moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

やさしい社会に変わりつつある?

2006-01-30 | エッセー(雑文)
今朝某ニュース情報番組を見ていたが、昨今の事件報道をネタに
あるキャスターが、社会は「やさしい社会に変わりつつある」のに
身勝手な利益追求型のヒトなんですねという分析をしていたが・・・。
それはどうなんでしょうか?

あるドキュメント番組で、「生活保護の実態」についてのレポートのような
番組があったが、それは「悲惨」なものであった。
まず役所は生活保護の申請をさせないように、門前払いをさせるため、
強面の警察から出向組みを係り委員として採用し、申請させない。
路上生活者や母子家庭で鬱症状にある母親などを、「生活保護」から
切り捨てる方向性を強めているという。
これが「小泉政権の打ち出している方向性だ」ということは以前から
何度か過去に書いていたが、最近の不祥事発覚でマスコミも「小泉叩き」に
のりだしているが(まぁ上っ面に過ぎないだろうが)、ホリエモンとの連関でしか
突っ込めないというのも情けない。
利益追求型経営陣によって、選択性を奪われた「労働者」が「職」を辞したとき
待っているのは、収入のあてのない生活であり、雇用が悪い状態が十年近く
続けば、多少の貯蓄など底をつき、「生活保護」に頼らざるえなくなるのは予想されることだろう。
それに対処できない政治家は無能と呼ばれるべきだ。
そういう意味では小泉政権官僚は無能の集まりに過ぎない。

まだ30代半ばの無職の男性が地方の団地で、病に倒れ、緊急入院したが、
退院と同時に「生活保護」を打ち切られ、「餓死」しミイラ化した状態で
発見された。そのショッキングな写真がネットのも流れていたが、
これはほんの一部の事件にすぎないという。
全国で餓死による死亡数は上昇していて、その大きな原因は弱者救済の最後の砦
ともいえる「生活保護」の制度が形骸化したことによると分析している学者もいる。

スデニ、利益追求優先型の人格が「良心」というモラルを欠如しているのだから
追いつめられた貧困の弱者が、飢餓に苦しんだ時、
選択は「餓死」か「犯罪」かという二社選択の余地しかないようにおもわれる。
いかりや長介が刑事役のドラマで、浮浪者たちに説くシーンがあったが、
人を傷つけずに罪を犯し、役人に面倒をみてもらう。
3畳の独房であっても3度の食事にありつけるのであれば、
この方法を選択する者が、後を絶たない社会になるのは、予想できないのだろうか?

国鉄を民営化したことによる交通の保障は、本来道路網の充実であるはずが、
それを、金銭にみあわないという理由で道路拡充計画をつぶせなどという暴論を
持ち上げるマスコミの馬鹿さかげんにもあきれる。
田舎と都会の交通の断絶がいわゆる浮浪者を増加させているように思える。
本来、田舎の特に食料供給源である農家は労働者に不足していたのであるが、
それを工場労働者として囲い込み、そして放り投げた結果、無人の荒地を残し、
帰る場所を奪い路上生活者を増加させたのである。
基本路線としては農地の回復、生産者農家ではなく、とりあえずは自治的な
農地回復、食料の自己供給できる政策を地方は推進すべきだろう。
それによって、貧困による「餓死」ということを防ぎ、健全な食生活の意識を
育成できるのではないだろうか?
まずは個人の健全な食生活の意識の回復がのぞまれる。

リテラシーの立体性

2006-01-18 | エッセー(雑文)

リテラシーの立体性
-観察者の位置から見えることの限界を踏まえると-

デズモンド・モリスはかつて、オッパイはお尻の代用物
であるというような趣旨をいっていたが、
そういう思考は西洋の伝統的な衣服の流行を押さえたことからの
発想なのではないだろうか。
西洋貴族や、娼婦の衣服のデザインは、オッパイに注目が
いくように奇妙に誇張されていて、その伝統が、
お尻が前に移動し、性的ディスプレイとして、オッパイが
大きくなり・・・という展開をなしたとおもわれる。
しかし、日本の伝統では、着物に隠されたオッパイは
性的ディスプレイとしては機能してはいなく、
もらい乳という慣習や、乳母とかの権力が社会的機能上大きな
意味を為していたのであって、「乳・オッパイ」は性的な意味から
忘却されていたのである。
大雑把な「道具」システム観では、オッパイを「道具システム」として
とらえなおすだろうし、オッパイが個性から切り離され、性的ディスプレイ
として、効率的に消費される。
また一方で、乳=ミルクという貴重な「食の原点」から構成される社会性が
母系的な権力を許容し、影の権力者という位置を成立させるのである。
その「影の権力者」という位置は歯車のように取り替え可能になるのも
「道具システム」による消費だからである。
昨今の天皇制の男系女系の変更にたいして、抵抗が少ないのも
取り替え可能な大雑把な「道具システム」によるものだという認識が
あるからだろう。
大雑把な「道具システム」は「機械」が社会に比重を増すごとに
社会自体が「機械」に変容し、「効率」がその血となり「有機的機械」
となった「欲望」を自動的に変更を繰り返すシステムとして位置付ける。

それはとても映像表現的でコラージュの構成から、
とめどなく意味があふれ、「欲望」がアニメ「ガンダム」のように、
自動的に学習し成長するということであり、
その機体が組織とリンクした成長ではなく、
それぞれ個体的な特殊な成長発達として受け取られるのである。
社会はその「特殊な欲望機械」をコントロールしようと試みるが、
その方法が上手くいく場合と行かない場合があり、
相対的にコントロールという制度は後手にまわり、「欲望機械」は
既成枠を越えた欲求を自動生成していくのである。

イリイチのコンヴィヴィアリティ という概念もコントロールという制度からの
射程による案出であるし、そのため究極的には個人の道徳的・理性的
生活というスタイルを要求することになる。
実際イリイチらが問題視する特権階層でなければ、道徳的・理性的生活という
スタイルは実現可能ではないだろうし、さらにいうなら、特権階層であろうと
既成枠を越えた欲求を自動生成していく「特殊な欲望機械」としての
システムから自由ではありえないのである。
それはリテラシーの両義的な方向性によって、
既に決定されているといえるのかもしれないが、
それでもそこには、言語の自由な組み合わせのごとく、
360度の展望を内包しているのである。
しかし、貧困化した現代の大衆あるいは「負け組み」にとっては、
リテラシーというコンセプトに理解する余裕に欠けあるいは拒み、
その展開図の立体性を想像できない。
そのため両義的意味の構造をくみとり、
方向転換をはかるようなビジョンを共有できなく、
孤立したオタク消費者の群れにならざるえないのである。

数年後はネットで読み書きが主流になるであろうし、
やはり「情報リテラシー」という能力を、特に十代の青少年たちには
上手く読み取り、簡潔に書きこなせる能力を期待せざるえない。
そのときラディカルなイリイチらのコンヴィヴィアリティというコンセプトも
競争社会の中で補完的に機能し、効率的な機械の様態も
「人(他者との共存性に富む)」の道具として使用され、
競争性に埋没した人自身が機械の歯車・道具として使用される状態から
解放されるのではないだろうか 
 

トリビアお受験5歳児に一休さんがいないということ・・・

2006-01-13 | エッセー(雑文)
トリビアを見ていたら、お受験5歳児の「橋を渡るべからず」という
一休さん頓知の実験があった。
しかし100名中1名もいなかったことに、ちょっと驚いた。
イリイチやフーコーじゃないが、教育・学校制度が画一的な
没個性的な「型にはめる」ことを目的としている以上当然の結果なのかもしれない。
橋と端という言葉の多義的な意味を知らなくてはならないので、
5歳児の知識にそれがあったのかどうかということもあるが・・・。
それでも、過剰にお受験のために詰め込んだ「秀才児」に一人くらい
機転の利くものがいてもいいのじゃないだろうか
シュタイナー的な教育を受けている児童では、もしかすると一休さんのように
頓知的な発想をすることができたのかもしれないかなと思ってみたが、
日本で情緒的な発達教育に取り組んでいる学校を知らないので、
将来的に日本人はやっぱり「画一的」な反応しかできない国民になり、
大国アメリカのいうなりの大多数を従えた「勝ち組」に都合のいい政治は
変わりようもないのだろうか・・・なんて危惧したりして笑ってトリビアを
見ていた。

DVD「ツインローズ」を見て

2006-01-10 | エッセー(雑文)

「ツインローズ」04年 香港 92分
香港人気アイドルデュオ“TWINS”が主演し、
「セブンソード」出演のドニー・イェンが監督した作品。

奇妙な縁で正義の怪盗「黒バラの後継者」となった二人組みの
少女が、美少女ユニット「ツインズ」となり、悪党ポイズン・アイビーを
倒す物語だが、全体的にトリッキーな構成で、ヒーロー物のパロディを
楽しむ映画になっていて、酔拳、蛇拳、バットマン、
チャーリーズエンジェルズなどのワンシーンが随所にもりこまれている。
アメリカンムービーぽいポップアート感覚の配色が特徴で、
音楽もヒップホップ系をBGMとして採用したりしている。
背景も青や赤などの原色を多用し、
メイクや衣装のセンスもコスプレ戦隊風であって、
昨今の世界的なオタク系文化の流行を巧みに取りこんでいる。

香港映画の柱はアクションとコメディと自己分析しているように
その点を押さえながら、新風を香港映画に導入する目的で
制作されたスラップステック系アクションコメディ映画といえるだろう。

ドニー・イェン監督はボストン育ちでカンフースターであり、
リー・リンチェイとの共演やウォン・フェイフォンや伝説の武術家
の役どころが多く、そのカンフーは本物である。
最近では「HERO」の長空役や「ブレイド2」「修羅雪姫」などの武演監督を
務め、新作では「セブンソード」の一人の剣士を演じている。
この映画では実妹のクリス・イェンがポイズン党のカンフー女子高生役で、
見事なアクションカンフーを見せてくれている。
イーキン・チェンが最近コメディアンに徹しているが、
チャウ・シンチーほどの輝きが見られないのはさびしい限りである。

監督   : ドニー・イェン
サンディ : シャーリーン・チョイ
キュー  : ジリアン・チョン
ロウ   : イーキン・チェン
黒バラ  : テレサ・モウ
アイビー : フェイス・ウー


「ツインローズ」については以下のブログが詳しい
http://yaplog.jp/paradoxblog/archive/373
「セブンソード」については以下参照
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=12954


誤った能力主義・・・

2006-01-08 | エッセー(雑文)
昨今の政治傾向はアメリカ型を目ざしているが、
それにともない能力主義が著しく採用されているようだ。
しかし、企業の事実上の労力は「派遣労働」によっていて、
その能力主義も実際機能しているのだろうか?
派遣労働はほとんど、日勤が多く、継続勤務ではないため
その労働評価、報酬は個人ではなく、派遣事務所に搾取され、
能力主義は形骸化している。
企業は極端に派遣労働者に「圧力」をかけ「勤労」させようと
試みているようだが、事実上のこのシステムではその「現場」を
拒否する派遣労働者が増えるだけで、
「JR」のような事故をひきおこすことになりかねなく、効果はないだろう。

さらに企業内においても、「正社員」においての能力とは
「コネ」であり、それがあるかないかで出発点がイチジルシク違う。
(公務員の「キャリア」「ノンキャリア」も実際「コネ」が採用にさいし
ものをいうという「噂」が流れているようだ。)

「談合・コネ」を社会主義的なシステムなどと称しているバカな評論家や
論説委員がいるようだが、「談合」というシステムは社会主義的ではない。
それはもっとも資本主義的な古くは「ギルド」の体制や「コンツェルン」と
いわれる体制などであって、「資本家」のための体制にすぎないのである。

銀行や企業の再統合という実態が、「コンツェルン」にむかっていない
という保障はなく、それはとても危険な象徴的出来事になるかもしれないのだ。
能力主義とは、本来労働報酬が「正しく」行われているのかということが、
基準でなくてはならないはずであろう。
しかし、強調されるのは「100人中の1割しか勝ち残れない」という
「弱肉強食」という古臭いコンセプトに目くらませるジャーナリズムなのである。
つまり、競争原理にあおられる「労働者」を浮き彫りにする手法によって、
本来の意味から、そらしているのである。
しかし、いい加減太鼓もち的な評論家や論説委員は、
ニュース番組から退場してもらいたいものである(笑。

実態を表す言葉が少ない・・・。

2006-01-04 | エッセー(雑文)
この世には、実態を表すにふさわしい言葉て、案外少ない。
たとえば、動物と植物は生物の二大分類されたものだが、
科学的知識が豊富に消費される時代になっても、弥生時代のような
農耕狩猟生活が基底の生活観に根拠づけられている。
最近の辞典には、以下のように科学的な説明をこころみているものもあるが・・・

動物
(1)生物界を二大別した場合、植物に対する一群。
一般的には細胞壁をもたない、クロロフィルをもたない、
従属栄養である、運動性がある、などの特徴があるが、
下等な生物では動物と植物との境界はあいまいで、
両者に同時に分類されるものもある。
(2)人間以外の動物。主として獣の類をいう。

植物
生物界を二大別にした場合、動物に対する一群。
草木・藻類などの総称。細胞壁があり、
クロロフィルなどの光合成色素をもち、独立栄養を営む、
などの特徴を有するが、細菌類・菌類・種子植物の一部では
腐生または寄生するものもある。
(うえもの植(え)物)
(1)草木。しょくぶつ。
(2)畑に植える野菜類。

しかし英語の使用方法などは以下のようなものが多く
植物 a plant、vegetation
植物採集plant collecting
植物界 the vegetable kingdom
植物学 botany
植物園 botanical gardens
動物 an animal、a beast (獣)
動物界 the animal kingdom
動物行動学 ethology
動物園 a zoo

などと用法をみると、やはり狩猟採集や農耕生活から生まれた
コンセプトのように思える。
さらに流行のウィルスにいたっては、生物であるのかさえ疑わしい。
所詮は観察者の生活観を基点とする知識や法則性であるのだから
相対的にならざるを得ないという限界性の中で、ほぼ回帰的な
統計学的な現象を、不断なものとして信じているに過ぎないわけである。
こういう思い込みは言語が違えば、当然「似て非なるもの」を
無限に生み出し、「意味のズレ」がとり止めもなくなるのかといえば、
そうでもない。
・・・というのも言語は「身体性」を根拠に構造化されるからだろう・・・。
身体性は親子の性的関係によって根拠づけられていて、
後天的社会性のイデオロギーに変容を受けにくかったのだが、
特に母子の子供における影響は大きかった。
しかし、現代社会の女性の社会進出における「身体観の変容」は
特に女性自身が選択する「機械・部品・歯車化」という実態にともない
とても危険に「変容」しているように思える。
それは生物、動物、植物、ウィルスのように
だんだんと曖昧に男女の性を揺れ動かし、その「身体性」さえ拒むのである。
ひとつには社会システムが「訓育」という身体の強制を行うことを
疑問もなく受け入れていることが原因であろうし、
利潤追求型社会として、競争原理を建前に労働者を「隷属」させようと
目論む「新資本家たち」に本来の監視の機能が働いていないことが
(民主主義において致命的な結果を生むかもしれないが・・・。)
決定的な要因かもしれない。
尺度の基本は身体の長さや疲労度によって、決められていたのが、
本来の無理のない生活リズムだったはずであり、それを取り戻すべく、
民主主義という政治形態を手にいれたのではないだろうか
しかし・・・派遣労働者として取り込まれた女性労働者やリストラ後
の男性高齢者の再就職=派遣労働者という実態は「奴隷」のようである。
政治は「勝ち組」のおもちゃになりさがり、高齢者の不満も定食屋あたりでも
聞かれるこの頃・・・さて今年はどうなるのであろうか日本?