若葉のころ 作者大隅 充
14
次の日雨は真っ直ぐ槍のように天から落ちてきた。
朝出勤するのに猿越峠を抜ける辺りからその勢いが
烈しくなってマリエントに辿り着くまで忙しなくワ
イパーを動かして、安全走行に徹してハンドルを握
る手に力が入る。
当然生暖かい春の雨は、水産科学館の入場者にも
影響を与えた。午前からほとんど観覧者がなく、ラ
ンチも近くに港湾工事に来た実測技術者とマリエン
トの施設点検業者の十人足らずしか注文がない。し
かも工事人たちは、午後から春雨が冷たい豪雨に変
わって仕事ができず延々とビールを飲んだり、コー
ヒーを追加注文して2時過ぎまで窓側の席に居座っ
ていたが三時には誰もいなくなった。
私は、ホールでナプキンや楊枝立ての各テーブル
の補充を済ませ、明日以降の献立つくりをしている
栄養士の佐伯さんの手伝いで事務所に行ってパソコ
ンで野菜の在庫数のプリントアウトをしたりして、
暇な時間をつぶす。
午後3時半を廻って事務室のテレビ画面を地デジ
のデータ放送に切り替えた佐伯さんは、まだ短大を
出たばかりで濃い目の化粧が若すぎる肌に不釣合い
で、そのピエロのようなぽっちゃり顔の眉間にシワ
をよせて天気予報を凝視している。
「やっぱり支配人に言って早く帰らしてもらった方
がいいなあ。台風並みの高気圧が直撃してるもの。」
「春の嵐・・・」
と私はパソコンから顔をあげて尋ねる。
「ううん。すみれさん。そんな生易しいもんじゃな
くハリケーン並みだって。八戸のフェリーも苫小牧
の太平洋航路もみんな出航停止みたい。」
佐伯さんは、料理番組を地方局のニュースへチャン
ネルを替えて心配そうに言う。
「ほら、陸奥湾が映ってる」
テレビは、港に大波が飛沫を上げているところを映
し出してリポーターのアナウンサーがカッパを着た
まま太い雨粒に打たれながら接岸された漁船が出漁
取りやめになりましたと報告している。
「本当だ。私の実家の近く。」
そう私は言ってみたものの、今テレビに映し出され
ている漁港には行ったことがない。
「今度は三沢よ。すごい風ーー」
佐伯さんがそう言ったとき支配人がメガネを拭きな
がら入って来た。
「ちょっと大変な暴風雨らしいね。すみれさん。お
まけに地震があったの知ってる。」
「ええ。どこで。」
「メキシコー」
佐伯さんが立ち上がってテレビのテロップを指差した。
「本当だ。速報が出てる。メキシコ東部海岸で大き
な地震があり、津波に警戒してください・・」
テロップを読んでいる佐伯さんの横を通って私は窓
辺に行く。
外の棕櫚の並木が雨風にメラメラと乱れて揺れて
いる。駐車場を出て行く車が水しぶきをたてて坂道
へ下りていく。
「津波、厳重警戒になった・・・メキシコはマグニ
チュード7だって。」
幼い慄きに満ちた佐伯さんは、支配人の顔を見つめ
たまま椅子にドスンと座る。
「もうレストランどころか、一階の入場受付にもお
客さんがいなくなって、しーんとして葬儀場みたい
だったさ。さっき下に行ったら。」
支配人は、自分の席に座ってホワイトボードを出し
てマジックで本日の営業は終了しましたと活字のよ
うなはっきりとした字で書くと大きな溜息をつく。
「すみれさん。これ、レジ前の入口にかけてくださ
い。早終いしよう。」
「はい。」と私はホワイトボードを受け取って事務
室の入口へ向かう。
リリリリリリン。
佐伯さんの前の電話がなる。
「はい。マリエントです。・・・ああ。はい。ちょ
っと待ってくださいね。」
と佐伯さんは受話器を私の方へ向ける。
「お嬢さんからー」
「すいません・・」と電話を受け取って「ハルカ?」
『ママ。さっきパパから電話あって十和田で大雨で
足止めされて今日は帰れないって』
「そう。わかった。うん。十和田の旅館に泊まるの
ね。はい。ありがとう。私ももうじき帰るから・・
はい。よろしくね」
受話器を置くと支配人が「もうみんな帰る支度を
しなさい」と促して立ち上がる。
「はい。じゃ、コックさんたちに伝えてきます」と
佐伯さんは出て行く。
「私は、本事務所へ行ってくるから、戸締りして先
に退社しててね。」
と佐伯さんにつづいて部屋を後にする。
私はロッカーで私服のコートを取り出して袖を通
すとテレビのスウィッチを切る。
窓ガラスを水がガタガタガタと叩く音が不規則に
響いている。私は窓ガラスの曇りを手のひらで拭い
て大嵐に見とれる。駐車場も岬の高原もマリエント
の玄関もどれもこれも水飛沫で霞んで見える。この
水墨画のようにぼやけて烈しく吹き荒れる水の風景
をどこかマゾヒスティックに受け入れている自分の
心を発見してハッとなる。
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次の日雨は真っ直ぐ槍のように天から落ちてきた。
朝出勤するのに猿越峠を抜ける辺りからその勢いが
烈しくなってマリエントに辿り着くまで忙しなくワ
イパーを動かして、安全走行に徹してハンドルを握
る手に力が入る。
当然生暖かい春の雨は、水産科学館の入場者にも
影響を与えた。午前からほとんど観覧者がなく、ラ
ンチも近くに港湾工事に来た実測技術者とマリエン
トの施設点検業者の十人足らずしか注文がない。し
かも工事人たちは、午後から春雨が冷たい豪雨に変
わって仕事ができず延々とビールを飲んだり、コー
ヒーを追加注文して2時過ぎまで窓側の席に居座っ
ていたが三時には誰もいなくなった。
私は、ホールでナプキンや楊枝立ての各テーブル
の補充を済ませ、明日以降の献立つくりをしている
栄養士の佐伯さんの手伝いで事務所に行ってパソコ
ンで野菜の在庫数のプリントアウトをしたりして、
暇な時間をつぶす。
午後3時半を廻って事務室のテレビ画面を地デジ
のデータ放送に切り替えた佐伯さんは、まだ短大を
出たばかりで濃い目の化粧が若すぎる肌に不釣合い
で、そのピエロのようなぽっちゃり顔の眉間にシワ
をよせて天気予報を凝視している。
「やっぱり支配人に言って早く帰らしてもらった方
がいいなあ。台風並みの高気圧が直撃してるもの。」
「春の嵐・・・」
と私はパソコンから顔をあげて尋ねる。
「ううん。すみれさん。そんな生易しいもんじゃな
くハリケーン並みだって。八戸のフェリーも苫小牧
の太平洋航路もみんな出航停止みたい。」
佐伯さんは、料理番組を地方局のニュースへチャン
ネルを替えて心配そうに言う。
「ほら、陸奥湾が映ってる」
テレビは、港に大波が飛沫を上げているところを映
し出してリポーターのアナウンサーがカッパを着た
まま太い雨粒に打たれながら接岸された漁船が出漁
取りやめになりましたと報告している。
「本当だ。私の実家の近く。」
そう私は言ってみたものの、今テレビに映し出され
ている漁港には行ったことがない。
「今度は三沢よ。すごい風ーー」
佐伯さんがそう言ったとき支配人がメガネを拭きな
がら入って来た。
「ちょっと大変な暴風雨らしいね。すみれさん。お
まけに地震があったの知ってる。」
「ええ。どこで。」
「メキシコー」
佐伯さんが立ち上がってテレビのテロップを指差した。
「本当だ。速報が出てる。メキシコ東部海岸で大き
な地震があり、津波に警戒してください・・」
テロップを読んでいる佐伯さんの横を通って私は窓
辺に行く。
外の棕櫚の並木が雨風にメラメラと乱れて揺れて
いる。駐車場を出て行く車が水しぶきをたてて坂道
へ下りていく。
「津波、厳重警戒になった・・・メキシコはマグニ
チュード7だって。」
幼い慄きに満ちた佐伯さんは、支配人の顔を見つめ
たまま椅子にドスンと座る。
「もうレストランどころか、一階の入場受付にもお
客さんがいなくなって、しーんとして葬儀場みたい
だったさ。さっき下に行ったら。」
支配人は、自分の席に座ってホワイトボードを出し
てマジックで本日の営業は終了しましたと活字のよ
うなはっきりとした字で書くと大きな溜息をつく。
「すみれさん。これ、レジ前の入口にかけてくださ
い。早終いしよう。」
「はい。」と私はホワイトボードを受け取って事務
室の入口へ向かう。
リリリリリリン。
佐伯さんの前の電話がなる。
「はい。マリエントです。・・・ああ。はい。ちょ
っと待ってくださいね。」
と佐伯さんは受話器を私の方へ向ける。
「お嬢さんからー」
「すいません・・」と電話を受け取って「ハルカ?」
『ママ。さっきパパから電話あって十和田で大雨で
足止めされて今日は帰れないって』
「そう。わかった。うん。十和田の旅館に泊まるの
ね。はい。ありがとう。私ももうじき帰るから・・
はい。よろしくね」
受話器を置くと支配人が「もうみんな帰る支度を
しなさい」と促して立ち上がる。
「はい。じゃ、コックさんたちに伝えてきます」と
佐伯さんは出て行く。
「私は、本事務所へ行ってくるから、戸締りして先
に退社しててね。」
と佐伯さんにつづいて部屋を後にする。
私はロッカーで私服のコートを取り出して袖を通
すとテレビのスウィッチを切る。
窓ガラスを水がガタガタガタと叩く音が不規則に
響いている。私は窓ガラスの曇りを手のひらで拭い
て大嵐に見とれる。駐車場も岬の高原もマリエント
の玄関もどれもこれも水飛沫で霞んで見える。この
水墨画のようにぼやけて烈しく吹き荒れる水の風景
をどこかマゾヒスティックに受け入れている自分の
心を発見してハッとなる。