宅に中村先生は、数年前に
奥さんを亡くされて独り暮らしをしていた。
 記録用に撮影をすることの許可を得て三輪さん
の案内で先生の家の呼び鈴を何回押しても誰もで
ない。一日待っても応答もなく行方がわからない。
三輪さんの話だと二日前に電話連絡したときは元
気で今日ムーランのことを聞きに来る私たちのこ
とを楽しみにしていたという。結局数日経っても
行方がわからず週何回か入っているヘルパー会社
や区役所に連絡しても個人情報なので教えられな
いの一点張り。先生の娘さんの公美さんはドイツ
にいて、これまた連絡がとれない。
 すっかり弱りかけた五日後中村先生が救急車で
病院に運ばれ入院をしていたということがわかっ
た。それはやっと連絡のとれたドイツの娘さんか
ら三輪さんへ連絡が入り、父は危篤だということ
だった。
 「ムーランルージュ」どころか先生の話も聞け
ないハメになってしまった。「ムーランルージュ
新宿座」を記録映画として残すか、劇映画として
創作するための下調査をするにしてもその肝心の
生き証人の中村公彦さんが危篤になっていきなり
大きな岩礁にぶつかり座礁してしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅2

2011年05月01日 | 投稿連載
石立ドラマ 「雑居時代」 十一と夏代の恋のやりとり その1 (12話より)



懐かしい人への旅 作者大隅 充
     2
はじめて会う人なのに懐かしいと感じることがある。
それこそデジャブーのように。それが私にとってム
ーランというものがそうだったかもしれない。
 まず最初に図書館で偶然目にとまったのが窪田篤
人著「新宿ムーランルージュ」(六興出版)という
本だった。この本が出版されたのが1989年。窪田
篤人と言えば石立鉄男主演のテレビドラマ「雑居時
代」などで名前は知っていた。当時若手脚本家だと
思っていたが「七人の孫」や「だいこんの花」の脚
本家だと知ると随分若い時から活躍していたんだな
と思う。テレビドラマ「七人の孫」というと向田邦
子が有名だが彼女は後半の何本かしか書いていない。
むしろ窪田さんの方が精力的に書いていた。さらに
「だいこんの花」は主演が森繁久弥だから戦後ムー
ランの出身者がタッグを組んだことになる。
 だから「新宿ムーランルージュ」という本では窪
田さんが昭和23年にムーランに入ってから森繁や
由利徹、市村俊幸などとの交流を通して自分の青春
時代を小説風に描いていた。なぜかこれが私の心の
底に残った。
そして2000年に新宿の画廊絵夢にて「中村公彦ム
ーランルージュ展」が開催された。私は、この舞台
美術の原画や写真、資料を展示した展覧会にその関
係者の日活美術監督で撮影所長までやった土屋伊豆
夫氏の誘いで出かけて行った。ムーランルージュ新
宿座の存在がここで膨らんだがまだ独自に取材しよ
うなんて思ってもいなかった。土屋氏からは、会う
度にその後なんとかムーランの記録を映像に残せな
いかともちかけられたが、テレビ局も映画製作会社
も乗る気のところが現れず、ムーランの関係者はど
んどんいなくなって、十年が経った。あの新宿で
「ムーラン展」を開いた戦後のムーランの舞台美術
からスタートして日本映画の「二十四の瞳」や「幕
末太陽伝」の美術監督になった中村公彦さんも94
才になられた。
 時間はどんどん経っていき、これが最後のチャン
スだから中村公彦さんに話だけでも聞いておこうと
家庭用ビデオカメラをもって自宅に逢いに行ったの
が2010年の夏だった。
 よく考えてみれば窪田篤人さんと中村公彦さんと
いうこの二つのムーランルージュ新宿座についての
出会いがなければムーランにかかわることはなかっ
たのだ。しかも映画関係の知り合いが中村公彦さん
の弟子たちだったので行き先もわからない単線を走
る「新宿ムーランルージュ」という名の列車にひょ
いと乗ってしまったというか、乗せられたというか、
気がついたら走っていた。
 80年も昔の忘れ去られかけた、小さな劇場の物
語がどんなものなのかも見当もつかないまま・・・
ただ流れて行く車窓の景色に好きだった俳優の有島
一郎や左ト全、沢村い紀雄、武智豊子、若水八重子、
楠トシエ、由利徹らの顔が浮かんでは消えて行く。
 ムーランという特別の車両があってそこには喜劇
人のたまごを羽化する大きな揺りかごが設えられて
いるように思えてくる。
 とにかくムーラン行きの列車は走り出した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい人への旅

2011年04月22日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
     1 まえがきにかえて
 飛行機が雨の羽田を離陸してすぐに寝不足が祟って
富士山を窓越しに眺めながら私は眠ってしまったら、
次に起きた時はもう九州を離れて沖縄へ近づいていた。
元々滅多に夢なんか見ない性質だったのに最近訳のわ
からない夢にうなされることが何回かある。
 ちょうどこの日も芝居小屋の奈落で廻り舞台を裸で
押している夢を見ていた。一人で回転棒を廻してもな
かなか動かず汗と筵の地面を踏ん張る足の剥がれた爪
から出る血が飛び散る。腿の筋肉と両腕の筋肉が弾け
てバラバラになったところで目が覚めた。
夢でよかった・・・
 眼をこすりながら飛行機の窓を見ると、不思議な光
景が広がっていた。又夢かと思ったがこちらは、現実
だった。
 それは、巨大な雲の神殿だった。高さが100メー
トルから1キロにおよぶ神殿の柱が幾つも幾つも直立
で立っている。飛行機はその巨大な柱と柱の間を縫っ
て飛んでいる。何回も飛行機には乗ったがこんな光景
を見るのは、初めてだった。
 青空もなく白い綿の神殿の中は、奇妙なくらいに明
るい。普通空が見えない分鬱蒼とした暗さがある筈が
ちょうど庭に干されたシーツの中に潜ったような明る
さだった。私は、しばらく眼をこすってその神々しい
拝殿の間を機体がくぐって行くのを眺めていた。
 すると一羽のスズメが神殿の絨毯から突き出て来て
私の目の前を飛んで来た。そして左右に羽根を揺らし
ながらそのスズメは、口から黒い煙を吐いて螺旋を描
き出した。
 スズメではなかった。それは、ゼロ式戦闘機だった。
操縦席には白い顔をした童顔の青年が操縦桿を握りし
めて、機体に異常を来したのか、必死に機体を立て戻
そうとしていたが黒煙のマントに絡まれたゼロ戦はど
んどん錐揉み状に雲の床を再び突き抜けて見えない東
シナ海へ落ちて行った。
 私は、あの白い顔の戦闘機乗りは、帝大の秀才とい
われた脚本家の窪田篤人の幼馴染だと直感した。「パ
パと呼ばないで」「水もれ甲介」などのテレビドラマ
を書いた窪田さんは、晩年熱海で一人暮らしをしてい
た時ひとりの男のことが気になっていた。それは、小
学生の時の同級生で優等生だった無骨な男だった。あ
まり親密な付き合いをしていなかったが窪田が上京し
て銀座を歩いていた時に偶然その同級生に高級な宝石
店で見かけて声をかけた。1944年。春。まだ戦争の激
しい最中のことだった。
「おーい。○○君じゃないか。」
「ああ。窪田か・・・・」
とそのニキビ面の同級生は、恥ずかしそう挨拶した。
「いや、ちょっとな・・・」
それ以上言わない同級生に「そうか」と気を利かして
別れた。誰か女にネックレスをプレゼントするために
店を物色していたのは、明らかだった。
あの優等生で女なんか全く縁遠い無骨な男が女にプレ
ゼントを買っていた。それっきり窪田は、その男とは
逢うことはなかった。窪田自身は、昭和20年に終戦を
迎え新宿ムーランルージュの文芸部からテレビの放送
作家になり、青春ものからホームドラマまでこなす売
れっ子脚本家になった。そして21世紀目前の1998年
69才で病気で亡くなった。その死のほんの間際になっ
てなぜかあの銀座でブレスレットを買っていたカタブ
ツの同級生のことが気になって九州のその男の実家ま
で訪ねて行った。
 その九州の実家には、彼の弟さん家族がいた。そし
て兄は戦死しました。とその弟さんから聞いた。
「兄は、沖縄へ特攻に行くために鹿児島で訓練してい
ました。その訓練中にエンジンのトラブルで東シナ海
で墜落死しました。」
そうか。やっぱりか。あの戦前の銀座での遭遇以来逢
えなかったのはそういうことか。窪田は、晩年になっ
て引っ掛かっていたものがはっきりとしたと同時にあ
の時あいつが渡そうとしていたブレスレットはどうな
ったのか。無性に知りたくなった。
「お兄さんには恋人がいたんじゃないですか。」
そして銀座の宝石店の話をすると、弟さんの後ろにい
た弟さんの奥さんが泣きだした。
「そのブレスレットは、私が貰いました。今でも大事
にとっています。」 
 それ以上何も言えず窪田は熱海へ帰って行った。そ
してその豪華な海の眺めが自慢だった家でひとりで死
んだ。
 今見ている雲の神殿をあの窪田の同級生は私と同じ
ように見たのではないか。そう思うとこのムーランル
ージュ新宿座の生き残りを探す私の旅が貴重で尊いも
のに思えてくる。新宿にあったひとつの芝居小屋がど
れだけの人に夢と笑いを与えつづけてきたか。私は、
語らなければならないように思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森の王者

2011年03月04日 | 投稿連載
さすらいの最終章

大隅 充さんの「さすらい」が終了しました。
一年間ありがとうございました。
一週置いて、新しい連載が始まります。
 古海めぐみさんの前にエッセー風のものが短期で入ります。
よろしくご拝読ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする