moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

文字=存在しないもの?

2004-09-18 | エッセー(雑文)
存在論とか認識論とかいわれる分野がある
素人目には不可分な分野に見える。
科学的視点において認識されないものは、存在しないという
傾向が強くなってきている(実証科学的思考)。
しかし存在は観察者の位置と相対的に変化しつづける。

幼いころ読んだ世界不思議物語等には、
マヤ文明とかには文字が無かったとか、
幼いながら合点がいかなかった記憶が・・・。
高等な天文学さえ存在した文明に、文字がないのだろうか?
言語のシステムのうえに成り立つ、文化を否定しているのか?
消えた文明社会は、その存在を沈黙させられたのかもしれない。

文化人類学・・・初期のフィールドワークを主とする方法は、
実は植民地計画の情報収集のひとつだったらしい。
東洋的にいえば遁甲の術、忍術(スパイ)の起源とされている。
つまり今でいう情報操作、撹乱の戦略・戦術である。
支配層にとって都合のよい歴史が記録され、存在は非存在へと
認識されないものは非存在へと展開される。

では現代、日常的個人レベルでは、存在はどの様に認識されているのだろう。
都市を中心とした社会では、消費生活が主な行動形式として標準化され、
新しいイメージを商品として提示、それを消費する実体なき社会に変化し、
そこで生活するものにとって、イメージを共有化できない場合、
深刻な存在感の喪失さえ生じさせることになる。
そして、だれもがその存在をかけて、あるいは勝者というセルフイメージを、
得るために、情報発信者であろうとする。
しかし認識されないものは、存在していないわけではなく、
いつか突然我々にその存在をつきつけてくることになる。
その時冷静な対処ができるように、十分な、
イメージトレーニングが必要なのかもしれない。
特に倫理道徳についての十分な発想の展開が、
期待されるかもしれない。
金がすべてという価値観に、どれだけ今のインテリジェンスで、
抵抗できるのか非常に疑問だ。 

性の曖昧性について

2004-09-12 | エッセー(雑文)
あいまいな日常性において自我を裏切るもの
それは身体の限界性であり、特に性の存在性は
あいまいで、自己同一性に衝撃を与える。
素朴な時代にあっては、社会的性の抑圧に対して
焦点化し、抵抗、解放をめざせば同一性は得られたのだが
現代は性の商品化という次元が大きな意味を持ち始めてきている。

身体存在論という考え方が出て久しいが
日常性においては心身二元論を基点とした発想が占めてる。
それは肉体の脆さと心の浮遊性というイメージを背景とした
商品文化の消費というシステムのためかもしれない。
いわば文化装置として機能してる商品文化に
性が組み込まれ、その規制も緩やかなものになった現代に
13~28くらいまでの女性の身体のイメージは「美」
であり、商品的価値観のため、その身体はパーツに分解される。
いわゆる大きな乳、細い腰、アップした尻である。
さらに顔は発情した表情を基点としたメイク(絵)に・・・。
そして商品価値が下がったものを「婆」と卑下する傾向が強くなる。
しかし《魅せる》ことを至上とし見られることを商売にするものと違い
我々は観客を必要とする価値に惑わされる必要はないのではないか
その乖離した価値観の熟成がなされるために「身体論」の普及が
中学高校あたりで討論されるようになれば・・・。
見るものと同時に見られるものというバランスのとれた価値観を
回復したいものだ(笑。

ヒッキー2

2004-09-06 | エッセー(雑文)
歴史心理学とか歴史分析とかいう分野では
過去の人物をそれぞれの理論で分析してみせる。
いわばプロファイル的分析のさきがけをやってみせた
面白い心理学の分野だった。
最近は大学の講義ではみかけないようだ。

適応障害とかいって社会的活動の一線から離れる女性が過去にも
何人かいた。日本では律令制がはじまったあたりに有名な
スキャンダルネタとして語られてた道鏡と考謙(称徳)天皇の関係
(病を治療し政僧になった)を歴史で学んだりした人も多いだろう。
いろんな説があるが今でいう鬱病のような症状だったらしい。
しかし、この事例の前に玄肪という政僧と藤原不等人の娘の宮子
(文武天皇夫人)の病における治療関係があった。
この病も鬱系の適応障害と思われてるようだ。
この病のため聖武天皇はほとんど母である宮子に会えない状態、
つまり宮子は何十年も隔離状態のままだったらしい。
ここに留学僧であった玄肪が接近し政治へ僧呂がかかわる時代に
変わっていったようだ。
平凡な日常性から非日常的社会的立場へ追い込まれると、
通常その自我は自己を引き裂かれ統一的人格を維持できなくなり、
相反する価値観の狭間で苦悩し動けなくなる傾向が強い。
まだカウンセラーも精神分析理論もない時代に仏教の普遍観は
自己同一性の障害に大きく治療効果を果たしたことだろう。
現代でも不安にさいなまれる若者が宗教に傾倒してしまうのは
ここに原因があると思われる。
精神的支柱を与えられないカウンセラー達は、結局は精神科医の
指導(配下)のもとに薬漬け治療の一躍を担う。
仏教がもつ政治的カテゴリーの被害(過激な政治的活動)よりは
引きこもりで行動の規制しやすい状態が好ましいから、
社会適応可能とおもわれる薬により、個人の行動を規制する治療に
向かわざるえないのかもしれない。

ヒッキーについて

2004-09-03 | エッセー(雑文)
自我意識が抑圧される現代にあって
神経症と精神病のボーダライン上の症状が増えて久しいが、
ようは不適応状態を改善する治療であるから、
医療的立場では抗精神薬投与に頼らざる得ない。
(特に三分診療という現状ではなおさら)
成績重視という社会にあって、幾つもの役割を担わなければならない
現代人は二重拘束、自己同一性喪失の危機にさらされる場合が多く、
個人の自我という中心軸がブレはじめてきている。
自分らしさが感じられるところまで引きこもり、そこで再生という
ヒッキーと呼ばれる引きこもり現象が学生を中心に広まりつつある。
しかし成績重視システムの中で形成された自我意識は脆く、
一度負け組に転落したイメージを持つと、容易に抜け出せなく、
個人の自我は回復不能なまでに、相反する価値観に引き裂かれたまま
価値の統合性、調和点を見出すことが出来ない状態が続くようだ。

意識、特に自我を考えると
知覚の構造になぞらえ「図と地」構造をモデルにしたような
意識と無意識の構造を基点としたお馴染みのフロイトの理論が有名だが、
しかし「自我」の育成を重視するシュタイナー教育論における
自我意識は問題解決するための「手」そのものの機能ということらしい。
(何かを把握する、つかみとるという行動の土台)
そのため見たり、聞いたり、感じたりする主観性を重視し、
自我はいわゆる指揮者のように統合的能力を発揮するもの、
バランスの調整をする能力を担い、それを養成しなければならない。
シュタイナー自体の思想は作用心理学、志向性心理学のブレンターノに
影響されてるようだがフッサール同様理解しにくい、
が意識内部に引きこもり、新たなる手だてを得るという方法論を展開していて、
いみじくも今の若者たちと共通してるようだ。
精神、心理、意識という概念が形成された時代を再読し、
自我の充足感を満たす現代的な解釈(システム)が必要なのかもしれない。