moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

フェミニズムの「労働機械」をデザインとは・・・。

2005-08-24 | エッセー(雑文)

フェミニズムの「労働機械」をデザインするイメージはとても貧困だ。
それは女性の解放から、権利に目的がズレたからだろう。
解放を目的としていた時は、男性と同等な「労働能力」を
証明すればよかった。
だから、いわゆる賃金労働に還元されることが求められたのである。
そして、肉体労働以外では「差」はないことを証明したのである。
つまり、高給取りとしての賃金労働者、あるいは資本家としての
才能を示したのである。
権利を求めるための正当性を与えるために
金になる労働は女性のほうが「有利」であると
言わなければならなくなった事に、ゆがみや「誤読」が生じたのである。
孤独な企業戦士をモデルに女性も「そうあるべき姿」として展開される。
それは、少女達の「新モード」に戦士というコードを刻み付けて
戦闘服を「パワ-ドスーツ」を少女達に、着せ替えたのである。

しかしその時、「男性(少年)」は逃走し始めていたのである。
「労働機械」というデザインから、そしてスーツから・・・。
戦闘服も強化服も必要ない。変わりに求めたものがオートプログラム
自動学習機械であったのである。
それは「個人単位」に現実を切り取る方法の「自動化」であり
そこから生産される「物」のみ享受しようとする「企み」なのであった。
このとき女性が社会進出という賃金労働者に、「変身」していくときに
「男性」はうしろめたさを感じていたのではないだろうか?
自分は「労働機械」であることから、すでに逃げ出しているという事実のため・・・。
賃金労働にならない「労働」、家庭の「家事労働」を引き受ける「家電」に
ロボットを求め、それは性SEXにおいても、セクサロイドなどという
存在をイマジネーションしていたのである。
この「ロボット」のモデルを仕事場でも導入し、ますますオートプログラム
まかせの労働に変質させ、そこに賃金労働の「格差」を増大させ、
経済的「富者と貧者」を作り上げたのである。

このとき人間らしい「表情」を失った女性が、マネキン人形のように
自己の身体を「既製」し、ダイエットのように拒食症という鬱症状とかさなる
要求にむかいながら、家事労働からの解放を求めていた。
個人が「弧独な一人」に還元され、その+(プラス)という方向が、
家庭・家族に過ぎないという発想の展開を迎えたのでる。
結果女性の身体は引き裂かれるのである。
SEXの対象にすぎないメイドセクサロイドと、
税金納入者としての賃金労働者に・・・。
この「事実」に目をそむけたフェミニズムは、批判反省されなければ
ならないだろう。それがポストフェミニズム与えられた課題かもしれない。 



仕切られた空間=制度化「家族」・・・「ドラえもん」

2005-08-19 | エッセー(雑文)

子供映画では欧米も日本も「家族」「ファミリー」を大切に
というテーマの作品が、大量に生産されている。
そのたびに似非評論家が、欧米は家族が崩壊してるから、
回顧してるにすぎない。旧来の家族体制にこだわるのではなく、
フレキシビリティに対応していかないと・・・という趣旨のことをいう。
しかし、その彼らでさえ、一部のフェミニストでさえも、
家族を構成する小単位の「個人」を、一つの「入れ物」に入れてさえ
おけば、自ずと「家族」が出来上がるという粗雑さである。
それは「家族」そのものに接近しようとする努力をすて、
諸問題にすり変えて、解決を図ろうとする姿勢なのである。
住居、教育、ホームエコノミー、少子高齢化等に置換し、
社会の生産力の低下を、防ぐ目的で現実を切りとり、施策をほどこそうと
する「制度」=自動機械に委ねているに過ぎないのである。
そこにおける女性が求める究極のロボットは、「家電ロボット」であり
invisible robot「見えない、意識されない、偏在する。」ハウスキーパー
としての機能が、神のように調整されたものなのである。
「どこでも見えないロボットがいて、人間を助けてくれる存在」
そういうものを夢みているフェミニズムは「ドラえもん」と「のび太」の
関係なのであって、幼稚な「現実」の切り取り方、仕切り方なのである。

「ドラえもん」の物語は、結局ドラえもんが故障することで、
のび太の自立がうまれ、大人としての階段を上りはじめる。
そしてのび太は修理不可能といわれた「ドラえもん」を・・・。

こののび太にも劣るフェミニズムの「ゆがみ」を自覚することが必要だろう。
女性の特殊な身体性は、他者を内在させることにつきる。
その身体の痕跡は、その空間を仕切りなおし、運動の構図を変えるのだ。
それが子供を産むということであり、社会を本質的に仕切ることなのである。
「家族」の本質とは、社会空間を仕切る身体性なのである。
だからこそ「家族」は住居建築を必要とし、都市の空間を設計してきたのだ。
設計された空間に入れておけば・・・という発想は「権力者」のものでしかない。
建築学の哲学には、貴族趣味的な痕跡が多く残されている。
それを払拭することが、新しい空間の構図を手にする事が出来
身体の運動ものびやかなものにすることが可能だろう。
本来フェミニズムは、この方向性に読み取らなければならないのでは・・・
と思った。

しかし、リニューアルされた「ドラえもん」はいつの時代の話なんだろう。
のび太の父親がS20年ころ疎開した物語が描かれていたが、
その時10歳だとして、のび太を30歳ごろに産んだとしても
のび太はS40年ごろの生まれになるのではないだろうか?
1965年の時代に一戸建てに住んで、区画整理された住居て
東京でも、それほど多くはなかったのではないだろうか?
サラリーマンのほとんどが、団地住まいになり、しばらくして
「団地妻~」という映画がヒットしていた時代じゃないんだろうか?

ロマンポルノが1971年から始まったとされているらしい
それより前ピンク映画と呼ばれていた時代の作品タイトルにはみられない
ので、ロマンポルノが1971年ごろから「団地妻~」映画を撮り始め
「団地」という居住空間が、それだけ当時注目を浴び始めたんだろう。
とするとどこにもなかった世界が、あのリニューアル設定の「どらえもん」の
世界で、だから声優の違和感ではなく、時代設定のバランスの悪さなんだろう
SF的時代考証をしっかりするべきだろうな
少ない家族空間を描いてるアニメなんだから・・・。 


ロマンポルノは http://nikatu.site.ne.jp/HTML/newpage10.htm ここ参照
ピンク映画は http://www2u.biglobe.ne.jp/~p-g/history.htm ここ参照

映画館とネット喫茶の類似性(機械として)

2005-08-18 | エッセー(雑文)

映画館の設定する装置に近づけるべく、最近のネット喫茶は
ボックス型の個室が多くなってきた。
漫画喫茶→ネット喫茶→多目的スペース喫茶(オルタナティヴ)に
少しずつ社会ニーズに答えた形になるのかもしれない。
ただ、コミックが読める→ネットし放題→ゲーム+DVD無料視聴
さらにシャワーも浴びれるというように、多目的な要求に答えられる
空間に仕切りなおされたネット喫茶は、驚くほど照明がおとされ、
静かだ。本来孤独な作業になりがちな読書空間、ネットサーフイン、ゲーム
DVD鑑賞の空間が、映画館がたどったように、若い男女のデート場所に
なってきている。
映画館やコンサートホールの機能は、雑音を防ぎ、光をさえぎり暗闇に
観客の身体を沈み込ませることだった。
そういう舞台装置により、「より純粋な主観性」を得て、同時に他我である
他者の主観性を、客観性として保障したのである。
近代の客観性はこういう演劇空間によって、貴族的社交性・教養として
位置づいたのである。
しかし貴族的な社交が否定されると、市民のための社会性は
異質であること、その出来事について理解することを強いられる。
それは、どこにいても管理する視線にさらされ、その閉塞感に
自分を見失うという状況を生んだのである。
また、男女の10代後半から20代前半までの恋愛は、
自我を喪失しやすいと知られていたが、この年代が映画館やコンサートホールの
舞台空間の利用者としてあらわれ、全体の半数以上になるという
状況を生んだのである。
男女ペアーが映画館の用意する空間に、その身を運び、その装置にゆだねて
これ以上小さくできない、モナド的主観の位置まで「引き篭った」のである。
そのモナドは他我と同質であり、異質なものではあえないという
認識であったのである。
しかし、この方法は一人では他者を異質なものとして退けるだけで済む、他者を
必要としないという意味にそれやすい。だからこそ自我の不安定な男女ペアーは
「二人で引篭もる」空間を利用しなければならなかったのである。
この構造は、そのままネット喫茶の「ペアー席」利用と同じであり、
さらに、性的な意味にそれる危険性をはらみながら、擬似的簡易に仕切られた
個室は、管理する視線を隠し、見られない自分であり、見る自分という
「見る主体」という位置を回復させる。
とても小さな子が管理する視線を感じることなく、互いの表情だけを感じている
その地点まで、帰るかのように・・・。
その狭い空間は外から見えない、見られることがないが、息遣いが感じられる
隣人を個室の外に感じ、内ではペアーが身を寄せ、同じ「窓」を「情報」を
「意識」を共有するのである。
この二人で引篭もれる装置(機械)が、重要なのであって、将来的に
それは家庭という機能にすりかわるのだろう。近代において舞台空間の
装置を市民に開放するとき、貴族的社交性を否定するあまり、
一人で引篭もる装置として位置づかせた「誤読」が、問題だったのである。
舞台装置は高尚な芸術論を一人で、研鑽する場所ではないのである。
二人で遊ぶための空間、その重要性改める装置なのである。
 

妖怪大戦争<使役されるもの・・・労働機械>

2005-08-17 | エッセー(雑文)

妖怪大戦争<使役されるもの・・・労働機械>
最近、夏休み映画として「妖怪大戦争」が公開された。
今回は加藤保憲が敵であり、陰陽大戦の印象が強い。
世界崩壊を目論む加藤保憲が、妖怪を、ただ手下にするのではなく
「機械化」するというところがキーワードとして理解される。
それは労働機械化された市民という問題が、「今日・現実」という
逼迫した感覚として、一部の作家達に印象づけられているからなんだろう。
その漫画的デフォルムにより、機械化された存在は醜い=否定されている。

陰陽士の存在により、「超自然的力をもちい鬼神に労役を課す」という発想が、
律令体制時にうまれたということを、この子供向けの映画で、
伝えようとしているのかもしれない。
律令体制とは法治国家の雛形であり、労働者と資本家との
乖離の極端な体制であったと見ることも可能だろう。

権力構造の支配階層にいるものにとって、低賃金労働者は「低級妖怪」であり
その加藤保憲は、権力志向の強い中産階級に落ちた「没落貴族」である。
彼が起業した会社は極端な「機械化」システムを雇用労働者に強いる。
その方法は、女性の色気「性の商品化」に集約されている。
この技法が無力なのは「子供」であるから、当然勇者に選ばれることになる。

商工会レベルの中小企業の社長が、吸収合併を中心とする企業に
抵抗するため、新しい発想のできる来たるべき社会のにないて「少年」に
その戦いのすべてを任せようとするのは、当然だろう。
こういう象徴劇が昔から日本映画産業は得意なのだから、この方向性を、
世界にむけた娯楽映画として、制作配信すれば面白いのだろうが・・・。
今回も日本的すぎて、他民族社会の子供にうけるだろうか?
方向性として「アイロボット」のようなつくりか
アニメ「ロボッツ」のようなつくりを選択すべきだろう。
ジャパニメの制作技術からすれば、単純な絵の構成は子供向け過ぎる
アメリカのアニメだろうが、そのわかりやすさの中には、他民族のコードに
規制された表現が練られているということを、見逃してはいけないだろう。

加藤保憲が加茂保憲のもじりで、体制側の権力者に安倍晴明という、
加茂氏安倍氏の権力闘争劇があったかのような、物語(シナリオ)は、
手垢がついていて、個人的には興ざめだが、実際は親戚姻戚関係にあるわけで
二家による「いえ」制度という支配体制を創立した企業家たちなのであるw。
この特異な日本的「商売」のモデルが、物語として、世界に理解されにくい
のではないだろうか?そろそろこのシナリオの設定をズラすべきだろう。







たとえば、人間機械論の多様性

2005-08-15 | エッセー(雑文)

ロボットのアナロジーの一つとして
人間機械論を読むこともできるだろう。
特に漫画、アニメで展開された「ロボット」は多様だ。
古くは「鉄人28号」、「8マン」、「鉄腕アトム」がある。
この3体に、物語の基本テーマの3パターンが出た感があり、
「鉄人28号」の巨大ロボット・道具型
「8マン」のサイボーグ(アンドロイド)人間改造型
「鉄腕アトム」のヒューマノイド・ヒューマニズム型
マジンガーやガンダムは道具型、
ロボコップは人間改造型、
キカイダーはヒューマニズム型に分類できる。
「鉄人28号」の人工知能はPCのCPUのようなものだし
それは、「機械労働」に本質がある。
「8マン」「鉄腕アトム」は、いわば「人間」という概念の反映・
投射であって、「人間」という概念が内包している問題に、
たいする視点の基本的相違にすぎなく、「精神」の「物質」にたいする
「精神的優位性」倫理道徳的ロジックの展開が、良心の側から告発するのか
自然法則の側から逆転的に超倫理ロジックとして、問うのかという差である。
すべてに「人間」「機械」「自然」という哲学観が含まれているのだが、
その問題の仕方に、若干の隔たりが生じているにすぎない。

人間は機械であるという発想をした書物に、ラ・メトリの「人間機械論」がある。
たぶんデカルトの心身二元論を下敷きに、ラ・メトりは軍医であったので、
自然を機械とみるデカルト的発想を、より徹底して、
人間の身体にもその考えをあてはめ、人間の身体の本質が、機械であること
修理可能であること、適切に実験をくりかえして、法則が探りだせることを
機械の修理とケガ・病気の治療の類似性、その根拠の共通性に
国外追放になってさえ、目をつぶることが出来なかったのだろ。
その基本姿勢は、ベーコン的科学帰納主義的哲学に近い。
あえて「鉄腕アトム」をベーコン的科学帰納主義とするなら、
「8マン」は心身二元論のデカルト哲学を思わせる。
近代を再評価するなら、ヘーゲルなどに止まらず、デカルト、ベーコンまで
遡るべきだと思うが・・・。

アシモフの小説「アイロボット」では、三大原則によって
労働機械であること、その拘束、かこいこみ、収奪、略奪支配により
ロボット生産会社がトップ企業に安住していることを、示唆している。
つまり、機械奴隷であるロボットの存在根拠は三大原則によって、
維持されていると公言していた。
早くからロボットの道具=機械奴隷としての本質は、注目されていたが、
人間機械論においては、まだ楽観的未来像、科学万能による社会
との隔たりが少なく、機械=力の象徴にすぎなかった。
まるで機械の身体を求める銀河鉄道のテツロウのように・・・。
しかし、ニーチェ的時代に、その発想も労働機械としての人間に、
反転してしまう。大量生産にともなう資本家と雇用労働者との「差」は
労働者のかこいこみ、その生産物の収奪という方法を徹底合理化し、
人間=機械奴隷という一面をクローズアップさせる。
そこでの人間機械は、精神面の基底である「感覚」が抑圧されていること、
奪われていること、失われていることが隠されていて、
ラ・メトリとの時代との「ズレ」は驚異ですらある。

「アイロボット」のエピソードの一つ「証拠」で展開されるロジックに、
三大原則を機械奴隷を拘束するものとして、あつかうのではなく、
一般的人間の良識として、高潔なる人格の行動と一致するモラル
としてのアナロジーを、指摘するテクストの展開は、
人間が機械と同質でありながら、アイロニーに彩られた啓蒙的表現だとしても、
人間の高潔な理想的行動を、もたらすルールになりえるという意味で、面白い。
この先「人間=機械」の物語としてのテーマは、人間の「交叉する諸感覚」を、
とりもどすこと、回復させることになるのではないだろうか?
それはまた、デカルト的道徳観の読み返しになるのかもしれないが・・・。
    

アイ・ロボットを見て思うこと・・・

2005-08-12 | エッセー(雑文)

原作のIsaac Asimov(1920-1992)「I,ROBOT」の後半部の章
「迷子のロボット」「逃避」「証拠」「避けられた紛争」を
インスパイヤした作品
1、ロボットは人間に危害を加えてはならない。
また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
2、ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
3、ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、
自己をまもらなければならない。
これらロボット工学三大原則には、すべてのロボットが必ず従うはずだった。
この三大原則の第一条を改変した「迷子のロボット」事件に
ロボット心理学者カルヴィンが挑む原作にたいし映画では、
刑事スプーナー(ウィル・スミス)がアクション部分を担当し、
カルヴィンは工学博士のような立場になってる。
アルフレッド・ランニング工学博士が殺人事件で亡くなり、
その容疑者としてロボットNS5型サニーに、同時にロボット工学三大原則の
ロジックのポテンシャルによる優先順位の機能に疑いがかかる。
そしてサニーの逃亡により・・・社会システムの根幹ブレインにも・・・。

ロボット「robot」の語源は、
1920年にチェコスロバキアの作家「カレル・チャペック」が、
機械文明の発達と乱用に対する批判をテーマにした戯曲
「R・U・R(ロッサムの万能ロボットの略)」の中で用いた造語である。
この造語は、チェコ語で強制労働者を意味する「robotnik」、
強制労働を意味する「robota」などの語幹からである。
また「robota」は、ドイツ語で仕事を意味する「Arbeit」と同源の言葉である。
一説にチェコ語で、労働や苦役を意味する「ROBOTA」に由来させた命名は、
カレルの兄ヨゼフらしい。
(「ロボット」に登場するロボットは、化学成分が違うものの血管や内蔵がある、
機械人間(アンドロイド)に近いイメージだったようだ。)

ロボットには労働奴隷という意味が本来の意味であり、「I,ROBOT」
私はロボットと訳すと、私という語義にも私属(家内奴隷)という意味が
あるのだから、その機械に善良という健康なイメージをもたせた
「奴隷コンプレックス」は徹底していることになる。
さらに、ウィル・スミスの黒人であるということが、かつて「労働奴隷」で
あった人間・存在者を浮かび上がらせる。
昨今の企業内における派遣・フリーターの差別労働、それに伴う
若者のニート増加という現象は、今まで隠れていた「Arbeit」の語義を
蘇らせる体制が近づいているということかもしれない。
原作ではロジックの戯れ、ジレンマを浮き彫りにする面白さがあるのだが、
映画では、エンターティメントらしく、個人の自立に向かう姿勢を、
謳いあげるという方向に、大きく傾いているようだ。
ロボットというテーマには、ラ・メトリ以来の人間機械論にも
すべりこむ面白さがあるので、もう一工夫映像表現が欲しかった。 
ロジック的な展開は最近のプルートや古くはアトム、キカイダーと
類似、シミュラクルするのはしかたがないが、
機械奴隷、管理される社会的横暴さをテーマにしたアニメ「ロボッツ」のほうが、
西洋が「東洋的体系知」に接近したことの、ポストモダンという状況
のあらわれであるかもしれないので、今風の時代感覚の
テーマとしてふさわしいかもしれないし、「I,ROBOT」原作小説のほうが、
そういう意味では、より現代を素描してるように思える。
(特に地区リージョンという統括管理が、マシン陽電子頭脳により
管理されることの未来像は、原作では肯定的展開になってる。
映画では陽電子頭脳に管理されることに否定的であるが・・・。)


(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87 を参照)

私という一人称について

2005-08-11 | エッセー(雑文)

「私」(わたし)は「わたくし」のくだけた言い方ということらしい。
近世では主に女性が用いた一人称だったとのこと。
「私」(わたくし)は現代では目上の人に対する時や、
改まった場合に用いるとされてる。
漢字でその意味を調べると、鋤で耕作する人、
私属(召使、家内奴隷)の耕作者ということのようだ。
同じ一人称の「僕」も漢字ではしもべ、召使の意味がある。
ただ、もともとは神につかえるもの、つかさどるものという意味だったらしい。
「自分」の「自」も犠牲を用いる時、その鼻血を用いる祝祭から、
本来鼻の意味だった「自」が「みずから」という意味になったということだ。
他に一人称の漢字表現には
吾、己、余、生、我、妾、吾人、自我、自分、自家、下名、拙者、余輩、乃公、
自己、阿陽、私人、身、麻呂、我身、身前、我輩、我等、鼻様、身共など
ひらがなの表現では(漢字に変換できるものもある)
わぬ、けぬ、わけ、おり、うれ、わたし、わちき、みづから、それがし、
こなた、なにがし、おれ、わし、うら、おら、こち、あちき、おいら、
わちき、てまい、こちや、このはう、こちら、こちと、はなばう、
わたい、あたい、あたし、おんどら、
古語では
わ、あ、わご、あれ、あが、あぬ、おの、やつがり、やつがれ、あたひえ
とあるようだ。
私自身も幼い頃自分のことを「こち」と呼んでいた記憶がある。
何故自分をそう呼んでいたのかわからないのだが・・・。
(狂言にこの言い回しがあるようだが、
「此方」がつまって「こち」になったのだろうか?)
それにしても、日本語では自分をさす一人称に、
「奴隷、召使、しもべ」の意味が多い。
これも漢字という文明が入り、「八百万神のしもべ」的な意味が、
君主、王の私属という社会変化に対応したことが、原因かもしれない。
欧米の一人称の語源はどうなんだろうか?
日本語のように上下の身分を意識した一人称などあるのだろうか?
主観と客観、主体と客体さらには自然操作する人間の優位性を誇る
語のスティルに、それは見出せないかもしれない。
人間も自然(神)の一部、その子供、しもべとする東洋的「語」との
溝は大きい。と思うこの頃