2007年製作 イギリス映画
監督:ジョー・ライト
(時代は、第二次世界大戦まであと1年・・・)
(物語はイギリス上流階級のこの屋敷から始まる)
重いテーマでした・・・・。
観終えた後、タイトルを、「つぐない」という演歌みたいな日本語じゃなく原題のAtonement、贖罪あるいは贖い(あがない)という日本語にすべきだったと思いつつ、贖い(あがない)が持つ耐える期間の長さから派生する重苦しいイメージそのままに実に≪沈鬱≫な気分になりました。
(ブライオニーの少女時代を演じるシーアシャ・ローナン)
13歳というのは、実に難しい年齢だ。
特にプライドが高く感性豊か多感で潔癖という性的に未熟で不安定な思春期に突入した少女というのは、難しい。早熟な文学少女のような場合は殊更だ。ガラスのような繊細さと信じがたい程自分では大人だと思っている部分が同居し、そこに強固な意志が働くと大人はお手上げかもしれない。
少女じゃない人たちや少女だった時代の自分を思い出せない女性たちにとって実に捉えどころがない未知なる生き物に感じられるかもしれない。
そんな少女が、当人でさえよく分かっていないような衝動や感情に支配された場合、往々にして彼女の嘘の証言によって運命を変えられてしまう大人たちが現れる。邦画「それでも僕はやっていない」のようなケースだってあるのだ。多感でひねくれた性悪な一面を発揮する少女たちの嘘や誤解によって、現に人生を狂わされている大人たちがいるではないか。
(ロビーの手紙を盗み読みするブライオニー、失恋した瞬間でもある)
映画の中の少女(シーアシャ・ローナンという子役)は実に緊張感をもって、そうした複雑系の少女心理というものを見せてくれている。それは監督の采配の冴えだろうか。2時間ちょっとの上映時間の最初の数十分間はまさにこの少女の内的世界で何が起こりつつあり、それがその後どういう方向に向かうのかといった予言に満ちている。
(愛し合う二人のこの行為、13歳の無垢な少女の目にどう写るだろうか)
そして、
現実に≪事件≫は起こってしまう。
(実に美しい邸宅。ウィリアム・モレスの壁紙が映える屋敷の部屋はイギリスアンティーク家具や調度品のてんこ盛り。)
屋敷での夕食会の夜、
居候している親戚の子供たちの家出し騒ぎとなる。その子供たちの姉であるローラも実はもう一人の複雑系の少女だ。ネットを検索してもほとんどこのローラの事を取り上げたサイトがなかったので書いておこうと思う。
(ここにももう一人事件の鍵となる少女がいた)
遠慮の要る親戚の屋敷で居候の身分。それというのも両親が離婚したからで、事情が分かる少女は深く傷ついている。なのに、聞き分けのない幼い二人の弟の世話を任されている。そんなとき屋敷にやってきたブライオニーの兄レオンの友人に親切にされたなら、少女の心にどんな変化が生じるか想像にかたくない。
その従姉妹のローラの信じがたい行為をブライオニーが目撃してしまうことから、運命の歯車が狂い出す。
ローラがレイプされたと信じて心の中で悲鳴を上げるブライオニー・・・・。この衝撃は察するにあまりあるけれど、この直前のブライオニーの心も少女特有の複雑系・・・・
屋敷の使用人の息子であるロビーに密かに恋心を抱いていた少女の気持ち・・・・。少女にとって身近で優しい異性は頼もしい白馬の王子様的存在なのだ。
そのロビーが初めて屋敷の夕食会に招待されてやってきたとき、正装したこの青年の姿が13歳の少女のとってどんなにまぶしいものか・・・分かるだろうか。ましてや密かに白馬の王子様と思っていた相手である。
(姉セシーリアを好演していたキーラ・ナイトレイ。「パイレーツ・オブ・カリビアン」のエリザベスと言えばいいかも)
けれど、ブライオニーは彼と姉の関係に胸騒ぎを覚える繊細な少女。昼間の二人の様子に何かが目覚め始めたばかり。
そんな揺れ動く精神状態のとき、屋敷の中のライブラリーで愛し合う二人を目撃する。性を理解できない子供にとって、恋する年上の青年と自分の姉のそうした行為が理解できない。心の中はざわついてくる・・・
この姉の確信に満ちた姿はどうだろう。キーラ・ナイトレイは自分に向けられた青年の愛を確信して揺るがないセシーリアを好演していましたね。
少女は恋すればこそ、青年の心が誰に向けられているかを直感する。そして姉の心も。愛されている女の自信・・・
このとき姉のセシーリアは大人の女としてブライオニーの前に大きく立ちはだかるような存在として感じられたに違いない。みじめなブライオニー・・・・
この表情、実に痛ましかったですね。
ローラの性行為をレイプとして認識したとき、心の中で悲鳴を上げたときの表情と大変な違いだ。
このときブライオニーの初恋は木っ端微塵に砕けたのだ。それでバランスを失わない少女はいない。
ローラが男の顔は見なかったと言ったばかりに、ブライオニーは犯人をロビーだと偽証することになる。このときの激しさ、迷いのなさは凄まじい。なぜなら、ロビーへの恋で失ったものはロビー本人だけではない。少女の輝かしい自信に満ちたプライドもずたずたになったのだ。それを回復するための自衛心理だったのかもしれない・・・・
恋をしている思春期の少女の怖さがここにある。
映画では、このブライオニー・タリスを彼女の成長した時期によって3人の女優が演じています。それがとても興味深かったですね・・・。
事を起こした13歳の少女時代は上述のシーアシャ・ローナン。それから数年後の青春期をロモーラ・ガライという若手女優が演じている。
(青年期からの数年間のブライオニーを演じたロモーラ・ガライ)
二人とも実に素晴らしい・・・・
静かな凄みを感じさせる女優たちで、二人とも今後がとても楽しみな逸材です。
そして晩年の彼女にはヴァネッサ・レッドグレイブという最高の女優が配置されていました。登場したとき、もうびっくりしましたが、彼女以外にこの役をやれる女優はいないと思われるほど。
このキャスティングの成功が、ともすると主題がわかりにくくなる展開のこの作品を成功させたと言えるように思います。
が、
この映画の主題は、そうしたところにはないので、
話を進めます。
(ロビーを熱演したジェームズ・マカヴォイ)
性犯罪者として逮捕された青年ロビー(ジェームズ・マカヴォイが好演している)----彼にあったはずの未来、屋敷の使用人の息子ながら政府高官らしい主の経済的支援でケンブリッジに進学すはずだった青年。少女の姉であるセシーリアと愛し合い結婚し、恥ずべきことのない人生を送れるはずだった青年。
そんな未来が待っていたはずだった青年は、刑務所か軍隊かという選択を迫られ最前線に行くべき一兵卒として従軍する。
時は、第二次世界大戦の開戦時。
そこから映画は延々と戦場と戦闘で死傷する兵士たちを映し出していきます。セシーリアとロビーの愛、ブライオニーの罪の意識の重さに目が向いていると、なぜ戦争場面が延々と続いているのかが理解できなくなるかもしれません。
派手な戦闘シーンどころか殺しあう戦闘シーンが一切ない戦場というのも妙ながら、従軍した青年の心の崩壊の過程、夢か現か分からない映像を交え戦争は進行していく。そして、その一方で家を出た姉と妹のその後の様子が淡々と映し出されていく。
ロビーが犯人だと訴えた妹青年のために一片の同情も示さなかった家族を許せずに家を出た姉のセシーリア。従軍したロビーが彼女の元に帰ってくるのを待つ彼女と
罪の意識の重さから進学を拒み病院で傷病兵の看護という奉仕活動に入った妹のブライオニー・・・・・病院に運び込まれて死んでいく兵士たちの姿を前にして、ブライオニーは戦争の悲惨な現実に衝撃を受け、その衝撃は前線に赴いているボビーへの思いで倍化され深く深く彼女の心に楔を打ち込んでいく。
そんなとき、親戚のローラの結婚のことを知り、挙式が行われる教会に向かうブライオニー。
(このときのロモーラ・ガライ、圧巻でしたね)
(ブライオニーに気づきながらも目を合わせないローラ)
(言葉を交わすことなく通り過ぎていく二人)
(映画の中で心が揺さぶられたシーン。まるで宗教画のような静謐さ)
(同じ頃、戦場で子供たちの遺体を眺め戦争の、あるいは人生の悲惨な現実を前にし涙を流すボビー。映画の中で唯一ボビーの涙を流す場面)
やがてブライオニーが姉のところを訪問する場面が現れますが、許しを請うどころか彼女は姉から厳しい視線を投げかけられ身のすくむ思いに耐える。そこに居合わせたロビーからも激しく責めたてられる。
思わず自分は13歳の子供だったのだと弁解するブライオニー。けれど、そうした自己弁護も徹底的に糾弾するロビーの激しさで、ブライニーは涙で硬直する。
13歳は善悪の判断がつかない年齢なのかと。真実を告白するのに18歳まで待たねばならなかったのかと。刑務所がどんなところかお前に分かるかと。やがてロビーは厳命します。冤罪を晴らすべく証言を撤回しその経緯を手紙で知らせてよこせと。粉飾は一切なしで、正直に、事実だけを書くのだと。そして自分たちには二度と近づくなと。
体を震わせて姉のアパートを後にするブライオニー。
ここでおかしいと思った人はエライ!
なぜなら、ロビーにとってブライオニーは家族同様に育った存在であり愛する女性の妹でもある。そんな妹のような彼女をどうしてこのように責め立てたりしようか。ロビーはそういう青年ではない。セシーリアも同様だ。
(ここでも教会で見せたときの静謐な表情を見せるブライオニー。聖母像の絵画に見る静謐な美しい映像です)
この映像がその場面で立ち現れたとき、
おかしいと気づいた人もエライ。
映画のクライマックスは、思いがけない形で現れる。
時は戦後数十年を経た現代。
場所もTV局でのインタビュー番組。
老齢のブライオニーが作家として書いた自伝的小説の事で質問を受けている。老年となった彼女が休憩を求める場面がいきなり現れます。
この老齢のブライニーをイギリスが世界に誇る名女優ヴァネッサ・レッドグレイブが演じている。まさに数十年許されることのない罪を背負って生きてきた人間として、迫真の演技でした。
まさに映画のクライマックスはここにあります。
この映画には原作となった小説がある。私はその小説、イアン・マキューアンという作家の「贖罪」を読んではいないので、あくまで映画の話をしたい。
この映画の主題は、映画のキャッチコピーにあるような決して許されることのない人間の罪や少女のついた嘘という罪の重さにあるのでもない。ましてや嘘をついた少女の嘘を断罪することにあるのでもない。老年のブライオニーが数十年を経ても体を震わせ苦悩の深さを刻んだ顔の皺によって贖罪の重さがいかに大きいかを語っているのでもない。償いをするチャンスを永遠に奪われることの恐ろしさ悲惨さを前にして、作家ブライオニーの魂は震え震えたのだ。
人間は過ちや誤りを犯す生き物だ。けれど、努力し時間をかけて努力し続けることで過ちは許し許される。そこに人が人として生きるという人間性の発露がある。
そのチャンスを奪うこと奪われることが、いかに恐ろしいか・・・・・老齢となってもブラィオニーを震えさせるのは、その恐ろしさ、その悲惨さ、その人間性を破壊するそのものの圧倒的な闇なのだ。彼女から贖罪の機会を奪ったものは戦争・・・・・ロビーもセシーリアもすでに戦時中にこの世から永遠に消えてしまったのだから。
ヴァネッサ・レッドグレイブ演じる老年のブライオニーは、ラストで小説の事を語ります。つまり、映画の中での後半の多くの場面、姉とロビーが戦時中も限られた時間ながら逢瀬を重ねていたこと、姉のアパートを訪ねてロビーと姉に詫びて真実を告白した場面も、彼らに激しく責め立てられた場面もすべて作家としての創造だということ。
それは逃避や言い逃れや弱さではないと信じたいと。最後のいわば、思いやりであること。姉のセシーリアとロビーに彼らが失った幸せを取り戻してやりたかったのだと。望んだ幸せを上げたかったのだと。
違和感を感じられる方は多いかもしれない台詞です。
けれど、神が戦争という無残なものを回避できないとき、人として失われた人間性の回復、個人として永遠に失われた命と時間と人生とを作家ならどうするか。いや、作家として生涯を送ったブライオニーにできる贖罪とは何かを思ったなら、真実を書くことで死んでいった彼らが永遠に失ったものを回復させることしかないかもしれない。
「贖罪Atonement」(あがない)とは、「つぐない」のような「罪滅ぼし」ではなく、祈りなのだ・・・・・
ヴァネッサ・レッドグレイブ、圧巻でした。