moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

DVD「ロボコップ」を見て

2005-12-26 | エッセー(雑文)
「ロボコップ」 制作 2001 / 米
DVD4枚 時間 約380分
監督 ジュリアン・グラント
出演者
ペイジ・フレッチャー/ モーリス・ディーン・ウィント/
レスリー・ホープ/ マリア・デル・マーレ

元デトロイト市警の警察官アレックス・マーフィーがロボコップとなって
10年間が経過した未来都市デルタシティを舞台に、
オムニ社内の重役達の椅子取りゲームに左右される市民、
そしてロボコップと警察官達を描いている。
劇場版の続編に当たるTVミニシリーズの集大成ということらしい。
過去にもいくつかのバリエーションのTVシリーズ「ロボコップ」が
ビデオ化され発売されているが、そのストーリーとは今回は
関係づいていないようだ。
今回の話では、かつてのパートナーのジョン・ケーブルが、第二の
ロボコップとして蘇って、ライバルとして登場してくる。
しかし、その裏には元ケーブルの妻がオムニ社の重役の一員として
画策した陰謀劇があり、さらにマーフィーの息子ジェームス・マーフィーも
オムニ社の若き重役として登場し、ロボコップが実の父であることを知るという
ショッキングなストーリーが用意されている。
物語の中ではロボコップはデルタシティの英雄ではあるが、人間ではないため
老朽化した機械という扱いをうけ、メンテナンスの部品さえ生産中止にあり、
代用品でかろうじて活動を続けているというありさまで、描かれる。
今回は特に、アシモフ的なロボット三原則を
市民モラルに置換した三原則
1.市民の信頼に応えよ
2.罪なき者を守れ
3.法を順守せよ
という警察原則によって、機動する警察官という部分が強調され、
それを下地に、ロボティククリチャーという扱いから
アレックス・マーフィーという人間(市民の)権利を
取り戻す伏線、構成が特徴で、起伏に富んだ仕掛けが用意されている。
たとえば、オムニ社の復讐者マッドサイエンティスト
ケイディクの開発したウィルス「リージョン」とその娘ジョーダンとの事件や
電子頭脳セイントを開発するオムニ社の重役ダミアン・ロウの陰謀
社会運営に「マシン」が必要欠くべからず事態になっている
近未来都市デルタシティの欠陥が交錯し、
加速された物語の終了展開は意表をつく。
『TVは気晴らしの娯楽にすぎない。
家の中でボーとTVをみて時間を費やすのでなく、
外に出て人との会話を楽しんだり、仲間に手をかしたり、
読書をして、物事を人まかせにするのではなく、自分で考えろ!
オムニ社が街を支配することになったのは
君たちがぼんやりして眺めていたからだ。
世界の問題を解決しろとはいわないが、
せめて外に出て、人間らしく生きてくれという。』というメッセージの
エンディングも非常に風変わりである。
アメリカのTVは規制が厳しいと聞いているが、ほんのワンシーンだが
オッパイもポロリのカットもあり、銃撃戦も相変わらず過激だ。
しかし、過去には人間が奴隷になる危険があった
未来には人間がロボットになる危険がある。
というHenri Drvid Thoreruの言葉を引用したりして、
市民モラルの再生的な意気込みのあふれる作品に仕上がっているように思えた。
青少年にも年配のSF好きな方にもお勧めの作品だろう。


「鉄人28号」を見た印象

2005-12-03 | エッセー(雑文)

鉄人28号 05年制作 114分

一言でいえば、少年の成長物語として構成されているが、
ロボットムービーとしての意味を、見出せない作品になっているという
印象が強い。
原作は原爆=科学技術の利用に対する警鐘をこめたものであったが、
正太郎少年を、トラウマをかかえた「ヘタレ」な少年としてシフトしていて、
鉄人28号の象徴性はボヤケてしまっている。
さらにヘタレ正太郎を、主人公らしくみせるための仕掛けが、
小細工レベルの集積で、それが物語の緊張感を失わせ、
本来なら、正太郎の成長に共感するはずの進行が、散漫に映る。
綾部博士は、平凡な日常性から正太郎を冒険につれだす役回り
として登場しているにすぎず、「勇気」がテーマであるかのような
錯覚をおこさせ、親子の愛情さえ、正太郎の「勇気」の原動力として、
説明として見えてしまう構成は好ましいものではない。
鉄人28号はアニメでは、過去に何度もリメイクされ、そのときも
中途半端な設定が災いして、失敗作という評価があったような記憶がある。
今回もその轍を踏んでしまったのだろうか。
ブラックオックスの製作者「宅見零児」も、マッドサイエンティストというより
貴島レイラと同様にカルトな犯罪者という色合いが強く、
その犯罪の動機に欠けた演出では、ブラックオックスと鉄人28号の
「差」が明確にならない。
ブラックオックスと鉄人28号の「差」にこそ、ロボット映画としての
本領があると思うが、その強調がされていないのは、
怠慢としか言えないだろう。
しかし、CGで描かれたアニメは、ロボットらしい重さを感じさせ、
この映画の見所となっていて、評価できるかもしれない。
キャステイングは遊び感覚に溢れていて、出演者には、
香川照之、川原亜矢子、伊武雅刀、中澤裕子、矢沢心、蛍雪次朗、
薬師丸ひろ子、寺田農、林原めぐみ、田中麗奈、妻夫木聡、阿部寛、
柄本明、中村嘉津雄という個性の強い人達を見ることができ、
幾つかの場面で、ニヤリ(^^とするだろう。
ただ、やはり核に代表されるような、科学技術利用に関する反省的視点の
比重が軽すぎるのが気になる。
その象徴が、天才博士として登場する立花真美というキャラクターであり、
その「少女な」博士によって、強化改造される鉄人28号が、
ライトなBGM(映画音楽)の演出相乗性にともない、安ぽっく軽いもの
見えてしまう。
あるいはそれが、捻くれた時代の一般的な若い監督の感性なのであろうか。
通常のロボット映画からは、かなり「ズラ」した作品であるといえるだろうが、
その狙いが、「散漫」になってしまっているのがおしまれ、
ロボット本来の「自動生成ー自立」というテーマに焦点をしぼり、
緊張感を持続させる物語展開が欲しかったが、それは正太郎が大人と
衝突しながら交わっていく姿勢にこそ、見出せるものではないだろうか。
しかし、今回の物語では、大人との衝突する交わりはほとんどなく、
大人は親・教師のような立場で、保護者にすぎないのである。
そんな交わりで、正太郎が成長するとは思えないのではないだろうか。
少年の成長物語としても、焦点がボヤケていたのではという印象が残った。