moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

「八つ墓村」金田一耕助が渥美清であることの「ズレ」について

2005-06-29 | エッセー(雑文)

金田一耕助「八つ墓村」1977年松竹制作 監督野村芳太郎(02時間31分)
出演 渥美清、山崎努、萩原健一、山本陽子、小川真由美
(この作品にはモデルになった実際の事件があったようだ「津山三十人殺害事件」)
見た人の感想では「恐ろしかった。」というものが多く、
ホラー色が強い作品という評価になっている。
1996年に市川崑監督 金田一耕助に豊川悦司で、東宝(02時間07分)で制作されてるが、
ホラー・ジャパネスクの頂点として、紹介されてるようだ。
1951年にも片岡千恵蔵が金田一耕助役を背広姿で演じていたという。
他の金田一耕助映画では中尾彬、石坂浩二、西田敏行、鹿賀丈史が金田一耕助を演じてる。
渥美清が演じた金田一耕助のイメージは、原作やそれまでの映画に、登場した金田一耕助の
イメージと異なる。ヨレヨレの和服に長髪で髪をかきむしり、フケを撒き散らかし、
逆立ちでアイデアを捻り出す。という定番化した特に石坂浩二以降のイメージを
「静かにズラしている。」
金田一の設定には留学経験者のインテリという部分がある。
それは近代的パラダイムの持ち主であり、知識階層の社会的責任という側面を、
一つのスタイルで表してはいるが、原作でも役場の職員とか、書生程度にしか
見えないという、通常のインテリ像を逆転させた原作のイメージにそった石坂金田一を、
さらに「ズラして」見せた渥美金田一は、正面から社会的責任を、引き受けようとする
インテリ知識階層を、復元しようと試みてるかのようだ。
石坂は芸能界で、理想的知識人としてのスタイルを表現しているが、
渥美は「寅さん」役者に終始し、素顔は徹底して隠していた。
見かけと、その裏、虚像と実像の「差」に、一番敏感だった役者といえるだろう。
その渥美が演じた金田一は、推理分析する学者のように淡々と事件を語る。
近代的パラダイムにそうかたちで、事件の背後にあるものを浮かび上がらせようとする。
石坂的知識人=道化者=金田一という結びつきは、道化者トリックスターを強調し、
社会の二面性を露呈させ、異質なものを再生産のために取込む合理性を主張し、
資本のグローバリーゼーションに行きつき止まる。
(結果、知識層は権力の傀儡として呑みこまれる。)
「寅さん」役者渥美=道化者=金田一では、「ズレ」がおこる。
「寅さん」=道化者と道化者=金田一の衝突、二重化がおこり、
道化者=金田一は「ズラ」さられ、考古学者的知識人=金田一というイメージに
「ズラ」された時、近代的パラダイムの意味が変化する。
それは「因果応報」という観念を掘り起こし、事件の真相のさらに地層にあるものを、
掘り起こそうとする。野村版「八つ墓村」が祟りという概念や怨念の実在を、
説く映画独自のストーリー展開をしているといわれるのも、
渥美「寅さん」⇒金田一耕助⇒考古学者的知識人という「ズレ」の構造が、
合理的精神を否定するかのような、非合理性であったり、人間の感情優先の行動の
肯定というような脈絡を復元し、知識階層のルサンチマンの精神を、
回復させているからではないだろうか。
寅さんには「てめえ、さしずめインテリだな」といって感情を表に出せず、
理屈倒れになるインテリを嫌うシーンがあるが、逆にいえば感情表現がうまく、
理路整然としていれば良いのであって、それは現代の市民としてのコモンセンスの
問題でもあるのだから。・・・という読み方をしてみた。
(知識人をモデルとする市民のコモンセンスでいえば、サルトル的スタイルから
フーコー的スタイルへと「ズレ」たのかもしれない。) 
 

コミックの実写化の落とし穴

2005-06-23 | エッセー(雑文)

「バットマン」「マスク」「スポーン」「メン・イン・ブラック」「X-メン」
「デアデビル」「ハルク」「スーパーマン」「ヘルボーイ」などのアメリカの
コミック・ヒーロー映画化の成功に影響され、日本でもコミックヒーローの実写化が、
昨年あたりも多く制作された。
原作はSF、ファンタジー系の物語が多く、CGを多用する
ニュータイプムービーという宣伝もあり、前評判を生んだ。
「キャシャーン」「デビルマン」「鉄人28号」
「 忍者ハットリくん THE MOVIE 」「けっこう仮面」「ゼブラーマン」など
もう既にDVD化してレンタルで見ることができるようだ。
(今年あたりは少女コミック原作「NANA」が見られるらしい。)


しかし、戦争によって荒廃した世界の表現をCGで多用した「キャシャーン」
「デビルマン」の評価が良くないようだ。
もちろん、原作の完成度が高く、そのイメージを損ねたことに、
対する反感もあるだろうが、コミックの実写化にはコピーであるということが、
シミュラクル(模造)する演劇、遊戯的出来事として、際限のないパロディである
という一種の不快さが伴うからではないだろうか。
特にヒーロー(超人)物語は、現実をパロディにして<排除>することを試みる。
「目標も意味もなく生きる。あるいは耐えられない人々、大衆」を排除することで、
排除される「超人」を浮き彫りにする構造が露呈する。
その超人が近い未来において、平凡な大衆を支配し君臨するという文脈を、
内在化していれば、そのシミュラクルにおいて、それを見るものは
演劇・遊戯的出来事の中で、本来自我に関係づけられる主人公や登場人物を喪失し、
自我は四散していく。その喪失感は本来的な、欲望の行き場をなくし、
少なかれ、個人を軽いダブルバインドの状況へおとし、判断行動を躊躇させ、
正常な行動、あるべき欲求を不安体なものにするという危険性をともなう。
意欲作である「原作からのズレ」を狙うものほど、この陥穽に落ち込む。
であるから、自己同一性を保障するものを明確に、示唆するエンターティメント性に、
重点をおいた作品に、評価で負けるのは当然といえば、当然なのである。
・・・と思ってみた。
  

リメイク作品の「ズレ」

2005-06-18 | エッセー(雑文)

「ズレ」は浮かび上がるのか
横に滑り落ちるのか
過剰な加速によるのか
既に馴染んだ物語を再度創る
というリメイク作品の方法は
積み木のように、組み立てていくのか
あるいは、既にあるブロックを流用し
最小の構成要素としての材料に還元し
そして、組み立てていくのか
あるいは、どうしようもなく硬い
建造物を「ズラす」という試みにすぎないのか?
ともあれ、見かけ上は、再構成された作品として
位置づく、古臭い匂いを消し去り、現代的なセンスを
感じさせるものとして・・・。
評価も、その一点にかかってるようだ。
昨年はそういう作品がひしめいていた。
「ズレ」のための「ズレ」に終始することと
多様に「ズレ」ていくことをシミュレートすること
方法はいろいろあるだろうに・・・。



記憶、忘却、想起などの意識の働きは不思議だ。

2005-06-17 | エッセー(雑文)

「これは赤である。」という文の意味することには、
「黄色ではない、青ではない、白でもない・・・。」という意味が
続いてるようであるが、通常それは意識されないが、
フットした時に頭をよぎる程度の頻度がある。
「これは赤ではない。」といった場合はどうなんだろうか?
やはり「黄色ではない、青ではない、白でもない、黒でもない・・・。」と
果てしなく一つの正解を求め、続くのだろうか?
信号機の青色の場合はどうなんだろうか?
「これは青である。」に対し、
「黄色ではない、白ではない、黒でもない・・・。」と続き、
「緑でもあるじゃないの・・・緑だよこの色」そして文化の周縁性に
想いを巡らすのかな?
 「青である。」 という記述されたものでは、
何を意味してるんだろうか?
ただの、否定だろうか? 打ち消しの働きのあとに続く、
意味の模索をあらわしてるんだろうか?
記憶、忘却、想起などの意識の働きは不思議だ。

隠れた意味
沈み込んだ意味
一つの文では一つの意味しか受け取れない。
多義的表現であっても、同時に多義的に意味を
汲みこめない意識のありよう。


記憶媒体=機械モデルは
同時に意味の現われの遅延を埋めてくれるのだろうか?
疑問は続く・・・。 
 

ゲームモデルに近代のパラダイムをもちこむのは疑問・・・

2005-06-15 | エッセー(雑文)

現代はメディア先行によって、情報が商品として流通し、
その結果ゲームと現実が接近した社会になってる。
それは現実を、ゲームの構造で、理解しようとすることでもある。
しかし、ここに近代の哲学原理をもちこんで、その理解を企てようとすると、
いかに市民による相互承認という発想であっても、資本のグロバリ-ゼーションが
もたらす、ハイブリッド化によって、富者と貧者の階層化の再生産を激化させ、
ゲームに参加するものが市民であっても、富者の代理であって、その少数の
メンバー同士による相互の権利を、承認するゲームに変質したモデルが、
提示されることになるだろう。
そもそも、お互いの自由を認め合うというのは、実は権利を認め合うことであって、
権利である以上それを善きものとして、根拠付けているにすぎない。
自由という概念には「選択の自由」とか「~の解放」程度の意味しかあらわれていない。
そのため自由の意味は何かに置き換えられ、遅れていつも現れてくるため、
自律的市民の責任能力ではなく、現実は権力による「当為」や「要請」によって、
「ルール」に従ってるに過ぎない市民という結果をまねいてるのではないだろうか?
けっして罰せられることを、自ら引き受ける良心的市民で構成されてなどは
いないのではないだろうか?
それには、フェアにゲームに参加し、互いに「ルールに意義申し立て」「承認」「変更」
可能な状況でなければならないが、しかし現実は「圧倒的遅れ」としてその意味をあらわす。
そのため、未だ語られぬものと、語られたものの「差」に個人の意識は裂かれることとなる。
ある意味「新しいダブルバインド」にさらされ、判断力を失った階層が出現し、
それは、ゲームの駒でしかない市民という結果をまねきかねない。
「ゲームモデル」によって現実を操作する実感を持つものと、
「ゲーム」は所詮絵空事という実感をもつものの「差」は非常に大きくなり、
その溝は、簡単に相互承認などというもので、埋めることなどはできはしない。
もはや、良心的な市民モデルを前提とした相互承認という概念自体、廃棄するか
再検討しなくてはならないと思われる。
ゲームである以上参加する、しないという自由から、そしてルールの決め方から
検討したほうが有効のようにおもえるが・・・。
そのゲームは見ていても、誰もが楽しめるのかということのほうが、
今は大事のような気がするが・・・。 





「書き込み」の悪意にもとづくもの・・・

2005-06-13 | エッセー(雑文)

2chなどの「書き込み」において、なぜ不平や悪口に
傾きやすいのか、時には悪意にもとづく表現や
荒らしという行為にまでおよぶのは何故か?
それは、表現の獲得により、個人の環境世界が広がり、自我意識が、
飛躍的に広がった世界を対象化し、今までは気づかずに、
暗黙のうちに形成された自分の価値観に、違和感を感じるからではないだろか。
それは一方で、その中における行動の「自由度」を、高めようとする欲求でもある。

その欲求は、既存の自我の価値観に疑いをもたらし、自我を分裂させる。
最終的に新しく価値観を、再構築しなければ、不安定になった自我が回復
(自己の同一性は得られない)することはないだろうし、そのために、
確かなものを自然に求めてしまう。
自分を見失う感覚から回復するために、ほんとうの自分探しが始まる。
この時に、「ズレ」が生じると、異質なものを排除することで、
自己の中の確かな価値観を補強しようとし、自分の信じて疑えないもの以外は
異質なもの=悪であるということになり、自分は正義として、自己の正当性を、
主張することになる。
正義である自分の価値観と対立するもの、あるいは無視するものは、
許されるものではないということとなり、その結果悪意にもとづく表現や
荒らしという行為にまで、およぶのではないだろうか。
しかし自分にとっての真なるものは、自分固有の「真」なるものであって、
一般的あるいは客観的には一つの信念でしかない。
「表現」の中に、自己の正当性の証明という欲求がまぎれ込むという「ズレ」が
いつも起こっていて、その両義的意味合いは言語の本質かもしれないが・・・。
匿名性自体が、悪意を増幅させているわけではなく、ただ、自己証明の獲得に
つながらない表現という矛盾を露呈し、不安におちた自我は、
掲示板においての「書き込み」では、容易に回復できず、瞬間的自己満足を得る
ということを繰り返すこととなり、類型的な否定の立場という表現獲得へといたる。
ある種のポストモダンの状況であるが、市民的欲求の衝突緩和あるいは共通理解の
場を提供することにはつながらないように思える。
批判する正当性の獲得は、共通理解の足場を獲得しなければならず、
例えば、それはフェアな参加を、可能とするゲームのようなものに、
求められるのかもしれない。単純に勝敗を決する目的ではないゲーム、
ゲームに参加していることで、ある種の個人的欲求に答えられる充足感を、
得られるルールを相互に、理解することが必要なんだろうと思ってみた。