moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

意味が深層的に構築されていく・・・ひとつの解釈

2007-03-16 | エッセー(雑文)
某掲示板でよく目にするのが、「~たたき」という有名人の
評判を落とすような「アンチ応援スレ」という表現スタイルであるが、
これは、いかなる構造によって、意味がなされているのだろうか?

いろんな組み合わせ、ズレが生じていく言葉の自動律のようなものを
想定することも意味はあるだろうが、
それより、深層心理的構造を想定したほうが納得しやすいかもしれない。

たとえば、女子フィギュアスケーターが、優勝しなかっただけで
手のひらを返したような「アンチ応援・表現」のオンパレード。

これは不思議な現象である。
若干未成年の少女が、コツコツ10年以上も努力し、ようやく
その実力を発揮したことを無視して、その悪口の羅列は、
人を蹴落とす快感の様相をしめしているが、
それだけなのだろうか?

いろいろな文章スタイルを読んでみたが、一つ気づいたことがある。

それは、「裏切られた」という感覚によって成されている行為ということである。
「裏切られた」というのは「期待」である。

人は、聖人君子でもないかぎり人間関係には、つい「何かを期待」している。
株式投資においては、当然のごとく直接的な利益を期待したり、
あるいは、スポーツの応援では、優勝への期待だったりするわけである。

だが、その個人の期待感が充足されず、過剰に「反感」という気分になるには、
社会的な状況に左右される「心の脆さ」というものがあるのかもしれない。

日常生活においては、政治体制を感じることは少なく、
ある意味、民主主義体制において、基本的に「誰かのせいにすることは
出来ない。」というセオリーは深層化している。
自分たちが選んだ政治家によって成される体制だから、
それが一部の富裕層のための仕組みだとしても、政治家を公然と
「~たたけない」
いや「たたいても意味がない」という構造が露呈するのである。

そして、貧富の差が拡大する格差社会を肯定する体制下において、
その不満、恨みの矛先が
どこへ向けられるのかといえば、

ホリエモンのような一攫千金を狙う人を欺くタイプではなく、
コツコツ努力をして、ようやく注目を浴び成功したというような
シナリオの主人公(一般的な庶民の生活態度)にたいして
向けられた期待が、裏切られた時に
ルサンチマンが発生しているような気がする。
つまり、自分たちの代表的な生活態度、コトコツ努力して成功をおさめる
というシナリオが幻想であると思い知らされることに
恐怖しているのかもしれない。

だとしても、本来弱者の強者に向けられなくてはならない
ルサンチマンが、それてしまっていることに変わりはない。

強者の思惑は成功し、弱者はまさに、コンセプト的には、
収容所送りの有様なのかもしれない。