moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

オートプログラムの人間(端末化するヒト)

2005-09-11 | エッセー(雑文)

社会システムによって、侵食された「感性・感覚」は
その正統的欲求・欲動を捻じ曲げられ、「歪な人間関係」を
その原体験として「痕跡化」されている。
その一つが、遮断されていることを前提とした個人の感覚というモデルであって、
リセプター(感覚受容器)によって、個人的「主観」として認識するモデルを、
「真実」として物語るプログラムである。
しかし、感覚・感性は個人の身体レヴェルでさえ、閉ざされてはいない。
それは「共感性、共振性」という能力が、人間本来の身体運動能力に、
備わっていると考えるべきなのであって、
たとえば「自転車」に乗るとき、新しい自転車の「運動図式」を
身体感覚を総動員して、「馴染ませなければ」自転車には永遠に乗れない。
それは「自動二輪、自動車」の運転にも必要な構図なのであって、
さらに、「言語」の習得にさえ、同様な身体運動能力の構図を必要とする。
身体運動能力とは、感覚・感性を基本として、「馴染む能力」であり、
感覚・感性は「ヒト身体」に「共有」なのである。
それは、<あなたの「痛み」を同時に感じるという能力>ではなく、
あるいは<あなたの「痛み」を代わって引き受けられるという能力>ではない。
身体の運動能力の一つ、あるいはその本源と考えるべきかもしれない。
身体能力は同時に「ここ」「そこ」「あそこ」に存在できないし、
瞬時に移動もできない。
だから、「あそこ」「そこ」の痛みを感じることはできない。
が、ネットワークのような「身体の共有された運動能力」は、
個々の「身体」をつなぎ、「個性」をもたらすのである。
それは「遮断」「接続」という「分節化」の能力でもある。
身体運動能力はいくつもの分節化された「自動プログラム」によって、
随時「適応」というプログラムのもと再構成されている。
この「オートプログラム」は分節⇒再構成、をその身体が可能な限り、
繰り返すのであり、その能力の限界点、限界線が「異常」という状況であって、
「精神的アンバランス」「病」「死」という現象なのである。
自然に備わった「オートプログラム」と「その後のオートプログラム」は
何重の層に構造、再構成され、「必要に応じて」引出されるのである。

その後のプログラム=「社会システム」が、滑空オートプログラム化した時、
「権力」という「加速装置」を生み、そのプログラムに、
その自然な身体能力は即応できず、それをおぎなうべく、
「先取り」を行わなければならなくなった。
その「先取り」をする予見者とそうではないもの、予見できないものの「差」が
身体運動能力の「感性・感覚」の「歪み」としてあらわれ、
さらに、「権力」によって身体運動能力「感性・感覚」は阻害され、
奪われるのである。近代社会の問題点はここにつきる。
そして、残念なことに、現代はその滑空プログラムが失速している状況であり、
ヒトは中央という仮想位置に対し、端末として変容されるのである。
これではヒトの微妙な歩行感覚は狂い、常識から精神は逸脱、自覚さえ失い
いつ落ちても不思議のない精神状況といえるのかもしれない。
  


ネット系のテクニカルタームの利便性(身体性の回復)

2005-09-07 | エッセー(雑文)

ネット系のテクニカルタームはとても便利なコンセプトだ。
まだ日が浅いので歴史的テーマにとらわれていない分、
意味がすっきりしていて、わかりやすく整理しやすい。
が、物事を単純に還元、置換する姿勢に為りがちで、
知の浪費を良しとせず、効率的知の体系に傾く。
知は浪費するしかないものであって、いかに効率的に体系化しても
すべてはすくい取れない。
しかし、最近ではネットワーク系の用語を、用いるのが便利かとも思う。
接続、切断、遮断、継続、などのネッワークに映りこんだイメージは
関係構造の説明にすこぶる便利に機能するかもしれない。
ネッワークがもたらした身体のパースペクティヴは、
「ここ」「そこ」「あそこ」に同時にいて、「展望する」ことに近似の
体験を与えてくれる。
たとえば、個人と共同体組織の関係のアンビバレンスな問題
個人が契約することで成り立つ共同体組織の存立矛盾を解消し
組織の継続は維持ではなく、「鏡に映った鏡」のように虚像が際限なく
続く、「接続」行為であり、それは切断、接続という繰り返しのように
みえて、同じサイトが同じ内容ではないように「継続」されていること
接続、切断を可能とするネットワークの自動性・プログラムは
身体の能動性、運動の意味を回復させ、空間に閉ざされている身体に
解放的意味を促す。
「ここ」「そこ」「あそこ」で、「展望されている」
関係になり、それは多層構造という「見かけ」イメージをもたらし、
網の目状に偏在する「存在」を容易にイメージ整理させ、説明をやさしくする。
・・・と思うこの頃。 
 

手塚治虫著「アドルフに告ぐ」を読んで

2005-09-05 | エッセー(雑文)

昭和11年の殺人事件から物語は始まる。
峠草平の弟のドイツにおける不審な死、
それに遡る日本での芸者の殺人事件と、
一見ミステリー風の導入部によって、
峠草平という記者が語り手になって、
第2次世界大戦前後の歴史が語り始められる。
ミステリー的謎ときの要素に絡んで、日本に舞台が移る。
このときドイツ領事の息子とパン屋の倅の幼馴染的な
友情が描かれる。
そしてヒットラーの秘密(直系の祖父がユダヤ人という設定)
に関わっていくことで、アドルフ・カウフマン(ドイツ領事と日本人のハーフ)
アドルフ・カミル(パン屋の倅ユダヤ人)という二人の友人関係が、
壊れていく様
アドルフ・ヒットラーの狂気に沈む様が描かれている。
峠をはじめとして、登場する人物はヒットラーの秘密文章に
関わり、親交を深めたり、敵として現れたりという形で絡んでくるが、
善か悪という黒白を明確にする方法ではなく、「強度」の濃淡さの
ような価値判断で、手塚はこの戦争・事件を描いているようだ。

全体的な印象としてはゾルゲ事件、日本軍部独裁政治、第二次世界大戦、
ユダヤ人虐待・差別等を描いた壮大な反戦物語といえるだろう。

物語は大戦が終わりパレスチナ問題まで続くが、
カウフマンとカミルが最後の戦い(決闘)を行い、
元親友の悲劇はカウフマンの死(亀裂)で決着を迎える。

スキゾとかノマドとかいう放浪の民であったユダヤ人が、
結局パラノイア的定住性に執着する様、かつてのナチスのように
虐待を戦争で繰り返す「自動機械」的な様を描くことで、
その子孫・・・子供に戦争の愚かさを伝えたいということに、
この長い壮大な歴史物語を書いていくうちに、
ヒットラーの秘密の比重強度が軽くなり、
本題が「ズレ」たのではないかという印象をうけた。

近代資本主義の「群れ」を一定方向に走らせる「回路」
「システム」によって、個人の良識では抵抗できない現象というもの
そういう「自動機械性」に敏感になる必要性が、
(自動車のオートマからマニュアル運転のような操作感の回復)
資本主義の弊害に、対処できる方法ではないだろうかと考えさせられた。