moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

近代の「知の体系」とポストモダニズムの印象

2005-04-23 | エッセー(雑文)
貨幣経済がいつ頃から
システムとして敷衍したのか分からない。
それは、パソコンでいえば、CPU160程度で
ソフトは95、ネットはダイヤルアップ接続
10Kバイトの画像をおとすのにも数分を要する
といったスペックから
CPU3G以上、ソフトXP、光ネット接続という
動画ファイル落とすのに数秒という
脅威のスペックの変化に似ていたのかもしれない。


物の流通速度を速めるシステムとしての貨幣価値には
さらにいろんな価値が付随していた。
それは、契約違反や犯罪を抑止するための「権力」という
物語を共有するということだ。
さらに、金がすべてに優先するという金=権力とする
「大きな物語」の弊害に対して、それに対抗し得る「大きな物語」を
創作しなければならなくなったということだ。
それが、近代の資本主義であり、社会主義の
「物語」であり、「物語」自身の弊害を「物語」で修正しなければならない
という近代の「知の体系」であった。
リオタールのテキストから、マルクス史観の価値をのぞいて
その構造分析だけを利用しようとする和製ポストモダニズムは
屁のつっぱりにもならない。
だからといってマルクス主義は有効とは思えないが・・・。
要は近代の「知の体系」は効力を失ってるわけではなく、
失ってるとすれば社会主義の「物語」でしかない。
依然、金=権力とする「物語」、資本主義「物語」は勢力を
振るい続けているという印象はぬぐえない。