moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

ブログと2chの「書き込み」作業にともなう思案

2005-05-30 | エッセー(雑文)

2chユーザーにはヘビーユーザーがいて、
毎月僅かだが契約料を払い、過去ログをロムってるらしい。
それほどまでではなくても、エクスプローラではない
2ch専用ブラウザを使用してる人は多いだろう。
個々人の好みに、使い勝手の良さで、使用されてるようだ。
おもなものでは、ギコナビ、ホットゾヌ、Open Jane、かちゅーしゃ、
A Bone、2chターボなどがある。
(ちなみにライトユーザーである自分はOpen Janeを使用してる。)

ネットで「書き込み」という作業にかかわる場合、
ブログと2chのような掲示板に、ほぼ集約できると思うが、
この場合どのツールを使用するかで、書き込みのスタイルが、
同じ内容について、書こうとしても微妙に「ズレる」という経験を、
した人はいないだろうか?
「書き込み」作業は、あらかじめウィンドウズソフトのテキストで下準備して、
内容を確認してから、コピーペーストという作業で、投稿してる人もいるだろうが、
私のように、漠然と考えながら、言葉に引きずられるように、書き込んでる人も
いるのではないかと思う。
(言葉の意味はことばとことばの「差異」によるものだという理論があるが、
そういうような体験である。)
つまり、「適切な文章を表現する者としての主体性が、
実は確たる揺らぎのないものではない。」ということなんだが・・・。
話が哲学の領域にはまるのを避けるために、2chやブログの「書き込み」という
現象について、考えてみたいと思うこの頃 
(特に悪口や不平に止まらず、悪意につながるような書き込みについて、
その匿名性ということに理由を求めるのではない「現象」について
考えてみたい。いつになるかわからないが・・・orz)


釣りバカ日誌15を見て・・・

2005-05-28 | エッセー(雑文)

フーテンの寅さんを引き継ぐ形で、公開されてる釣りバカ日誌。
寅さんが、トリックスター的魅力で、支持されていたのに対し、
釣りバカでは、真面目仕事人間スーさん=鈴木社長と、
釣りバカ趣味・不良社員の、浜崎の対比の面白さで、観客を
魅了してるように思える。
15作目はメディアでも、よくとりあげらえる国際競争に、
強い経営改善という問題に直面する鈴木建設と、
その経営コンサルタントの、女性社員を描いている。


しかし、スーさんの経営コンサルタントに対する考えは
「人事制度の改革=リストラであって、
外部の人間に、かわいい社員の首を切られてたまるか!
澄ました顔で人の首を、切る事ばかり考えてる会社を
食い物にする悪いやつら。
一枚の紙切れで人を評価できない。」と手厳しい。
(JRの経営サイドに見習ってほしいもんだw)


これに対し経営コンサルタント側の理屈は
旧来の日本型家族的経営の弊害をあげる。
(古い経営体質、旧来の日本型家族経営の見本=鈴木社長) 
仕事とは別に、個人的好悪で部下の処遇評価に影響がでる。
同じ大学の出身者をかわいがったり、
酒の飲めない部下を仲間外れにしたり、
趣味の同じ部下を、エコヒイキしたりするという例をあげ、
これからの人事制度は、オープンかつフェアでなければならない。
人材育成・人事評価システムにより、個々人のキャリアアップをはかり、
外部変化に強い、フレキシュビリティの高い、
経営組織に改善できると強調する。


そして経営コンサルタント女性社員は、
田舎に一時帰郷し、浜ちゃんや田舎の友人との交流の中で、
田舎=心情(本音)を共有できる友達←→東京=優秀な同僚は
所詮競争相手で心情を共有できない。
という見方をふかめるようになり、
コンサルタント会社の方針
「マネジメントの基本の、人件費の管理という安易な方法を選択し、
企業の業績・利益を目で見える数字で示す=リストラ案、
をとることで相応の報酬が要求できる」という内容に、
疑問をもつようになる。
成果、能力主義人事制度システムの施行は、
いたずらに競争意識をあおり、勝ち組みを作る一方、
正当な評価を受けられず、やる気をなくす社員を増やしてる。
それは、いかに社員に払う賃金を安く抑えるかという方便にすぎない。
数字上の操作で、会社の業績をあげても、その会社で働く
社員のためにはならない。と反省する。



小津安二郎の映画シーンや原節子のセリフと重ねる
というコラージュの手法を得て、旧家族的環境を、
肯定する方向をうちだしてるのが今回の特徴で、
シリーズ15作目にして、異色な制作スタイルである。
いわゆる、ポストモダン的状況批判なのかもしれない。
(しかし、近代の価値体系を見直すという再評価の方法では、
安易なオプティミズム的なロマンティシズムに陥ると思うけど)
旧日本家族主義的経営のあり方の批判を踏まえながら
その中で利点をとらえ直すという方向かもしれない。
それは国際競争力を建前とする構造改革、
日本経営の構想批判なのかもしれないと深読みしてみた。orz 

ニーチェその狂気という陥穽について

2005-05-24 | エッセー(雑文)

ショーペンハウアーのペシミズムといわれる哲学の特徴は、
世界は表象と意志によって成り立つというもの。
その意志とは、「盲目的に生きることを欲動してる」ということらしい。
その生の彩りが悲観的なので、ペシミズムといわれるようだ。

ショーペンハウアーの考えでは、結果的にペシミズムが、
「悪意」の心理を生むという。
①欲望が満たされるのは一瞬だから、満たされない欲求は苦悩を生む。
②強い生への意志の持ち主は、強い欲望を持つ。したがって苦悩が大きい。
③苦悩が大きい人は、他人の苦悩を見て、自分の心を慰めるようになる。
④そのうち他人の苦悩にしか、喜びを見出せなくなる。
(悪意が生じる心理的メカニズム)
⑤生の苦悩は、芸術(詩や音楽等)の鑑賞、創作活動により、救済することが出来る。

③④はジラール的な欲望は満たされない(他者の模倣だから)。
それゆえ、モデルとの緊張関係を解消するために、暴力、
排除の傾向を強めるという発想に似てるような・・・。

⑤は表象という世界の捉え方による発想じゃないだろうか。
表象という概念はわかり難いが、たぶん「物」をそれぞれ独立した存在として捉え、
要素間は計量可能な関係で、分類され秩序づけられうる。
分類「表」「図式」などのように表象=世界として解明できる。
・・・という発想があるんじゃないのだろうか。
だから、世界の模倣としての芸術活動には意味があると考えた。
芸術鑑賞は世界との一体感であり、生の苦悩から解放されるただ一つの、
人間の欲求活動と考えたのかもしれない。 


では、ニーチェの「力への意志」と、
ショーペンハウアーの「盲目的に生きようとする意志」との、
「差」とはなんだろう?
ショーペンハウアーに影響をうけたニーチェが、
ペシミズムからニヒリズムに転換し、
生の肯定の哲学を構築しようとしたらしいことまでは、
けっこう知られてることだが、ニーチェの人間観には、
表象という概念では、説明できない事態に対する問題意識が、
あったのかもしれない。
それは、マルクス的な「疎外」という概念にあたるような気がする。

「人間とは猿から超人に向かって張り渡された綱である。」とか、
人間の精神の三つの状態という分析、
①真理や欺瞞的道徳に疑問も無く拘束された状態。
②「~すべし」という重さの亡霊と(疎外)と戦う意志をもった状態。
③物事を純粋に楽しむ幼子のような(スターチャイルド)状態。

以上のような、ニーチェの総体的な人間観には、時代的変化に即応したものを
感じとることができる。それは、「欲望を達成するためには、労働し、
その得た富により欲求が満たされる。」という近代経済的な構造変化に、
ニーチェの思考は左右されたのではないか?

③は創造的芸術活動にあたる発想で、ショーペンハウアーの⑤と同じようなもので、
その継承発展させたものであるが、ニーチェの独創性が感じられない。
本来はそれはデリダ的なテクストの、「戯れ」として展開していく方向性を、
もったものではないかと推測する。
現にショーペンハウアーの一生は、主著の「補遺と補説」という著作活動で占められ、
まさにテクストに戯れていた感じである。

しかし、ニーチェは①②に拘泥し、テクストを楽しむという発想を飛び越え、
新しい知の体系を構築することではなく、現実の変化を求めたのではないだろうか?
それは自分自身をプログラム化(機械化)し、
「悲観的な生」を、すべてリセットするニヒリズムという発想転換を生み、
統一的な意味の存在を、前提とした世界の構築(操作)に向かった。
それゆえに、狂気という陥穽に沈んだのではないだろうか。
構造化すること自体が、意味の「ズレ」を産み、操作対象に還元されやすい。
創作者(生産者)自体も例外ではなく、創作メカニズムとして、
限りなくシミュラクルされていく。
そこに作者の絶対的意味付与性を、回復しようとすれば、
客観的に見れば、尊大であり、神であり、狂気に陥るのではないだろうか?
ニーチェが陥った狂気とは、ここに原因があったのではないかと推測してみた。 
 

ファイナルファンタジーⅦアドベントチルドレンの背景に思うこと

2005-05-19 | エッセー(雑文)

ファイナルファンタジーⅦアドベントチルドレンの背景は、
現代の思想状況を象徴してるように思える。
(新しい映像はここで http://www.gpara.com/movie/ff7/index.htm )

現在という状況に、個人が有効にアクセス出来るために、
実存主義以来、近代的「知の枠組み」にたいして、
批判、分析を繰り返し、そういう流れは、実際は個人の体験、
個人の思考の表現にすぎないが、孤独な孤立した個人ではなく、
異質な他者との出会い、つながりがなければ、自分という意識さえ
成立しないことを明らかにし、個々の思想家に共通「知」の枠組みを
もたらした。
事実、多くのポストモダンの理論家は、一部の教育機関によって、
形成されたといってもいいという側面がある。
それは、フランスの高等師範学校といえるだろう。
(サルトル、レヴィ=ストロ-ス、デリダなどを排出している。)
国家的知の戦略によって、個人は多くの異質なものと出会い、
交流、つながりを体験し、自分を見失いそうになりながら、
そこに他者の存在を理解するという態度の反省をもたらした。
その訓練された「知の枠組」みが、今の近代の「知の体系」の弊害を
越えようとしている。
意識の性質やその構造を、モデルとして表した世界は、
権力の仕組み=ことば・言語システムによる抑圧された人間像であった。
そこから、解放(弊害をのぞく)されるためには、新たに知の体系を
組み立てるのではなく、規制のことばの意味を<ズラす>という方法である。
そういう流れからみると、ポストモダンの代表的理論を寄せ集め、
それを融合し、まとめようとしても、無駄なような気がする。
ニーチェ以来「~の終焉」をつげる表現は多い。
しかし、実際に神がいなくなった訳でもないし、物語も人間も終わってはいない。
言語のシステムに意識の基盤がある以上、つねにその組み合わせは生成続けられ、
自由な組み合わせが出現するのだ。
FFⅦの重要なライフストリーム観は、こういうポストモダン的な
無意識の構造を基盤としたシステムに着目したように思える。
さらに現実の敵は神羅カンパニーという、企業の支配装置である。
その企業に訓育された兵士は交換可能の機械として、変容されるという
アナロジーとして表現されている。
そして主人公のクラウドは誰かに許されることを願い、戦いに赴くのである。
現代人が異質なものと、自分の欠けたものを求めるかのように・・・。 
 

「賢いオッパイ」という本を斜め読み・・・

2005-05-18 | エッセー(雑文)

「賢いオッパイ」という本を斜め読みした。
作者は女優の桃井かおり。
その独特の感性からつづられる文章は面白い。
役者という一般人とは異なる感性を、役者仲間の言葉と
して語る。それも潔くあの世にいってしまった仲間だから、
有無を言わせない語り口だ。 恐るべき言説!!
人と人との関わりを常に念頭においてる感性は、
その身体観にともない、微妙なエロティシズムを喚起させる。
タイトルからも推察されるように、オッパイが重くなったとか
3センチ下がって、ファッションの着こなしが塩梅よくなったとか、
自分の加齢にともなった変化を、嘆くのではなく、楽しんでる風情が、
伝わってくる。生を謳歌してると言えばいいのかもしれない。
なにげなくだが、「僕を探して」(シルヴァ・スタイン著)
という絵本を思い出した。
まん丸ではないため、上手に転がることができないので、
ぴったりのかけらに出会う旅にでる。
そこで、かけらと出会い、はめてみるが、花の香りをかいだり、
しゃべれない、歌も歌えなくなってしまって、
結局かけらをそっとおろし、再び自分探しの旅に出ていくという物語。
安易に自己完結するのではなく、常によりよい自分へと、
チャレンジする精神のようなものを感じた。
常に何かに関心をはらい続ける態度を、アンガージュしてるような態度
(無関心とは、あるはずの関心が欠如した状態だそうだ)を感じた。
桃井かおりという女優は、ある意味実存という哲学に、
近い態度で生きてるんだなと・・・思ってみた。 
 

スピンオフという映画が流行ってるとか・・・

2005-05-12 | エッセー(雑文)

最近、スピンオフという映画が流行ってるとか
映画、テレビ番組などのオリジナルそのままの続編ではなく、
脇役やサイドストーリーなどを中心とした作品、
本編から派生した外伝ってことらしい。
それはたぶん、シミュラクルのような二次的作品ていうことなんだろう。
いわゆる「萌え」要素を独立させ、物語を消費させようとする仕掛けなんだろうが・・・。
「踊る~」の真下の物語もスピンオフ映画というものらしい。
世の中を動かしてるシステムは、機械的な文化装置によって、
加速的に変化してるような気がする。
デリダじゃないけど、「人間」という文脈が脱構築され続け、
非人間的なシステムによって、支えられるというのも皮肉なもんだ。
「人間」の欲望(意識)は身体的な皮一枚の上を、沿うかのように、
意味内容が組み立てられていたと思うが、その構造を機械的なシステムが、
より早く、より大きくその流通量を変え、質的変化をともなわせたため、
個人に出来る選択性は、より早くブレーキをかけ、速度を適切なものにするという
ものでしかなくなるのかもしれない。
社会的行動が、窮屈な色合いに染まることがないようにと願う。
 

サトラレを偶然見て思ったこと

2005-05-10 | エッセー(雑文)

サトラレを偶然深夜見た。
自分の思念波が他人に漏れ、読まれてしまうという
超能力というか、異能力の持ち主、面白い発想だ。
嘘がつけない、正直ものを、運命づけられた存在。

それは、意識を記憶の想起、保持というシステムとして
展開した場合のテクノロジーの問題として展開されるのかも・・・。

意識あるいはテクストは、いまだくみ上げられない未決定な内容を、
未来に従属させることで、操作可能なものに変容させる。
言語の無限の組み合わせという原則でありながら、
実際は自分も含め、書き込まれるものを選別するという構造に左右される。
感じる、解釈するという消費の構造は、共同体が、歴史的地理的に
(空間と時間を)組織化した情報記憶装置に変換され、操作メカニズム
として組み込まれ、ある意味自由の代償として、消費されるシステムに、
自分自身を滑り込ませなくてはならない。そして一般的な展開として、
人間の意識は、消費されるというメカニズムに沿う限定条件の中で、
本質的に「サトラレ」という状況に巻き込まれるじゃないかと・・・
(操作と消費というメカニズムから生み出される意識かもしれない。)
そして、そのコードから逸脱した場合(自由という代償に見合わない状況に陥った場合)
は精神的衰弱とか、狂気と呼ばれると思った。
 

「真実と偽もの」の、だる~い想いつき

2005-05-06 | エッセー(雑文)

現代とは、権力が情報操作をシステム化し、
情報によって、個人の行動が管理される時代といえるだろう。
その個人を、労働管理下に置くことを容認された企業に、
社会的責任が、強く要請されるのは当然の結果だ。
企業の営利活動が公的性格が強く、社会的機能の一部を
担うものであるなら、その責任は一層重い。
しかし、情報を操作する側である企業は、その情報を隠蔽し、
企業にとって、都合の良いデーターに、改竄する悪循環を強くもつようになる。
それを暴く必要性が生じ、その機能をマス・メディアが独占することになる。
しかし、マス・メディアによる追求だけでは、改竄され、
隠蔽された真実を暴くことが出来ない。
(マス・メディアも巨大企業として変容し、悪循環に感染する。)
その弊害を除くためには、国家権力による企業への管理を、
認めなくてはならない、時代になるかもしれない。


国営事業として、インフラストラクチャを支えてきたものが、
営利目的なものに変容し、国際競争下に置かれた場合、
真っ先に被害をうけるのは、その労働者としての個人であり、
不正なリストラ、セクハラをはじめとし、企業の個人への疎外、
抑圧の問題は鬱積し、それが原因となって、
大事故が発生する可能性が高くなる。
さらに外国の企業が、今以上に参入し、競争過多になれば、
企業犯罪が蔓延化するのは、避けられないと思われる。
特に企業が、個人を害する行為を、犯罪として規制する法の整備は、
早急に求められなければならないだろう。


このような、状況下にある個人の精神は、疲弊してる事が多く、
それを鼓舞させる機能が、エンターティンメントに、求められているのかもしれない。
音楽におけるロックは、一つには既成の隠蔽されたものを、
暴露させ、その矛盾の体制を擬似的に破壊し、再生を促す。
カウンターカルチャーとして、音楽(ロック)が位置づくのも、若者が
既成の体制に、常に不満を感じてるからだ。
しかし、JPのロックは、商業的既成コードの拘束をうけ、
隠蔽されたものを、暴露するという機能を果たさず、
イノベーションの源泉ともならない。
この点が世界に飛び立てない、JPロックの限界なんだろうか。
知のファッションとして形骸化し、コマース論理に飲み込まれた
JPロックは、そのまま若者の精神を変容させ、情報管理下に、おくことになるだろう。
しかし、個人レベルではアーティスト自体も、シミュラークル(コピー)の消費者として位置づき、
二次的生産物としてのコピーの消費が、際限なく生まれ、
オリジナルの間とコピーの間の、価値的な区別が希薄なものとなり、
<生産、消費>者の区別が曖昧になって、イノベーションの源泉と、なりうるのかもしれない。
そこではじめて、疲弊した精神は再生し、結果、社会も十分な機能を、
発揮出来るようになるかもしれない。
<生産、消費>者の区別が、曖昧になる弊害もあるだろうから、
シミュラークルが、際限なく消費されるということもないだろうが・・・。

「モー娘。」の7期決定、矢口脱退て・・・

2005-05-05 | エッセー(雑文)

最近、「モー娘。」の7期に久住小春(12歳)という子が1人だけ、
合格という結果になったようだ。
その前に、リーダー矢口真里(22歳)が俳優との交際が報じられ、
それを理由にグループを電撃脱退した。
以前から矢口真里はスキャンダルが多く、ジャニーズJrとのキス写真+
ネットに合成写真流出+小栗と交際発覚と続いたため、
脱退という結果になったのかもしれない。
芸能人はスクープされたり、噂を流されるうちが「華」だが、
ハロプロの在籍タレント、モー娘はスキャンダルが多すぎるかも。
安倍なつみ⇒押尾宅から朝帰り+詩の盗作
松浦亜弥⇒wind-s慶太宅 で通い妻状態
後藤真希⇒男とツーショット夜遊び+裸の着替え写真流出+弟の事件
藤本美貴⇒地元の不良と飲酒、カラオケ屋で男にキス
(矢口の紹介で藤本は高岡蒼佑と交際という噂もあるらしい)
飯田圭織⇒元ジュディマリのTAKUYAの股間~という噂
吉澤ひとみ⇒柏○のサッカー選手と噂
加護亜衣⇒オレンジレンジの誰かと噂
石川梨華⇒TV局のスタッフと噂
紺野あさ美⇒イケメン男とツーショットプリクラの噂
保田圭⇒ゲイバー通いという噂
過去には石黒、市井らの「出来ちゃった婚」引退 など。 


「アイドルがHして何が悪い、それでファンが離れるのはあり得ない。
離れるとしたら極小のキモヲタだけだ。」という意見もあるようだが、
「彼氏がいるのを公言しているキャバ嬢に客が付くかって、
アイドルはヴァーチャルな恋人というのが存在理由のすべて」という意見もあり、
Berryz工房に乗り換えると公言しているファンもいるようだ。
(ファンとは直接の購買層であり、商品大量購入者であるから、
無視はできないだろう・・・。)そういう流れも考慮して、
いまどき、アイドル=純潔と、期待している輩は少ないけれど、
モー娘の「一般人公募加入」という戦略も含めた、
ブランドイメージとしてのモー娘=純潔路線を、重視するしかなく、
今後モー娘に加入するであろう女の子と、その親たちに配慮した結果、
リーダー矢口真里の脱退、そして12歳の子の加入となったような気がする。
(同年代ファンにとって、小学生ではヴァーチャルな恋人に、直結しにくいが、
中学生ならヴァーチャルな恋人として定着しやすく、
なおかつ純潔イメージをキープし、購買層の獲得につながる。)
今後「モー娘。」は、
吉澤ひとみ、藤本美貴、高橋愛、紺野あさ美、小川麻琴、新垣里沙、
亀井絵里、道重さゆみ、田中れいな、
そして久住小春(12歳)となり、中学生メンバーが主力となるような気配だ。
石川梨華は近く卒業し、ハロプロのメンバーに移動、
ハロプロは元モー娘では中澤、飯田、保田、辻、加護、安倍、後藤
そして石川、矢口?となり、早いうちに吉澤ひとみ、藤本美貴のモー娘卒業が
あるかもと噂されている。(特に藤本は早いかもしれないw) 


こういう事例をみると、芸能界を支配しているイメージ戦略て、
「近代の知の体系」に依存しているように思えてならない。
どこに、萌え要素としての「小さな物語」があるのだろうか・・・。
真(本物)と偽(コピー)の差は明確であり、その「差別化」は非常に厳しく、
消費者は一方的に、誘導されてる傾向が強いと思うが・・・。
オリジナルとコピーの境界がぼやけてはいない、二次的生産物が積極的に、
消費されることの歯止め(コピー防止)がかけられてる。
しかし、メディアで再演されることがオリジナルであっても、
オリジナルとコピーの境界をぼやかし、あいまいに、結果ポストモダン的状況を、
もたらしてるのかもしれない。
・・・だがそれさえも商業的には、プロダクトライフサイクルとして予想の範囲で、
情報操作管理されている。(例えばハロプロメンバーのユニット混合チームによる
CDプロデュースとか)つまり、シミュラークルが操作側に使用される技術になって
いて、本来消費者に位置づくべきとされるものが変容してるとおもわれる。
本来シミュラークルの理論と、情報操作管理による権力の変容の理論は、
相反する理論のような気がする。
それを無理やり融合しよと、試みるのが「知のファッション」としての、
ポストモダンという状況なのかもしれない。