moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

性の曖昧性について

2004-09-12 | エッセー(雑文)
あいまいな日常性において自我を裏切るもの
それは身体の限界性であり、特に性の存在性は
あいまいで、自己同一性に衝撃を与える。
素朴な時代にあっては、社会的性の抑圧に対して
焦点化し、抵抗、解放をめざせば同一性は得られたのだが
現代は性の商品化という次元が大きな意味を持ち始めてきている。

身体存在論という考え方が出て久しいが
日常性においては心身二元論を基点とした発想が占めてる。
それは肉体の脆さと心の浮遊性というイメージを背景とした
商品文化の消費というシステムのためかもしれない。
いわば文化装置として機能してる商品文化に
性が組み込まれ、その規制も緩やかなものになった現代に
13~28くらいまでの女性の身体のイメージは「美」
であり、商品的価値観のため、その身体はパーツに分解される。
いわゆる大きな乳、細い腰、アップした尻である。
さらに顔は発情した表情を基点としたメイク(絵)に・・・。
そして商品価値が下がったものを「婆」と卑下する傾向が強くなる。
しかし《魅せる》ことを至上とし見られることを商売にするものと違い
我々は観客を必要とする価値に惑わされる必要はないのではないか
その乖離した価値観の熟成がなされるために「身体論」の普及が
中学高校あたりで討論されるようになれば・・・。
見るものと同時に見られるものというバランスのとれた価値観を
回復したいものだ(笑。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿