moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

エイリアンVS.プレデターをみて・・・

2005-07-25 | エッセー(雑文)

異質な宇宙生物エイリアンVS.プレデターの戦い、
今回はプレデターよりの物語構成になってる。
ピラミッド宇宙人建造説をうまく流用し、プレデターが、
過去においてピラミッドをはじめとする文明を、地球人に
与え、野生の思考を思わせる成人儀式=戦闘に組み込まれた地球文明
死に向かい増殖し続ける存在=エイリアンの不気味さと
神(超科学)=戦闘民族プレデター
そして人間(儀式用の生贄)という図式が面白い。
しかし、本来儀式用の生贄でしかないはずの人間が、
プレデターと共闘する道を選択することで、
彼らの至高的価値、エイリアンと戦い勝つという成人儀式的戦闘に、
人間が参加することになってしまう。
そして、ただ一人生き残った女性に、その勝利の印が与えられることで、
地球は救われることに<エイリアンのウィルスのような不死身な物語性を残して>
・・・に見える。(続編があるんだろうなぁ)
この戦闘場所に、誰にも所有されていない南極大陸が選ばれていたというのも、
一種の皮肉なのかもしれないが、そこに何かの痕跡を求めようとする人間の、
グローバル化した自然操作観、それがエイリアンが巨大になるほど無力である
人間という側面がうかびあがる。・・・この両義性が面白いのではないだろうか。

幼児が乳首をしゃぶるとき・・・「顔」は

2005-07-21 | エッセー(雑文)

幼児が乳首をしゃぶるとき、「身体」の内と外という感覚では
やはり内の感覚として、享受してるのだろうか?
粘膜刺激に分類されるのだから、そうなのかもしれない。
が、生後数ヶ月程度では自他が未分化であるし、
身体感覚、運動性も発達していないらしく、
たとえば、利き腕のほうが多少だが早く、その運動能力が発達するらしい。
そのため、触れる手、触れられる手という「差」が分かるようになるようだ。
だとするなら、乳首をしゃぶり、その母の乳を飲むとき、
「幼児の身体感覚」の、内と外の「差」は何によって導かれていくのだろう?
ちなみに、おっぱいを中心に見たとき、乳首は目に相当し、
幼児は母の顔、相貌的知覚の始まりを開始しているのではないだろうか?
「XY」で象徴的に表示される裸は「顔」に類似してるのは、ただの偶然なんだろうか?
「身体」発達に伴う「顔」に対する欲求は、とても人間的な欲望だろうと思う。
生後まもない幼児では、まだその感覚器官が成長していないにもかかわらず、
他者に開かれた表現にめぐまれているという<事実>に注目すべきで、
それは自他未分化にもかかわらず、「顔」の<表情>にめぐまれているという
その身体の特殊性について反省する<パラダイムの組み換え>を、
考慮しなければならなということではないだろうか?
それは根深い唯物論、唯心論の対立構造による説明ではないパラダイム
両義的な身体のパラダイムの構築を、経なければならないのではないか・・・。

裸体の顔との類似性は、ヌード写真のときにも大きな影をなげかける。
例えば「顔」がセールスポイントであるモデル、女優が、その乳首を
限りなく隠すのは、裸体に乳首が現れたとき、画竜点睛という完結した事態を
迎え、「顔」は二次的なものになってしまうからではないだろうか。
裸体が何よりも勝る一次的な<顔>になってしまうという、「すりかわり」を
なにより恐れているのだろう。
「図と地」の反転形成のような構造が、いつも両義的な構造として、
我々のその意味を誘導し、一つの意味を受け取った時、それまでの意味を
忘却してしまう。
とくに歴史的(伝統的)意味の忘却は加速的であり、断絶という事態さえ
迎えることになる。
身体の欲動(欲求)によって織り込まれる意味、その地点まで帰る視点が
必要なのではないだろうか?
身体に刻まれる意味の痕跡は、かなりの比重をもっていると認識すべきだろう。
例えば、「顔」と書いた文字だが、これはマウスで不慣れながら書いたものだが
まったくペンで書いたと同じような筆跡を現した。
これは、身体運動(図式)によって、織り込まれた脈絡により、
常に人は意味を選びとっているという現象の驚異ではないだろうか・・・。
 

「日本語練習帳」を読んで思ったこと

2005-07-19 | エッセー(雑文)

ときおり、新書の書き方のスタイルに、
えらく高飛車というか、虚勢をはったものを見ることがある。
哲学・思想関係で、作者が比較的若い世代だと、それが顕著だ。
しかし、専門家としての責任、その重圧に耐え、啓蒙書を書くのだから
仕方がないのかもしれない。
あとは英語、フランス語とかを翻訳、解読している状況が精一杯で、
日本語のめんどうな敬語の表現を使用できない。
ということもかなりの割合で占め、その稚拙な表現に結びついてるんだろう。
そういう自分も敬語の表現はさっぱりわからないが・・・orz
ただ、社会化の過程で、この敬語の習得は、日本社会において、個人のアイデンティティと
深いかかわりがあるのではないかと、思うこの頃なのです。
あらためて、その表現を学んでみるのも・・・うつ展開から解放されるかも。
「日本語練習帳」岩波新書
(特に高校生~大学生の方におすすめしたい。) 
 

笑い=保守として拡散していくように・・・。

2005-07-15 | エッセー(雑文)

最近の若手漫才師のパターンは、「ボケとツッコミ」、「ノッポとチビ」、
「デブとガリ」という対極的な、組み合わせではないことが、特徴のように
思える。その逆で、双子のような共通項が「売り」になってるようだ。
女性のトリオの場合も、同じような体型を、「売り」にしてる傾向がみられる。
ピン芸人の活動が目立つのも特徴だが、オリジナルなきシミュラクル(コピー)芸であり、
彼らは同一線上にいる数ある中の、お笑いユニットの、一つの組み合わせにしかすぎなく、
「モー娘」と同じ構造をみることができる(その代表が辻&加護)。
TV番組の中で、そのユニットの組み合わせを変え、お笑いの「差異」を謀っているようで、
「同一性」の構造を再現し、「同じであること=安心」を供給しているようだ。
既成の体制に対しての、笑い=抵抗=武器ではなく、笑い=保守として
拡散してる状況のように思える。それは情報過多であることにたいして、
プロパビリティ(予測可能性)から外れることに対する恐怖を、椿事件にすりかえる
ことなのかもしれない。 

特撮番組の方向性について思うこと

2005-07-14 | エッセー(雑文)

情報が過多になると、何が最優先されるべきかという視点が浮上してくる。
それを考慮にいれた「物語」を制作することが「要」ではないだろうか?
明確な意味を示さずに、「あきらめるな」というメッセージを、
番組終了時に流すだけでは、情報の多義性の前では、まったくの無力だ。
何に対して「あきらめるな」という個別性こそが、重要なのであって、
その個別性の中から、それぞれの個人にそった具体的、解釈が生まれるのではないだろうか。
例えば「恋をあきらめるな」でもいいだろうが、それには幾つかの具体的「物語」の
パターンを示さなければならない。つまり恋がうまくいく、いかないパターンを
幾つか語ったで、「あきらめるな!」という応援は意味を為し、個々人の中で、
「あきらめるな!」という意味が、効果的に解釈され、個別性でありながら、
普遍的知恵に「飛躍」することになり、「物語」は完結するのではないだろうか。
先日放送の仮面ライダー響鬼の物語では、
「轟鬼の太鼓の練習と鬼の先輩響鬼」
「明日夢のホイッスルの練習と部の先輩」という場面を重ねることで、
記号論的意味が生じる仕組みを試みていたようだ。
一つの場面では一義的に固まる意味を、二つ重ねることで、意味が多義的に展開し、
そこから浮かび上がる一つの意味と「別の意味」、
個々人の意識に、「別の意味が展開される可能性」ということが、
芽吹くのは大切なのであって、それが他者との相互理解という姿勢を
形成するのではないだろうか。
特撮番組の基本は子供、大人も含め他者理解のための複雑性、
アンビバレンスな現象について、理解を深めるという
方向性を無くしてはいけないと思うのだが・・・。