moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

幼児が乳首をしゃぶるとき・・・「顔」は

2005-07-21 | エッセー(雑文)

幼児が乳首をしゃぶるとき、「身体」の内と外という感覚では
やはり内の感覚として、享受してるのだろうか?
粘膜刺激に分類されるのだから、そうなのかもしれない。
が、生後数ヶ月程度では自他が未分化であるし、
身体感覚、運動性も発達していないらしく、
たとえば、利き腕のほうが多少だが早く、その運動能力が発達するらしい。
そのため、触れる手、触れられる手という「差」が分かるようになるようだ。
だとするなら、乳首をしゃぶり、その母の乳を飲むとき、
「幼児の身体感覚」の、内と外の「差」は何によって導かれていくのだろう?
ちなみに、おっぱいを中心に見たとき、乳首は目に相当し、
幼児は母の顔、相貌的知覚の始まりを開始しているのではないだろうか?
「XY」で象徴的に表示される裸は「顔」に類似してるのは、ただの偶然なんだろうか?
「身体」発達に伴う「顔」に対する欲求は、とても人間的な欲望だろうと思う。
生後まもない幼児では、まだその感覚器官が成長していないにもかかわらず、
他者に開かれた表現にめぐまれているという<事実>に注目すべきで、
それは自他未分化にもかかわらず、「顔」の<表情>にめぐまれているという
その身体の特殊性について反省する<パラダイムの組み換え>を、
考慮しなければならなということではないだろうか?
それは根深い唯物論、唯心論の対立構造による説明ではないパラダイム
両義的な身体のパラダイムの構築を、経なければならないのではないか・・・。

裸体の顔との類似性は、ヌード写真のときにも大きな影をなげかける。
例えば「顔」がセールスポイントであるモデル、女優が、その乳首を
限りなく隠すのは、裸体に乳首が現れたとき、画竜点睛という完結した事態を
迎え、「顔」は二次的なものになってしまうからではないだろうか。
裸体が何よりも勝る一次的な<顔>になってしまうという、「すりかわり」を
なにより恐れているのだろう。
「図と地」の反転形成のような構造が、いつも両義的な構造として、
我々のその意味を誘導し、一つの意味を受け取った時、それまでの意味を
忘却してしまう。
とくに歴史的(伝統的)意味の忘却は加速的であり、断絶という事態さえ
迎えることになる。
身体の欲動(欲求)によって織り込まれる意味、その地点まで帰る視点が
必要なのではないだろうか?
身体に刻まれる意味の痕跡は、かなりの比重をもっていると認識すべきだろう。
例えば、「顔」と書いた文字だが、これはマウスで不慣れながら書いたものだが
まったくペンで書いたと同じような筆跡を現した。
これは、身体運動(図式)によって、織り込まれた脈絡により、
常に人は意味を選びとっているという現象の驚異ではないだろうか・・・。
 

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