成層圏外にある、真空のドアを開き、少年は地球世界への入り口をくぐりました。下には、鮮やかに青く光る、美しくも恐ろしい、豊かな生命世界が見えました。少年は、その青を目指し、途中人工衛星をひとつよけ、まっすぐに降りてゆきました。
彼は、太平洋上のある地点に降り、しばし海の上に立って空と水ばかりの世界を見回していました。日の光はまぶしく、それはすべてをそれそのままの真実の姿に暴く、白く熱い神の光でした。少年は太陽と天地それぞれの神に拝礼しました。
「さてと、いくか」言うと彼は、するりと海に入り、海の中をまるで空から落ちるような速さで潜っていきました。太陽の光はすぐに見えなくなり、漆黒の闇を月珠で照らしながら彼はどんどん落ちていきました。そうして海底に降り立つと、「ここらへんだったと思うけど…」と、周囲を見回しながら言いました。
「どなた?」突然、彼に声をかける者がいました。少年が振り向くと、そこに大きな岩があり、その上に人魚のような海の精霊が寝そべって彼を見ていました。その者は、上半身は美しい人間の女性のようでしたが、下半身は魚というよりも、鰻でした。彼女は長い下半身を蛇のように岩の上にすべらせ、岩の上にひじをつきながら、彼を見ていました。少年は月珠を高くあげ、あたりを大きく照らしつつ、「やあ、こんにちは」とあいさつし、自分の身分を名乗りました。
「はじめまして、ですね。何度かここに来てるけど、あなたのような方に会うのは初めてだ」少年が言うと、人魚は答えました。「前に戦争があってから、ずっとここにいるの。戦争で死んだ人が、たくさん海に落ちてきて、それは後始末が大変だったのよ」
「知ってますよ。あのときは僕も駆り出されましたから。でも、あなたのような方がいた覚えはないな。どこからいらしたんです?」
人魚は、物おじしない少年の率直な言い方が気に入って、にこりと笑いました。彼女は岩の上に白い上半身を起こし、海草のようになびく髪で乳房を隠しながら、少年に言いました。
「前は別の海に住んでいたのだけど、どこからかお役人が来て、こっちに移ってほしいって言ってきたの。戦争で、とても酷いことになって、海の秘密が汚されてしまったから、それをずっとわたしが清めてるの」
「ああ、それは知りませんでした。大変でしょうね、お仕事は」
「ええ、とても」人魚は笑いつつ言いました。
「ところで、ご存じありませんか。ここらへんに、その戦争のときに亡くなって、未だにここにいる人がひとりいるはずなんですけど」
少年が尋ねると、人魚はするりと岩を降り、「こちらへいらっしゃいな」と言いながら、泳ぎ始めました。少年は海の底を駆けながら、彼女を追いかけました。彼女の長い髪に結び付けた白珠の飾りが、月珠の光を反射して、それはきれいに光りました。
一人の男が、水兵の格好をして、海底の泥の中に半分埋もれるように、ひざを抱えて座っていました。少年は人魚に礼を言うと、その男に声をかけました。
「こんにちは」男は、膝から顔をあげ、うつろな表情で少年を見ました。男の体は前に見たときより少し縮んでいて、少年は眉を寄せながらも、やさしく笑いながら、男に声をかけました。「そろそろ、次の世界にゆきましょう」。男は震え、かぶりをふりました。そして「もうずっとここにいる」と子供のように言いました。少年は言い重ねました。「でも、ずっとここにいると、罪になるんですよ。このままだと、あなたはだんだん小さくなって、最後は人間ではないものになってしまうんです」。
「みんな死んだ、みんな死んだ、みんな死んで、海の藻屑になった」男は狂人のように、ただそればかり繰り返しました。戦争で、よほど辛い経験をしたのでしょう。少年は、厳しい表情で男を見たあと、しばし目を閉じて考え、やがて決意をしたかのように、手で魔法の印を結び、月珠を指ではじいて男の額を打ちました。すると男は声も立てず、砂山が崩れるようにそこに倒れました。
少年は、月珠を拾い、倒れた男を抱えると、後ろで見ていた人魚に一礼して、そこを去ろうとしました。すると人魚はほほ笑みながら、「そんなことをすると、あとが大変じゃない?」と言いました。少年は、目を鋭くして、言いました。「わかってますよ。でもこれくらいできなきゃ、僕たちのような仕事はできませんから」
「大変ね、お仕事は」人魚が笑いながら言うと、少年は、「ええ、とても」と答え、男を両手で抱えながら、海をのぼり始めました。