愛するココロ 作者 大隈 充
24
墨色の雨雲がところどころ千切れて、風に低く流されていた。
しかし小雨ながら雨は一向に止みそうになかった。
オレンジの目のエノケン一号は、ワゴン車の車窓越しに
その流れる雲を見つめていた。
アノチギレグモハ、ドコヘ ユクノカ?
オレハ、ドコカラキテ、ドコヘユコウトシテイタノカ?
バイオリンの調べは、ココロに染み入る甘美で背骨の中を
射抜かれたような痛みと快楽を伴う音色で青年エノケンの耳と
胸を襲ってきた。青年は、京都駅で降りると紙に書かれた地図
の通り五条オデオン座にまっすぐに向かってやって来たのだった。
そして廊下から観音開きのドアを開けて暗闇の活動写真館へ
入ったところだった。
スクリーンでは、チャップリンのキッドが観客の笑いをとっていた。
弁士の軽やかな語りの後をセンチメンタルなバイオリンの
独奏が鳴り響いていた。
それは、密林の奥に夜露に濡れて咲くユリの花から聞こえてきた。
いや、よく見ると舞台袖で弓を弾いているのは、白いドレス姿
の光り輝く女だった。
カアチャン!
エノケンが母に会うのは、十歳のときに福岡で別れてから
ちょうど十年ぶりだった。
榎本ハナ。その色の白さからカルピスと楽団仲間から呼ばれていた。
「どうして京都なんか来たの?」
「大河内伝次郎みたいな活動役者になる。」
「かあさん。望まんよ。こんな明日をも知れん世界にのぼせたら
後悔するよ。」
渡月橋の袂の茶店でかき氷を食べながらハナとエノケンは、
テーブルで同時にため息をついた。
「よく言うよ。自分だって父ちゃんだって勝手なことばかり
やってるじゃないか。」
「あんたが学校出て飯塚の写真館に修行に行けたのも、この
バイオリンのお陰で母さん、お金送れたからでしょ。」
「写真なんてつまらん。」
「父さん見てみればわかるでしょ。東京行って弁士やってる
なんて言っても自分の飲み代だけ稼ぐのがやっとで惨めなもんよ。
あんたは、堅気の職人になってもらいたいのよ。」
「もう九州には帰れん。写真館の岡崎叔父さん殴ってきたけん。」
「まあ。あんたったら・・・」
と紅の剥げた唇をとがらせて、エノケンのおでこを人差し指で
突付いたが、諦めと憐憫の色に顔が曇って、長い息を吐いた。
「いっつもそうね。小さいときから変わらん。
嫌だと言い出したら絶対に引かない。」
「だって写真術は、向いてないけん。」
「お父ちゃんによう似とる。そんな融通の利かないところが・・」
ハナは、そう言いながら立ち上がってハンケチでエノケンの汗
の浮いた額を丁寧に拭いてやった。
屈んだハナの胸元から甘い、懐かしい匂いがした。エノケンは、
この母の匂いに引き込まれそうになるのを堪えるのに苦労した。
「母ちゃん。恥ずかしいけん。もう子供やないんやけ・・・」
と乱暴にハナの手を払った。
「何恥ずかしがっとるん。」
ハナはハンケチを仕舞いながら少女のようにクスっと笑った。
そのとき、表から背広の中年男が入ってきた。
「やあ、カルピス。遅そうなって堪忍な。」
背が高く髭剃り後の濃い男だった。
「西村さん。こっち。」
「息子はん?」
西村と呼ばれた男は、窮屈そうに身を屈めて椅子に座った。
エノケンにとっては西村の物腰があまりに柔らかく湿り気を
浴びているのが女性的というよりむしろ男の本能を感じてしまって、
どう対処していいかわからなくなってしまった。
ハナは、見かねて慌てて紹介した。
「建一ですぅ。」
「随分大きな子がいるんだ。姉弟にしか見られんわ。」
エノケンは、反射的に危険なものに犬が耳を立てるように背中
を反らして硬くなった。
「楽団でお世話になっているマネージャーの西村さんよ。
ちゃんと挨拶なさい。」
青年エノケンは、目を逸らしたままペコリと頭を下げた。
「折角だから四条のエビスホールへ食事に行きまへんか。」
「いいわね。ビールっておいしいのよ。」
「どうでっしゃろ。建一くん。」
西村がハナの椅子を引くと腰に手を回してハナが立ち上がるの
を咳払いするみたいに自然に手伝った。
この手がなければまだ飲んだことないエビスビールとやらを
飲みたかった。しかしエノケンには、それができなかった。
「ぼく、この後約束がありますから。」
「いいじゃないの。久しぶりに会ったのよ。」
「でも活動写真の人に会わなくちゃなりませんから。」
「本当に?おごりまっせ。」
「明日。又連絡するけん。」
エノケンは、氷の解けた残り汁を吸うと大股で店から出て行った。
「五条の宿においでよ。きっとよ。」
「ああ。」
と振り返らず手を振った。
入り口の先の川で投網舟が一艘、流れていた。
ハナは、西村の親指に小指を絡めていた。
「ごめんなさい。愛想の悪い子で。」
「あの子は、もう大人や。」
カアチャン、アレカラキョウトデハ、ニドトアワナカッタ。
エノケン一号は、窓を開けて雨に打たれていた。
目の電源は消えて暗いままだった。
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墨色の雨雲がところどころ千切れて、風に低く流されていた。
しかし小雨ながら雨は一向に止みそうになかった。
オレンジの目のエノケン一号は、ワゴン車の車窓越しに
その流れる雲を見つめていた。
アノチギレグモハ、ドコヘ ユクノカ?
オレハ、ドコカラキテ、ドコヘユコウトシテイタノカ?
バイオリンの調べは、ココロに染み入る甘美で背骨の中を
射抜かれたような痛みと快楽を伴う音色で青年エノケンの耳と
胸を襲ってきた。青年は、京都駅で降りると紙に書かれた地図
の通り五条オデオン座にまっすぐに向かってやって来たのだった。
そして廊下から観音開きのドアを開けて暗闇の活動写真館へ
入ったところだった。
スクリーンでは、チャップリンのキッドが観客の笑いをとっていた。
弁士の軽やかな語りの後をセンチメンタルなバイオリンの
独奏が鳴り響いていた。
それは、密林の奥に夜露に濡れて咲くユリの花から聞こえてきた。
いや、よく見ると舞台袖で弓を弾いているのは、白いドレス姿
の光り輝く女だった。
カアチャン!
エノケンが母に会うのは、十歳のときに福岡で別れてから
ちょうど十年ぶりだった。
榎本ハナ。その色の白さからカルピスと楽団仲間から呼ばれていた。
「どうして京都なんか来たの?」
「大河内伝次郎みたいな活動役者になる。」
「かあさん。望まんよ。こんな明日をも知れん世界にのぼせたら
後悔するよ。」
渡月橋の袂の茶店でかき氷を食べながらハナとエノケンは、
テーブルで同時にため息をついた。
「よく言うよ。自分だって父ちゃんだって勝手なことばかり
やってるじゃないか。」
「あんたが学校出て飯塚の写真館に修行に行けたのも、この
バイオリンのお陰で母さん、お金送れたからでしょ。」
「写真なんてつまらん。」
「父さん見てみればわかるでしょ。東京行って弁士やってる
なんて言っても自分の飲み代だけ稼ぐのがやっとで惨めなもんよ。
あんたは、堅気の職人になってもらいたいのよ。」
「もう九州には帰れん。写真館の岡崎叔父さん殴ってきたけん。」
「まあ。あんたったら・・・」
と紅の剥げた唇をとがらせて、エノケンのおでこを人差し指で
突付いたが、諦めと憐憫の色に顔が曇って、長い息を吐いた。
「いっつもそうね。小さいときから変わらん。
嫌だと言い出したら絶対に引かない。」
「だって写真術は、向いてないけん。」
「お父ちゃんによう似とる。そんな融通の利かないところが・・」
ハナは、そう言いながら立ち上がってハンケチでエノケンの汗
の浮いた額を丁寧に拭いてやった。
屈んだハナの胸元から甘い、懐かしい匂いがした。エノケンは、
この母の匂いに引き込まれそうになるのを堪えるのに苦労した。
「母ちゃん。恥ずかしいけん。もう子供やないんやけ・・・」
と乱暴にハナの手を払った。
「何恥ずかしがっとるん。」
ハナはハンケチを仕舞いながら少女のようにクスっと笑った。
そのとき、表から背広の中年男が入ってきた。
「やあ、カルピス。遅そうなって堪忍な。」
背が高く髭剃り後の濃い男だった。
「西村さん。こっち。」
「息子はん?」
西村と呼ばれた男は、窮屈そうに身を屈めて椅子に座った。
エノケンにとっては西村の物腰があまりに柔らかく湿り気を
浴びているのが女性的というよりむしろ男の本能を感じてしまって、
どう対処していいかわからなくなってしまった。
ハナは、見かねて慌てて紹介した。
「建一ですぅ。」
「随分大きな子がいるんだ。姉弟にしか見られんわ。」
エノケンは、反射的に危険なものに犬が耳を立てるように背中
を反らして硬くなった。
「楽団でお世話になっているマネージャーの西村さんよ。
ちゃんと挨拶なさい。」
青年エノケンは、目を逸らしたままペコリと頭を下げた。
「折角だから四条のエビスホールへ食事に行きまへんか。」
「いいわね。ビールっておいしいのよ。」
「どうでっしゃろ。建一くん。」
西村がハナの椅子を引くと腰に手を回してハナが立ち上がるの
を咳払いするみたいに自然に手伝った。
この手がなければまだ飲んだことないエビスビールとやらを
飲みたかった。しかしエノケンには、それができなかった。
「ぼく、この後約束がありますから。」
「いいじゃないの。久しぶりに会ったのよ。」
「でも活動写真の人に会わなくちゃなりませんから。」
「本当に?おごりまっせ。」
「明日。又連絡するけん。」
エノケンは、氷の解けた残り汁を吸うと大股で店から出て行った。
「五条の宿においでよ。きっとよ。」
「ああ。」
と振り返らず手を振った。
入り口の先の川で投網舟が一艘、流れていた。
ハナは、西村の親指に小指を絡めていた。
「ごめんなさい。愛想の悪い子で。」
「あの子は、もう大人や。」
カアチャン、アレカラキョウトデハ、ニドトアワナカッタ。
エノケン一号は、窓を開けて雨に打たれていた。
目の電源は消えて暗いままだった。