moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

異説マグダラのマリアとモナリザを見て

2005-03-27 | エッセー(雑文)
実際に当時の娼婦像が紹介されていないので、
貴婦人との違いが、分りにくい気がした。
娼婦が改心して、宝飾品をすて、
髪をおろし、胸元を大きく開く、
という説明も今一つ分りにくい。
西洋の娼婦というスタイルは、肌の露出が多く、
髪はおろしていたのか、結い上げていたのか?
宝飾品は華美なまで着けていたのか、その逆だったのか?
何点か当時の娼婦像を提示してくれれば分かり易かっただろう。

子供を見つめるような慈愛に満ちた表情というのは、
聖母像を継承したものらしいが、娼婦に聖母を重ねる視点は
独創的とはいえないが面白い。
(日本的な感性ではキリスト教的タブーから自由なため、
時代劇等では幾度も使いまわされてるような・・・。)

典型的な娼婦像は映画などで、奇妙に濃い化粧の女性が、
下着姿で肌を露出し、誘惑している姿だと思うが、
異説モナリザ論の娼婦像とは一致しにくい気がする。
しかし、娼婦と聖母を重ねる視点は現代的な意味としても
失われておらず、逆に強化されている。
メディアで放映掲載される写真や映像に、点在する女性の性的姿、
そのシンボライズされた女性の意味は、性としての存在を浮かび上がらせ、
その性の意味が終着するところは、母なるものに向かうという、
女性の原型を定着させようとする目論見故のためだから・・・。
男女同権を標榜してる現代でも、いや効率を優先させる時代だからこそ
女が子を産み育てるという富国強兵策は変わることがないw。

料理バトルの番組を見ていて

2005-03-22 | エッセー(雑文)
料理バトルの番組を見ていて
一昔前では、ゴールデンタイムには放映できる内容のもの
ではないなと思った。
料理の上手さを競うのではなく、女性タレントが下手さ加減を
競うバラエティになっているため、食材を無駄に扱う事を非難され、
番組として、成立しなかっただろう。
だが、現在は受け入れられてしまってるようだ。
それは、何故なんだろうか?
一つには、女性が料理をしなくなった事が原因かもしれない。
家庭ではお湯かけて3分、解凍しての食事か、外食で済ませる労働者としての女性は、
自ら料理する事なく、食材の良し悪しを見定める目が養われていない。
食材は栄養素の成分表に還元される価値観が優位をしめる教育のもとで、
妙に理系的頭でっかちの女性が増えた・・・。しかし、もとは戦争という、
食うものに事欠いた時代が遠因かもしれない。
明治大正生まれ方には、食材にたいする目利きが優れている方が多い気がするが、
昭和十年前後の方には実践的に、腹が膨れればいいという価値観が圧倒的なような気がする。
その結果、食事に関する概念はズレをおこし、すりかえられ、食事を作ることの軽視観が
蔓延したような気がする。
食事を作る、特に女性が家庭で作るという行為は大事な文化のような
気がするが・・・。なぜなら女性は生む性であるため、その生命の最初の
行為、食うことに携わらざる得ないからだ。
(直接関係はないが一読をお勧めするhttp://www.kgef.ac.jp/ksjc/kiyo/860050k.htm)
食事が大切なことは誰でもわかるだろうが、実践的知恵が欠けては、
その共同体を継続することは、かなわないのではないだろうか?
つまり、日本という国そのものの存亡にかかわるかもしれないw。
現内閣の方針の延長上に、アメリカに吸収合併された日本という州
があっても、なんら不思議ではない気がする。
昔、魚を食ってた日本人は頭が良かったが、肉を食うようになって馬鹿になった
・・・ということを聞いた当時は、そんな非科学的なと思っていたが、狂牛病の事を考えると、
まんざら嘘ともいえないような気がするこの頃である。(また外圧に負けて輸入再開かなw。)



Fire Emblem(FE)トラキア776

2005-03-19 | エッセー(雑文)
Fire Emblem(FE)トラキア776
スーパーファミコンソフト(SF)で、今も遊べる数少ないゲーム。
そのシリーズは、暗黒竜と光の剣、紋章の謎、聖戦の系譜、
トラキア776とあるが、聖戦の系譜ではゲームシステムが変わった。
しかし、トラキア776で従来のシステムよりにもどり、難易度最高の
ゲームになったと思う。
トラキア776はニンテンドーパワー書き換えシステムという、
メモリーカセットに、コンビニでゲームデータを記録することで、
初めは手に入れることができた。その後、通常の販売店に
流通するカセットゲームになり、難易度「高」「低」を選択できる
モードが追加されたらしい。
しかし、その流通量は少なかったので、中古でも目にすることが
ほとんどない、幻のソフトになってるような気がする。
聖戦の系譜と同じ物語世界のため違和感がおおきく序盤とまどう・・・。
さらに、ゲームとしてのバランスの問題もおおく
疲労というシステムのため連続出撃できない。
お金がほとんど稼げない(闘技場使用の余裕がない)。
体格値で担げる、盗みが限定されるため女性ユニットが育てにくい。
特定の能力ポイントをあげるアイテムが購入できない。
踊り子は外伝に行かないと仲間にできない(外伝は攻略上必須)。
敵能力値が変化してるわりに、倒しても経験値がちいさい。
敵ユニットの捕獲が条件の章が多いのに反撃、回避の選択がない。
序盤ユニットが何章後に復帰で、戦力になりにくい。
攻略本がないとかなりきつい展開になり、死者だらけでクリアとなる。
修理屋がなくなったので、貴重な武器が即失われる。
等不満はつきない(とても面白いけど)。
聖戦の系譜が親子2世代の物語であったため、その物語の
構成、展開に特にSFの容量では無理があって、それを埋める
かのようなトラキア776の物語は面白い(整合性に欠けるが)。
出来れば整合性のある聖戦の系譜、トラキア776を構成仕直した
FEをPCソフトで出すべきだと思うが・・・。

いかに次世代機がでても、PCのCPUの性能3Gを超えたものを、
市場に安価に、流通することはできないだろうし(PSPで2.5万)、
これからのゲームソフトはPCとの連動性重視で、「遊び」が
創られていくべきだろう。特にUSBによるセーブデータの共有とかは、
非常に便利なもの、PCのインターネット機能を利用したデータ更新とか魅力的コンテンツには、
事欠かないと思われる。
PCゲームで販売したゲームの一部、一章なりを、携帯ゲーム機にダウンロードし旅行先、
通勤途中遊ぶ、そのセーブデータをPCに戻し、休日ゆっくり、PCで遊ぶ、
もちろんインターネットを利用しユニットの交換とか、
ゲームのBGMを更新するとか、サービスコンテンツを充実させる。
こういう方向性をいち早く打ちだすことが、ゲーム業界の停滞を解決
できるのだと思うが・・・。
たぶんこの方法のネックは、コピーされ易いという問題が生じることだろうが、
ある程度のコピー対策は必要だが、それはシリアル番号のようなもので、
サービスコンテンツを許容できるシステムで解決できるはず、
音楽業界のCCCD戦略のような商品の質を落とす、過ちを犯すべきではない。
一部の出版社にゲーム情報誌としてのコンテンツを任せるのではなく、
広告収益性を伴なったネットコンテンツを各販売メーカーは提供するべき
で、従来の申し訳程度の商品広告HPの情報で、ユーザーが満足できるはずもない。
各家庭に2台のパソコンがという時代、光通信も浸透してきてることも
考えれば、PCを中軸にしたゲーム戦略は当然と思われる。
(あるいは、家電パソコンの機能にゲーム機の利便性をもたせるか、
逆にゲーム機にパソコンの機能を・・・といってもウィンドウズ全盛だから無理と思われる。)


硬化した勝ち組みの構造

2005-03-03 | エッセー(雑文)
勝ち組みという流行語が出て久しいが、
一攫千金の成功者を連想させるような気がする。
しかし、現実はひとにぎりの成功者(資産家)に独占されている。
例えば、一流企業に入社し出世することは、あらかじめ決められている
と噂されているように、地方の資産家の二世、三世が3~5年程度
東京の一流企業に縁故で入り、顔見せ等の親交目的で遊び、地元に帰り
親の会社を継ぐという構造は王道化してる。
日本に限ったことではなく、一族、同族主義とでもいう制度は
資本主義の鉄則のような気がする。
ライブ○○のホリエモンを右翼の大物がピエロと称しているのも
この揺ぎ無い王道化した制度のせいかもしれない。
西武の経営が封建君主に例えられてるのも、王道化した団体に
参加していないことが大きな要因だろう。
この新参者を認めない制度に有効な仕組みは従来通り、
〈株〉の利ザヤを稼ぐ短期的投資家で、資産を増やし、その財を事業を
二代目、三代目へと継承させ、王道化した団体に参加して、
資産家協同組合で役にでもついて、同族化をすすめるということ
ホリエモンが手っ取り早くこの資産家達に迎えられるには
同族化(政略結婚)でもするのがもっとも有力かもしれない。

翻って一般人は逆に同族親族関係を希薄化され、あるいは解体され
孤立化していく傾向が顕著で、その大本はアメリカの帝国主義的
資産家達の陥穽のような気がする。
日本の構成員の共同体としての結束性が薄れ、個人が自立できない
現象が増加してる。その対策が後手にまわるのは国家としての国民
の結束性が失われていることに、なんの危機感も持っていないか
資本主義の本質が、実は同族支配がもっとも効率がよいことに
気づいていないか(日本人は単一民族という幻想に支えられていた)、
要は「仲間われ」しないように国家は〈気づかう〉べきなのだろう。
日本国民皆で豊かになろうという幻想は一面正しかった。
これに変わる幻想が一部の資産家(成功者)とそれに支配される
圧倒的多数の負け組という構造で、国家として成立するのだろうか?
犯罪的宗教の教祖や犯罪的組織の長は、第一に構成員同士の信頼感を
個々に築かれないよう、不信感がうまれるように情報操作するらしい。
そして、あとは個々に飴とムチを使い分ける恐怖支配という結幕らしい。
某国を批判して経済封鎖してるより、この「仲間われ」支配にたいして
危惧すべきじゃないかと愚考するこの頃(w

意味が生じる起源をめぐることのことば遊び

2005-03-03 | エッセー(雑文)
<意味>が生じる起源をめぐることの、ことば遊び(意味の起源を問うということではなく)
歴史的遺物としての沈殿化した価値観が断層として露呈し共時性をもってしまったり、
運命、利益、使命共同体という区切りの中で、個々の現実感覚のズレが多層的に隔たりを生んだり、
リアル感に左右される個人の行動様式だが、リアルは露呈を目的としていて、
リアル=現実と単純に定義することでは理解できないため、堂々巡りを繰り返し、
フロチャートのループするような意味に翻弄され続ける現代の個人。
しかし我々の意味はテキストを共有することで保障され続けてきた。
そのテキストモデルにおいて、意味は前後の文脈に規定される。
その原理原則により、論理性が保証される様相、曖昧性が生じる事も含め考えてみたい。

 あるのか、ないのか解からない、原典復元の基礎的方法論に
  頼らざる得ない、イズム(宗教的、共同体的)としての方法。
 テキストが孕む意味の自己矛盾を
  見つけ出し、その解釈の妥当性の道筋を発見する、学問的方法。
 メタ言語⇒
  パラ=ロジカル(平行的、多層的論理構造と便宜上仮称)⇒
  記号論的展開
  油絵のように幾つも塗り重ねられる意味の層、
  表層は一義的な意味に定義づけられてるように見えるが、
  定義そのものが、幾つもの時間的意味における相(多義性)を含み、
  一面性が幾つもの層を構成し、以前の意味を隠し、
  新たな意味を構成するような、相互に意味を塗り重ねていく方法。
  (詭弁術に似て非なるもの?)

以上のようなイメージにおけるテキストの
曖昧性は十進数的尺度によるのかもしれない。
1+1=2というように答えは一つといわれるが、
十進数はテキストに組み込まれると、
非常に曖昧なものになるように思える。
(論理学の代数モデルがなぜ有効に機能しないのか?)
そう仮定して、その対立する原理として、
イメージにおける二進数的尺度(PCの絵、音のパズル化)
について考えてみるのも面白いかもしれない。
最近では、落ちゲーというパズルゲームがその例かもしれない。
この単純なゲームは形とか色が揃う事で意味が発生する。
その意味も0か1というON OFFでゲームが形成される。
このゲームが得意な子は音楽的才能にも優れてる傾向が見受けられるような気がする。
そのため、音楽もこの0か1という原則に規定されてるのかもしれない。
(自閉症の子も絶対音感という才能に恵まれてる場合が多いようだ。
脳の思考の基本機能をコンピュターとの機能と比較する研究があるようだ。)
CDがWAVEという情報によって統一データ化され、PCではmp3が
主流になって久しい。そのPCのデータが二進数により構成されている。
音楽は時間の芸術といわれるように、5分を要するものを短縮して
感じること、表現することはできない。存在と時間という視点
本来、その<存在>そのものは二進数の論理なのかもしれない。
しかし、特に普段聞くJPなど歌詞のついた音楽は、テキストの意味に
還元される傾向が強い。
いわゆる、演歌などはその詩も起承転結という文章ルールに準じて、
その結果曖昧な世界観が表現されことが多いようだ。
それとは別に流行りの、JPと称される若者向けの歌詞は、
早いリズムに合せるため、詩は、比喩的、象徴的傾向を強め
現代の短歌俳句のように、もしくはニーチェ流アフォリズムのような、
さらに落ちゲーのように詩がパズル化し、Feel「感じる」こと優先の
詩の構成になってる傾向が見うけられる。
テキストのように意味を読み込むのではなく、
短い句が重なることで、意味が噴出する構成とでもいえばいいかも
しれない。これを意味のパズル化と称するのも面白い。
この意味のパズル化の傾向はパラ=ロジカル的ものと似たような構造があるのかもしれない。

パズル化が二進数的意味への移行だとするなら
パラ=ロジカル的ものも同様なのかもしれない。
具体的利益共同体を主軸とする世界観と自己イメージ<感>のズレ
離人的、分裂的感覚、さらに軽鬱症の増加は、テキストが二進数的
意味へ移行してることに取り残され、判断保留もしくは思考停止という混乱状態のような気もする。
二律背反的、二重拘束的状態の混乱は、適切な情報取得によって
解決出来るように思えるが、競争原理が情報を独占させる傾向を生む
ため、個人はその疎外性からのがれることができない。
本来の個人は自我に埋没しては単純な意味さえ見出せなくなるが、他者との関係性が
重要なのは周知だろうが、その関係性がうまく社会で機能しないのはなぜなんだろうか?
疑問は続く・・・w。