moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

JRの事故は日勤教育のせいか・・・

2005-04-30 | エッセー(雑文)
今回のJRの悲惨な事故を、熟練と未熟な技能の問題という論議に
すりかえようとする評論家もいたようだが、ある種の告発で、
JRの労働環境に、経営サイドの体質に事故原因があったのではないかと
「警察側」の捜査体制もあって、珍しくメディアも一斉にJRの体質を批判しているようだ。
JRの日勤教育のシステムは、いびつな説得を目的としたもので、
個人のスキルアップに、つながらなければならない、教育本来の目的(個人を理解する)を忘れ、
マインドコントロールの技術を行っていたにすぎない。
一次期教育研修ブームが取り沙汰され、そのマインドコントロールの技術の弊害が非難を浴び、
下火になったかのように思っていたが、未だ大会社で、
このようなマインドコントロール教育が行われているのは問題であろう。
同様な被害を受けてる労働者は、自己防衛のためにもマスコミ、人権保護団体、
警察等に情報をリークすべきだろう。
JRは民営化により僻地路線を切り捨て、地域住民を裏切り、
さらに、競争、利益追求を口実に、その従業員さえ裏切っているという
自覚さえないということが明らかだ。
その要因は、労働者の労働効率を、上げることを目的とした
銀行、経営コンサルタント等の、事務屋主導の会社体制にある。
操縦経験、いわゆる現場経験もない事務屋が、数字上でたたきだした効率は、
いわば机上の理論に過ぎず、熟練技で事故が回避されてることを理解していなく、
その熟練技の重要性は評価されていないどころか、労働の平均的基準値として採用され、
労働者の評価はマイナス方向にしか動かない、というリストラ目的の、
査定価値を採用してることに大きな問題があるのだろう。
この傾向は鉄道会社、運輸会社の経営体質に多くみられる。
(某運輸会社はベテラン運転手が大量に自主退職してるらしい。)
世界的競争に負けてしまう等という口実に
その裏で会社費用で愛人を何人も持って、リストラしてる矛盾。
所詮、労働者に皺寄せが生じてる経営では、元々世界的競争に勝てるわけもなく、
企業価値があるうちに、世界大手の企業に吸収合併されたほうが良いのではないか
(自浄能力のない企業など)。
郵政の民営化もこのJRと同じ轍を踏むと予想される。
銀行事業が当然自由競争に移行すれば、吸収合併はあたりまえとなり、
効率優先の事務屋が描き出す青写真で、経営側は動くと予想される。
現実に吸収合併を繰り返し、できた4大銀行では、
自分の預けた預金の記帳もできない。
通帳を作った支店じゃなければ詳細はわからない。
サービスを継続利用するための、手続きに何日も要するという状況だ。
ということは一般庶民、老人に優しくないサービスに、
郵政は変容する可能性が大きいということだ。
いかに、国民一人に500万ほど借金があるからといって、
それを理由に、郵貯350億でなんとかしようとする目論見は本末転倒だろう。
どの国でも保護貿易的な対策をして、国益を上げてるにもかかわらず、
日本だけが、なぜアメリカに追順し、アメリカの利益になるようなことばかり懸命なのか?
という穿った見方を現内閣に問いたくなるこの頃。

近代の「知の体系」とポストモダニズムの印象

2005-04-23 | エッセー(雑文)
貨幣経済がいつ頃から
システムとして敷衍したのか分からない。
それは、パソコンでいえば、CPU160程度で
ソフトは95、ネットはダイヤルアップ接続
10Kバイトの画像をおとすのにも数分を要する
といったスペックから
CPU3G以上、ソフトXP、光ネット接続という
動画ファイル落とすのに数秒という
脅威のスペックの変化に似ていたのかもしれない。


物の流通速度を速めるシステムとしての貨幣価値には
さらにいろんな価値が付随していた。
それは、契約違反や犯罪を抑止するための「権力」という
物語を共有するということだ。
さらに、金がすべてに優先するという金=権力とする
「大きな物語」の弊害に対して、それに対抗し得る「大きな物語」を
創作しなければならなくなったということだ。
それが、近代の資本主義であり、社会主義の
「物語」であり、「物語」自身の弊害を「物語」で修正しなければならない
という近代の「知の体系」であった。
リオタールのテキストから、マルクス史観の価値をのぞいて
その構造分析だけを利用しようとする和製ポストモダニズムは
屁のつっぱりにもならない。
だからといってマルクス主義は有効とは思えないが・・・。
要は近代の「知の体系」は効力を失ってるわけではなく、
失ってるとすれば社会主義の「物語」でしかない。
依然、金=権力とする「物語」、資本主義「物語」は勢力を
振るい続けているという印象はぬぐえない。
 

よくわからないポストモダニズムの射程

2005-04-21 | エッセー(雑文)
よくわからない和製ポストモダニズムの射程。
最近になって、今更ながら、和製のポストモダニズムの本を読み始めた。
いろんな人(仏の哲学者)が勝手に社会構造を分析したのを、
さらに勝手に融合しようとしてるという印象。
う~むよくわからん。
写真のコピーが成したことで、結局カタログ商品が成立しただけで、
オリジナルなきコピーとか、いってるが、オタクであろうと、なんであろうと、
市場性が持ち込まれれば、カタログとしてのデーダベースが価値体系を規制し、
本物とそれ以降のコピーとの「差」は歴然とする。
さらに、大きな物語など終わってはいないし、小さな物語に置き換えられてはいない。
ガンダムにしろ大方のアニメは「大きな物語」のコピーであり、
それを商品と密着させたシステムが有効に働いてるだけのような気がする。

ポストモダニズム的展開が期待されるとしたなら、
たとえば、ブログの目玉商品であるトラックバックという
システムのほうが有効であるような気がする。
元々ネットが採用してるシステムが分散型ネットシステムといわれ、
中央集権的、1極集中型の弊害をさけるためのものとはいえ、
情報は個々に、点在共有可能である。
そこで、話題の共有を図れるトラックバックというシステムは
情報の「差異」
を小さな<ズレ>へ転換でき、意味の固定化を防ぎ、
異質なものにたいする理解可能な態度を、もたらすのではないだろうか。

それこそが本来の「ちいさな物語の消費」なんじゃないのかなと思ってみた。
だからといって、何が変わるのかといえば、不透明で、
よくわからんということになるが・・・。
ポストモダニズムに興味ある方は
以下参考
http://ja.free-definition.com/%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7.html
(思想家一覧)

「ザーマス奥様」の自慢話の番組?・・・

2005-04-17 | エッセー(雑文)
日曜の夜8時台にスポーツ選手の奥様タレント?の
トークを聞くという番組を見た。
なぜ、こんな「ザーマス奥様」の自慢話を聞かなきゃ
ならんのかねと思った。
一昔なら、ご近所付き合いの側面で、プチブルの奥様の
自慢話も、聞かねばならない人間関係というものがあったろうが、
わざわざ、TVをつけて、自慢トークに聞き込んで、
最近の家庭の主婦は随分と暇なのかという疑問?
しかし思うに、ご近所付き合いも極端に減り、どのあたりが
平均的主婦像であるのか、分別がつかなくなってきているのだろう。
ある生活水準のレベルを計ると同時に、「馬鹿だなぁ」と自分の立場を
トークしてる「ザーマス」スポーツ選手の奥様より、上に置くという作業が
快感で、番組制作者の思惑通りになってるわけである。
そして、その反面で「ヒロシです・・・」というような
「笑い」の自虐ネタに自ら曝される一流選手の夫像
それは本来、明らかな勝ち組であるはずのスポーツ選手を
負け組みの夫と同様であるかのような幻想をもたらす。
若い世代の夫婦にはこの「お笑いトーク」番組は
「差別感もしくは劣等感」の解消という効果を期待させ、
現実の乖離した状況を埋める心理的手助けになってるのだろう。
そのため人気もあるのだろうと思ってみた。

消費文化としてのモラル考

2005-04-15 | エッセー(雑文)
消費文化にモラルを組み込む試み

経済市場に商品が流通することで成立する日常性
その日常性を支える精神的側面の一つ
それがモラルであったり、倫理、道徳観であったりする。
市場経済が大量消費のため機械化する以前であれば、
倫理、道徳観、モラルなど個々の交流により、
個人の精神的側面を昇華することも可能だったろう。
「出会い」の偶然性に左右される対話は地域的であり、
村社会的な範囲のみで有効であり、それを拡大するためには
メディアという「システム」(機械化)が必要だった。
出会いは「運命的出会い」とかいう文学性に還元され、
日々「システム」のもとで「物語」として創造されて、
各メディアのもとで、配信され続けている。
しかし、一方向性による「物語」の消費は、没個性化
理性的判断力を失わせ、個人そのものが消費される危険性を
孕んできた。
その「物語」に描かれる人物は人格主義的模範生、あるいは
それを目指す途中の未熟な人物であり、いわば神格化に
近い素描の人間論を土台としてる。
そして「物語」を消費し、共感し、精神的充足感を得る
という行動形式が定着した結果、本来の隣人である他者との対話は
避けられるようになるという皮肉な現象が蔓延化した。
一方で大量に流し続けられる「性的」イメージに密着した商品
の消費に慣らされた個人は、短絡的性行動(金銭で交換される性というイメージ)に
疑問すら持たないようになってきた。
経済交換される性の特性は役割性を帯び、ゲーム的遊び(プレイ)の
様相を強める。・・・結果性的犯罪を引き起こす分かれ目は、金銭のある、
なしに左右される。

消費生活が主な行動形式として標準化され、
新しい商品イメージを提示、それを消費する社会では
イメージを共有化することが最大関心事であり、なにより優先される。
そのイメージにあらたなモラル、倫理、道徳観をすべりこませる
ことが必要と思われる。
イメージを共有化する文化装置として機能してる商品イメージに
直接モラル、倫理、道徳観を混入させる。
例えば「美」に関連する商品にすべりこませる。
現実に美しく装うことは美徳という価値観が、
その行動形式として定着してる。
逆にいえば、こういう商品イメージシステムの検討が必要ということ。
元々精神文化は、大量に精神エネルギーを消費することで
成立するのだから、妙な精神エネルギーの出し惜しみはいけない。
なによりも精神的な活動が大切なので、他人任せにするのではなく
自分でよく考える、その「問い」は正しいのか?あるいは成立するのか
というアプローチ面も含め検討をしなくてはならない。
既存の「物語」の内容にモラルを間接的に付加するのではなく、
直接的な商品イメージに、商品文化(システム)に
モラルを積極的に組み込む作業が必要な時代なのかもしれない。
規律でもなく、管理でもないシステムとして・・・ 

携帯ゲームが面白くなってほしい

2005-04-14 | エッセー(雑文)
ワンダースワンクリスタルでFFⅣを今プレイしてるが、
PSPにも負けてない綺麗な画面である。
きっと、WSソフトは今となっては発売もされていないんだろうな。
最近の携帯ゲーム機はPS2ばりのCPUの性能に支えられていて
それにオンブするような、アクション系の派手な、ソフトばかりで
シミュレーション、RPG派としては、PSPソフトはつまらない。
スーパーファミコンのCPUの性能ではアクション系ソフトとして不向きなため
その苦肉の策として面白いシミュレーションやRPGソフトが多くつくられたという。
そのためかゲームボーイアドバンスで上位にくるのは、ファイアーエムブレムや
スーパーロボット大戦、旧来のFFの移植ものとかだ。
いかに、携帯機の画面が綺麗になろうと、目が疲れやすいことはかわらない。
操作は簡単で、目にやさしい、それでゲーム戦略性に富むものが好まれるのは当然だろう。
しかし、ゲームを作る人達は、なぜゲーム機の新機能に挑戦するかのようなクソゲーを
あいもかわらずつくるのだろうか?
PSPも、ゲームソフトが面白いものがないというので、中古に流す人が増えてるという
(特に高齢層のユーザーに)PSPはCMでもわかるように中高年にもユーザーに
戻ってもらいたくて販売戦略を練ったのだろうが、裏目にでてきてるのではないか?
ゲーム量販店のゲーム店内販売面積の割合も年々減少傾向ににある。
(コンビニで買えるから減ったのではないと思うが・・・。)
ゲームソフトを作る側の責任のような気がする。もう一度初心に戻って
謙虚に自分が本当に面白いゲームをつくってほしものである。



どうなってるのだろうgooブログ

2005-04-13 | エッセー(雑文)
コメントを頂いたりしたので、こちらからも送らねばと思い
チャレンジしてみたのですが、出来ない。
トラックバックをするのに、コメントしてからしようと思っても
コメントの機能が動かない。
トラックバックも反応なし。
どうなってるのgooブログ!!
特にアクセス過多の時間帯でもないのに、時間かかります~とか
待てどいっこうにトラッバックされた様子もない。
なんか不信感・・・引っ越そうかなw。

仮面ライダーのフォルムの変遷考

2005-04-11 | エッセー(雑文)

仮面ライダーて漠然とバッタ改造人間だと思っていたが・・・。
しかし、考えてみるそういうわけでもないらしい。
一号ライダーが衝撃的フォルムで登場し、その元デザインがバッタであったことが
原因で、それ以降のライダーもバッタのイメージがつきまとったのだろう。
しかし、基本的には一号ライダーのフォルムに幾ばくかの他の昆虫、動物のデザインが
付加されてるだけで最近までは、ライダーのフォルムは続いたようだ。
改造人間という設定だが、悪役怪人のようにトカゲを直接改造融合させたわけではなく、
あくまでも、能力とかを特化させた改造であって、さらにフォルムの象徴的設定にすぎない。
その一号ライダーにしても、単発読みきりの漫画「スカルマン」が元デザインということは有名だ。
そしてそれより溯ること009の地下帝国ヨミ編に登場する敵役サイボーグがドクロの顔を
もつ中ボス的なキャラで、ここが仮面ライダーのフォルムの出所かもしれない。
V3がトンボ型改造人間とかいう説明は子供向けの説明であって、V3の決定稿がでるまでに
幾つかのリテイクがあり、その結果幾つかの矛盾を孕んだ設定が残ってしまっている。
V3の場合V3ホッパーとかいうアイテムの名称や、やたら目立つ触覚、緑のスーツなど
これらは、トンボとは思えないフォルム、バッタ以外ありえないでしょうw。
アマゾンにいたっては、トカゲということが有名だが、それもデザイン的にみると
おかしなところは数限りないような、元々は芋虫のデザインの要素を取り入れたらしく
それがリテイクされ、蟷螂に、それもリテイクされ、当持流行のカンフー映画ドラゴンのイメージ
に合わせ、安易に視聴者の受け狙いでドラゴン=トカゲ型(カメレオンに近い造形だけど)になったようだ。
一本の触覚を残して。珍しく当時のアマゾンのスーツアクターは女性だったらしい。
そいうえば、あの体にぴっちりしたボディスーツのわりにもっこし部分が目立ってないw。
ストロンガーもカブトムシで有名だが、あの複眼は解せない、たぶん幾つかのリテイクを経て
あの巨眼になったんだろう。
スカイライダーは原点復帰型でフォルムは殿様バッタのフォルムに特徴があるが、
視聴率が乏しく、途中からお子様路線変更になり、その役者はその経歴からライダー役を
演じてたことを消し去ったといういわくつきだ。
そのあとちょいちょい他の昆虫のフォルムを付加させて面々と続く。
一号ライダーは漫画版ではヘルメット装着型の変身で、
ライダーマンと同じような感じ、Xも装着型に近いイメージだ。
これは平成ライダーの装着変身の原点かも。
いろんなフォルムの変遷があったが、すでに改造という言葉のイメージが、
某宗教犯罪マインドコントロール、障害差別などを連想させるということで、
捨て去られて久しい。
今期の響鬼はその点画期的かもしれない。
ただ、怪奇特撮ドラマという点では一号ライダーの時点でもあった要素。
スポンサーの要請もあってかテコ入れ的意味合いで、
二段階変身がブラックRXあたりから本格的に導入され、
響鬼も当然それを踏襲すると予想されるが、ウルトラマンのように主人公入れ替わり
という手法にでるかもしれない。その時、また複眼系マスクになってるかもしれないし、
バイクもスーパーバイクが復活してるかもしれない。(恐るべしバン○イの戦略)
これから、ライダーのイメージはどのようにズレをおこしながら、
視聴者の支持や反発を得ていくのだろうか? 興味深いと思うこの頃。 


諫山陽太郎という人が書いた仮面ライダー考は面白い。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/1731/man-rider.html
にあるので一読をおすすめする。

11月頃に映画で1、2号ライダーが復帰するらしい、役者は若い世代
いわゆるイケメンライダーを踏襲するようだ、一人はウルトラマンアグルの
役者らしい、あと一人は実写セーラムーンに出てた人らしい。 
(写真で見ると、スカイライダーとアナザーアギトをタシテ2で割ったような、
フォルムというような印象)




時代劇・・・眠狂四郎について

2005-04-08 | エッセー(雑文)
 2CHの時代劇の中にある一つのスレだが、時代劇じたいが、
他のスレの更新の早さに比べると、ゆるやかな時のなかにあって驚異ですらある。
「眠狂四郎」この話題を振る人には雷蔵ファンと田村正和ファンがいるようで、
雷蔵ファンにあっては、原作者でさえ眠狂四郎のイメージの一つを作り上げたに過ぎないとし、
雷蔵がすべての眠狂四郎のイメージを作りあげたとする強硬論が占めてる。
たしかに、ヨン様以前の元祖○○様であるわけだから、それ相応の演技力、企画演出力があったのだろう。
 眠狂四郎の生みの親たる柴田錬三郎は、狂四郎を罪悪感に苦しみながら、
孤独に耐えて生きている人物と創造したかったようである。
その繰り出す必殺剣「円月殺法」は忘我の状況に落ちた無抵抗な相手を殺傷する剣であり、
狂四郎はその罪悪感に苛まれながら斬るとしてる。
女を犯すということの意味も、狂四郎には同様な意味合いらしい。
 田村正和をひいきにするファンはたぶん、美剣士としての眠狂四郎ファンであり、
ある種のダンディズムに魅了されてるように思える。
原作者が一押ししてたらしいので、そのこともあって結構、眠狂四郎=田村正和とする方も多い。
 田村正和の剣士は大川橋三系列に類するものと思える。
多少のマザコンで、ストィックで女性受けのいい「美」剣士、
乾いて候など典型と思うが、眠狂四郎が美剣士であるか疑問である。
混血の剣豪、それも悟りから程遠い剣豪であるから、異相であっても美顔(イケメン)ではないような、
雷蔵も美剣士を演じてたわけであるから、その点を田村正和一人を責める訳にもいかない・・・。
 円月殺法はよく戦隊ヒーロー物で巨大ロボットの必殺技として、目にすることが多い。
いわゆる堂々としたパクリ技であるがw、この子供向け番組にしても、視聴率主義、経済原則
のためイケメンに片寄らざる得ない。
眠狂四郎は女を裸にし犯すキャラにもかかわらず、女性ファンが多いのが不思議であったが、
孤独と罪業感に苦悩するというイケメンキャラであったことが、女性の支持を得ていたんだろう。
と推測してみた。

小川てどこにいったのかな?

2005-04-06 | エッセー(雑文)
最近、洪水の被害をよく目にする。
治水対策不備が問題になってるようだ。(無理やりな住宅整備化のせいかも)
河川対策は江戸時代から灌漑用水、水路の整備ということで行われていたようだが、
それが明治以降鉄道の発達に伴い水路より、洪水対策、農業用水とかの対策にかわり、
さらに時代がすぎると、公害対策に加わり、河川法のもとで1級河川とかいうような
河川管理に、2キロ以下の河川は下水道として整備する方向へ変化したらしい。
「春の小川はさらさらいくよ」と懐かしい歌をこの季節は思い出すが、
昔は田園地帯でよく見られた景観は都市部ではほとんど見ることができなくなった。
以外だが、小川さんという名字は多いにもかかわらず、
百科事典にさえ小川=小さい川という記述しかない。
でも改めて小川て、そもそもなんだったんだろうと問うと、これまたはっきりしない。
河川の研究書は専門すぎて、わかり難く、小川=RUNSとか記述されてるのを見ると
よけい分からなくなるが、思うに、農業用水路とか排水路が小川だったんじゃないかと・・・。
そのため都心では下水道に取って代わられ、姿を消したんだろうと推測してみた。
(小川の利用て近代どんなふうに位置づいていたんだろうか、わからないけど・・・)
河川法とかいうものが行政により制定されたのは古く日清戦争以降らしいが、
最近はまた灌漑対策、自然環境回復の意味からも、
景観も含め河川管理が大学研究機関で見直されてるらしい。
社会科の時間で小学生が川について学習したりするのだろうが、小川については
もはや、疑問すら浮かんでこないんじゃないかな、
そもそも小川という景観が失われているのだから・・・。
寂しいことだが、小川が都市に回復することはあるのだろうか?