moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

商売としての精神・心理カウンセリング 雑感

2006-08-31 | エッセー(雑文)
http://cp.intl.match.com/jpn/msn/msnjp/cnt/love2/014.html?tcid=240874
という記事をよんだが、恋愛力というスキルあつかいにされた方向性を
心理カウンセラーが提示しているのにはあきれた。
利潤追求型の流行を先行させるコンセプトはアメリカ企業が求める
会社員のスタイルであって、日本・東洋的道徳の伝統と相容れない
気がする。
伝統的な儒教型では、普通の「礼儀・振る舞い」そして社会人としての
当然の心構えを、いかにもアメリカ型の利潤追求を最優先させる方向へ
「愛を信じない、優雅な金持ちスタイル」と変容させている。
西洋では、伝統の罪滅ぼしのボランティア活動で、免罪符を受けているから
それが、ブレーキになり、倫理的な行動で帳消しになるが、
エコノミックアニマルといわれ、西洋伝統の罪滅ぼしのボランティア
活動に消極的な日本では、女性が恋愛をスキルに組成させて、
何が残るのだろうか?
恋愛を仕事にして、次々に男を乗り換え、社会的ステータスを向上させる
いわゆる娼婦というスタイルしか残らないのではないのか?
イエローキャブと蔑まれている現・日本女性には、相応しいのかもしれないが、
東洋的倫理観、アジアにおいては日本女性は、とり残されるかもしれない。

アインシュタイン、チャップリンらの日本びいきの第一の印象は、日本人の
「控えめさ」という道徳性であった。
伝統的な儒教精神に育まれた日本女性の「控えめさ」が、優れて評価されていた
のではないだろうか?
とするなら、韓国、中国の女優が、西洋的に受けがいいのも当たり前で、
「控えめさ」をベースに適正な自己主張・判断を下せる役柄が多くなっているのだから・・・。
それにひきかえ、日本の女優は最大公約数的に、アメリカンな自己主張のキャラが
一般的に受けがよく、いわゆる「お笑い芸人・女優」が人気があるのであるが、
それは女性観客の支持によって成立している。
「控えめさ」をイメージにもつ女優は、男性観客やスタッフの受けは良いが
特に若い女性観客の支持は少ないようである。
この方向性は、将来的に家族に献身的な主婦像を壊し、個人主義に埋没した
離婚優先型主婦像を定着させるだろ。
その結果、家族は崩壊し、土地的に小国である日本の国力は落ち、滅ぶだろうw。
昨今の「わが子を平然と殺害する主婦」の事件を許容する精神的土壌は
中途半端な個人主義的利害感であり、西洋的宗教倫理を否定し、
かといって伝統的儒教・仏教的倫理をも否定され、精神的よりどころを
失わせた教育制度に問題があるのかもしれない。
結果「金(かね)至上主義」と新興宗教などの組織による暴力に囲い込まれる
哀れな子羊の群れと化す群集が残るのである。
・・・だとするならやはり、コードの意味を早急に理解できるセンスを
磨く教育制度を、「リテラシー教育」などを展開していかなくては
ならないのではないか
西洋的倫理と東洋的倫理がぶつかれば、ペシミズムが発生する。
たとえば、ショーペン・ハウエルからニーチェの系譜はこの過程の
代表的なものだろう。
今の日本は国際競争という舞台で、西洋的倫理と東洋的倫理の狭間を
後回しにしてきたツケに追い込まれているのだろう。
ペシミズムに「鬱」という病名を与え、薬づけ治療に囲い込み、
民衆は家畜のありさまである。
その一役を担う精神科医や心理カウンセラーは、真っ先に反省して
ほしいものだが、といっても、促成栽培された精神科医や心理カウンセラーに
知的センスは期待できないが・・・。

意味(コード) 雑感

2006-08-17 | エッセー(雑文)
男性の軟弱さ、古来より英雄色を好むといわれるが、
特に「可愛い女の子」の媚び諂いの表情に、
軟弱になってしまうのは、
小犬が、仰向けになって腹を見せる服従のポーズの
「意味(コード)」として受け取られてしまうからだろう。
真に軟弱になった男性に向け、雑誌グラビアには媚び諂いの表情が
溢れ、特化したAV作品では女性の媚び諂いの表情一色になっている。
こういう幻想「意味(コード)」が蔓延する社会性というのは
問題であるが、女性が軟弱になった男性労働者に向け、媚び諂いの表情を
とることで、再生産システムがうまく機能しているようだ。
所詮、被支配者層による男性労働者によって運営される社会性は、
女性コードに支配されてしまうのであるが・・・。

「意味コード」に従い運営される社会性は、根本であって、
それは、容易に破壊することができない。
近年では、ホリエモンやムラカミなどが不用意に
それを変えようと試みていたようだが、其の志向性において、
小泉政権とも同調していたようであるが、
政治において、その姿勢は慎重であり、「意味(コード)」が
ズレる時を、その機を窺っているにすぎない。

歴史的に信長が「意味(コード)」を徹底的に変えようと
していたらしいのであるが、それは戦国乱世の時代で
価値観が浮き足立っていた背景が、長く続いていたためであり、
それに飽きた民衆の意思のようなものを土台とすることが
できたからである。
しかし、一方で上杉謙信のように、中世的な「意味(コード)」社会を
理想とする武将もいたわけであり、その常勝無敵ぶりは
社会「意味(コード)」的に考えると、やはり、多くの民意は
伝統的な価値体系に帰ることを望んでいたからではないだろうか。
だから、信長は勝利一歩手前で、足元をすくわれ、造反されたのでは
ないだろうか。
一説に、明智だけではなく、羽柴、徳川、柴田などの武将らの
密約があったとされるのも、急激な変化に対する抵抗が
強すぎたからであり、徳川政権においては、中央集権的な
律令国家のシステムを幕藩体制に取り込んでいる。

地方分権を主張される時代になって、
幕藩体制の藩経営のシステムが見直される傾向が生じることが、
予想されるが、すでに会社経営のモデルが武家社会の階層性を
モデルとしていて成立しているわけであり、
サラリーマンの理想像は武士モラルが実践できるものであり、
其の伝統は、スポーツ選手に養成されていることが多く、
そのため、優先的に会社はスポーツ選手を雇用するのである。
しかし、一方で県職員などの地方公務員は、貴族的律令制度に
おける中級官僚を理想モデルとして、その職務を遂行しており
21世紀国際社会といわれる時代になっても、
武家社会と貴族的律令社会のコード的な対立構造が背景にあるのは
とても面白い。
田中・元知事になった背景はコード的対立によるものであり、
貴族的な価値観を擁したいのか、横浜のように武士モラル的な
価値観を擁したいのかという差に過ぎないのではないか?
本来はコード的対立を解消すべく、政治は動かなければならない
とおもわれるが、目先の利権に左右される近視的状況の
市民(コモンセンス)であっては、それも叶わないだろう。
政治によって、コードを創造し変えようとしても無理なのであって、
既に対立しているコードの解消によってしか、
社会的コードは変化しないのである。
国際社会においては、社会的コードの変化という視点が
養成された政治家が活躍できるのではないだろうか。
・・・とするならポスト小泉に立候補している輩を
みるにつけ、絶望的にならざるを得ないのかもしれないw。

CMタレント浅田真央・・・

2006-08-10 | エッセー(雑文)
http://olympus-imaging.jp/mju/tvcm/image/maoMovie.wmv
これを見ると浅田真央はCMタレントとしての顔が
形成されつつあると感じられる。
(・・・これによって表現性のスキルアップかな)

先日のフィギュアの大会も見たが、浅田真央は、やはり特別扱いであり、
たしかに表現性もいちだんと豊かになっている気がした。
レイバック滑走の右手ヒラヒラも工夫された演出になっていた。
全体的に女子フィギュアの演技が、「踊り、舞う」ということに
コンセプトが強調されているように思える。

すっかり引き締まった安藤美姫の演技も、強烈なスピードと大きな手足の
振り付けであり、そして跳躍力を感じさせる回転技になっている。
浅田舞は安藤と同じ年だと思っていたら、まだ高3らしいが、
恵まれたビジュアルと優雅な振り付けによって、バレーを見てるかのような
印象を受けた。
これで、ジャンプ技にミスがなければ、姉妹そろって表彰台も夢じゃないかも
・・・と期待させてくれる。
しかし、女子フィギュアの選手は層が厚いと感じさせる放送であった。
(TブSの亀dÅ擁護番組に比べ、清涼感のある
スポーツエンターティーメントであった。)

物語性において、時間を切り取って見せるということは・・・

2006-08-06 | エッセー(雑文)
物語性において、時間を切り取って見せるということは、
時間のズレを感じさせ、それは意味のズレの源であり、
分岐していく流れを垣間見る拠点を獲るということになる。
そして、自分さらに人の行為を反省的に捉えなおすキッカケを
つかめるのであり、歴史というコンセプトを生み出し、
個人は孤立から自由になりうる機会をつかめるのである。
個人の命は50年~100年という限りがあるが、
しかし、「時間を切り取って見る」という行為がある限り、
その命に限りはなく、一種の対話が続くのである。

映画や音楽は「時間を切り取って見せる」最たるものであり、
ときにそれは、過激に過剰に強制的にと、権力に利用されるが、
その権力でさえ、「時」によって意味を成しえているのであり、
ある意味ロゴス性にそわざるを得なく、無理強いは己を滅ぼす意味を
連ねるのである。
我々の普段のなにげない会話にも、時間を切り取り、
互いに了解しながら、意味を共有しているわけだが、
だからといって、数学的に=として進行しているわけではない。
意味は発生するかのように見えるが、本来は変化に過ぎなく、
その変化が、流れの勢いからいくつもの支流に、分岐していく時、
ズレを感じるのではないだろうか?
小説や哲学論文であろうと、その構図に変わりはなく、
漫画のような絵を連ねるものでは、
そのデザインの意味や「時間の切り取り方」が
容易に再見しやすいので、さらに共有しやすくなる。
これが、さらに複雑な構成を要する映画になると、
不可逆性がともない、一種の制作者側の呪縛にからめとられ、
「時間の切り取り方」は分散して受け取られていくのである。
観客の趣向によって、大きく感想が変化するのも
再見に時間を要するためであり、その「時間の切り取り方」の
見せ方は早すぎて、意味が浮かんでも気づかず、
通り過ぎることもあるからである。
「時間の切り取り方」というデザインを意識することが
これからの、社会人にもっとも必要なセンスになるだろうし、
それによって、鬱傾向の社会現象も下火になるのではないだろうか?