goo blog サービス終了のお知らせ 

世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ルリマツリ

2015-09-29 03:56:40 | 月夜の考古学・本館

 ルリマツリ Plumbago capensis

 イソマツ科。薄青い可憐な五弁の花が、星のように咲き群がります。
 ちょと後ろ向きな詩ですが、私も、この世で生きて行く上で、時々、どうしようもない孤独に縛られることがあります。夫や子供や友だちからも、自分が遠くかけ離れて、暗い夜の底に、朽ちた木のように一人で転がっているような。心が何かの傷のように、ひりひり痛んで、自分が自分でいることがつらくなる時。
 そんな時、私は星を見て、まだ見ぬ本当の故郷を思い描いたりしています。この世界は、自分にとって仮構の世界なんだと。名も、姿も、この世で得たすべてのものは仮のもの。ほんとうの私は、星の彼方の魂の故郷にいるのだ。そこは、いつか帰れる故郷なんだ。この世でやるべきことをすべてやり終え、語るべきことを語り終えたら、私は私の本当の故郷へと帰れる。
 きっとその時、私は、この地上で出会ったすべての人やものから、たくさんの贈り物をたくされることだろう。人を愛したこと人から学んだこと、美しい花や木、たくさんの豊かな生き物や山河の思い出。全ての物語が、銀の灯火を連ねた瓔珞のように、私の手で燃えているだろう。
 私はその贈り物をもって、いつか魂の故郷に帰り、そこで再び出会えるであろう魂の友達に見せてあげるんだ。そのためにも、今はたくさんたくさん、見て、聴いて、学んでおかねばならない。時に辛いことがあっても、簡単に生きることをあきらめてはならない。やらねば。語らねば。
 そうやって私は、孤独になえた心を立ち直らせ、明日も生きて行くことを決心するのです。
 ルリマツリ(プルンバゴ)は南アフリカ原産の花ですが、今現在、わたしの家の隣家の軒先の鉢で、たくさん咲いています。散歩の折りなどに挨拶をすると、親しく返事を返してくれます。星を思わせる青い花。彼女たちは、遠い自分の故郷のことを、思い出すことがあるんでしょうか。見も知らぬ遠い土地。遠い空。遠い風。
 時には、孤独の夜の中で、その香りをなつかしく思い出そうとすることが、あるんでしょうか……



(2005年10月、花詩集29号)





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒノキ

2015-09-19 04:05:08 | 月夜の考古学・本館

やさしさだけでは
なまぐさくなる
きびしさだけでは
むごくなる

光と影を左右のポケットに入れ
空に向かって敢然と額をあげ
行く手を見据えなさい
あなたにはしなければいけないことがある

一度や二度のつまずきに
とらわれていてはいけない
そこで学ぶべきことを学んだら
次にすすみなさい
あなたにはしなければいけないことがある

泥沼のような哀愁に
とらわれていてはいけない
愛は腐りやすいものだから
傷み始める前に解き放たなければならない
そしてあなたには
しなければいけないことがある

学び 悩み 考えなければならない
なぜ人は苦しむのか
なぜ人は過つのか
暗い苦悩の霧の向こうに
光る何かがあるはずだ
それをつかまなければならない

そのためにあなたは生きるのだ




(おそらく2005~6年ごろ)








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チコリ

2015-09-18 03:23:31 | 月夜の考古学・本館

チコリ Cichorium intybus

 キク科の多年草。別名キクニガナ。夏に青紫のかわいい花を咲かせますが、小さな砲弾型をしたレタスみたいな野菜としての方が、よく知られてるかもしれませんね。柔らかでほんのりと苦みのある食味や、かわいらしい花も魅力的ですが、私はこの珠玉のような名前の語感が好きで、自分の主宰している同人誌の名前にも使いました。
 チコリを食材として育てるには、モヤシのように、暗い所に閉じ込めて育てなければなりません。本来なら、お日さまを浴びて伸び伸びと葉や茎を伸ばし、自分本来の花を咲かせることができる、そういう可能性も持つ種でありながら、それをすべて諦めて、人の食卓にのぼるために、しかもただメインの肉や魚の傍らにひとひらの葉を飾るだけのために、本来の自分を曲げて生きなければならない。
 そういう生き方を示されたとき、人はどう思うでしょうか。
 なんて残酷なと思うかもしれない。それが世の中なんだと、諦観のため息をつくかもしれない。当のチコリは、どう思っているでしょうか。
 生まれた時から、お日さまの愛を浴びて伸び伸びと自分を表現できる。それも幸せでしょう。けれども私は、生まれてからずっとそんな光の中に育ってきたがために、他者の心の痛みを感じる感性が細やかに育たなかった人を知っているのです。
 だれもが彼を愛したがために、彼は愛を侮り、まるで冷凍庫の中のマグロ肉のように、それを乱暴に無感動に扱うようになったのでした。
 チコリは愛する日の光を絶たれても、成長することをあきらめません。暗がりの中で伸び、物言わぬ歌をつむぎながら、まるでやわらかな宝石のように自分を作っていく。静けさの中で、生きられなかった自分を夢見、時に怨念にさいなまれながらも、それらへの愛惜を、自分の全てを差し出す、より高い愛に変えて、生きようとするのです。そういう生き方もまた、生き方なのです。
 小さなかわいい花のチコリ、ほんのりと苦みのある野菜のチコリ。どちらのチコリが幸せだと、あなたは思いますか。



(2005年2月花詩集21号)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コノテガシワ

2015-09-14 04:29:37 | 月夜の考古学・本館

コノテガシワ Thuja orientalis

 わたしは、詩を書くとき、うまく書けないときと、心地よくすらすらと書けるときとあります。この詩を書いているときは、たっぷりと水をふくんだ布を指でちょいちょいとしぼるようにとても簡単でした。イメージはありありと浮かび、ことばどこからきてどこへ行くのかも、手に取るようにわかりました。
 それは多分、ちいさな子の魂のために書いていたからです。その子のことを私は何も知らなくて。ただ、学校になじめずにつらい気持ちで生きていることだけしかわからないのだけど。遠い記憶の向こうの、藍色の空しさに染まった、わたしの子供時代のことなどが思い出されて。おなかの奥で、なにかしてあげたい、という気持ちがちくりとうずいてきて。
 まるで子供のために小さな靴下を編むような気持ち。きれいな模様をあみこんであげよう。きれいな色を付けてあげよう。見えない愛をいっぱいこめてあげよう。お空の星のどころまでいって愛の光をとってこよう。ことばをきいてこよう。風に頼んで、ひつようなものはみんなとってきてもらおう。
 その少し前に見た、春のコノテガシワの、金色の毛羽立つような若葉が、銀河を思い出させてくれて、導かれるように心の中を星まで旅して、世界中からたくさんのことばの花をつんできました。世界の美しさを教えてあげたい。生きることの美しさを教えてあげたい。星がどんなにせつなく人を愛しているかを教えてあげたい。
 小さな子がいると、大人はいろんなことをしてしまいたくなるようです。
 わたしの一方的なひとりがてんかもしれないのですけどね。でも自分としてはとてもかわいい詩ができたのでうれしい。たとえ受け取ってもらえなくても、いつか風が見えない心を届けてくれるでしょう。
 コノテガシワは児手柏。ヒノキ科の常緑高木です。たぶん、その平たく固まる葉の形が、子供の手に似ているからつけられたのでしょうね。春になると新葉が金色にかぶったようになり、たいそう美しいです。銀河の砂をまぶしたようです。
 わたしの見たコノテガシワは、幼稚園のお庭にありました。きのこの妖精みたいなかわいい子供たちが、弾けるように騒いでいる、ちいさなおうちのそばにありました。


(2006年5月、花詩集36号)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハナミズキ

2015-09-09 04:23:37 | 月夜の考古学・本館

ハナミズキ Cornus florida

 ミズキ科ミズキ属。別名アメリカヤマボウシ。
 冬には、花など咲くのかと疑うくらいさみしい枝ぶりのハナミズキですが、春ともなると白や赤の見事な花を見せてくれます。木全体が燃えているようにすら見えるほどです。
 冬の枝ぶりを見て、この木はかれているんじゃないかと、知らない人は考えるかも知れない。けれども時期を待てば、その木の本当の力が見えてくるのです。ハナミズキはそういうことを教えてくれる。春になれば誰もが驚く、ああ、こんなところに、こんな美しい花の木があったのか。
 自分をさげすむのは愚かなことだ。今の自分の中に秘められているものを信じないのは愚かなことだ。たとえ今が、どんなにみすぼらしく、愚かで未熟に見えようとも、自分の中に花咲く種があることを信じて、今をこつこつと懸命に生きていれば、いつか必ず何かが見えてくる。新たな自分を発見することができる。
 だから、自分はどうせだめだなどと言ってあきらめるのは愚かなことです。他人をうらやんでばかりで、自らの力をためす努力もせず、日々を怠惰にばかり消費するのは愚かなこと。
 己と対話しながらその力を測る努力をする時間を長くもたない人ほど、他人をうらやみ自分と比べたがるもの。彼我の比較の中で神を呪いたがるもの。努力をしているものは、人をうらやんだり必要以上に批評したりする暇はない。
 己としてどう生きるかを考えることで、精一杯なのだ。自分を信じているからこそ、どんな逆風や高い壁でも、その向こうの未来を信じて、戦い抜くことができる。途中で倒れるかどうかは、ただその結果がそれだというだけのことだ。得られたものは魂の中に豊かに残る。私は私自身としてそれに挑戦したのだから。
 挑戦をした人の瞳は光が厚くなる。しなかった人は萎えてゆく。
 ただそれだけのこと。自分以外のだれをも責めることはできない
 自分の中の花を見つけるために、今しなければならないことは、煙のような情念の雲の中でくすぶっているよりも、今一歩進むための足掛かりを探すこと。目を動かし、頭を動かし、手足を動かす。それら必要なものはすべて、もう神様が与えてくださっている。


(2006年2月、花詩集33号)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

せきにん

2015-08-31 05:06:33 | 月夜の考古学・本館

せきにんをとれって
ばかなやつはいうけど
せきにんくらい とるさ
だって できるもの
やるってことが しあわせなんだって
もう わかるもの

せきにんとれって
いうやつほど ほんとはこわくて
せきにん とりたくないのさ
できっこないっておもってるから
いつも だれかにおしつけようとするんだ

でも おれはもうわかってる
おれは おれだってこと
おれは ずっとこの「おれ」をやってくってこと
それが せきにんてもんだってこと

やるよ おれは
おれがやったことのすべてを
せおうよ
だって おれは やりたいんだ
おれの おれじしんの ほんとを
やるってこと

それが おれのおれへの
せきにんだってこと



(2008年ごろ、入院中に書いた詩)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真実

2015-08-28 05:03:57 | 月夜の考古学・本館

何かがひしめいている
空の青に ひしめいている

何もない空っぽの空に
愛が満ちている
美しいことばの
大合唱が
静けさに溶けて
世界中に鳴り響いている

それが聞こえないのは
あまりにもあたりまえで
ないのなんて信じられないくらい
本当の本当だからだ




(2008年頃、ノートの落書きの隅にあった未完成の詩片。
 タイトルはわたしがつけた)





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマユリ

2015-08-25 05:10:31 | 月夜の考古学・本館

ヤマユリ Lilius auratum

 ユリ科ユリ属。山百合。
 夏、山の中で光に染められたような白い大きな花をつけます。白いユリの花というと、何とはなしに聖母マリアを思い浮かべますが、山百合はテッポウユリほど清楚可憐ではなく、香りの強さや濃い花粉の色は、むしろ男性的ですらあります。
 キリスト教には、最後の審判という考えがあります。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画が有名ですが、この世の終わりに再びキリストが現れ、神の名において人々を良い人間と悪い人間にふりわけるという。私は、この考え方が、あまり好きではありません。
 果たして、あの優しい人が、自分をあざ笑いながら殺す人々のために、神にとりなしをするような人が、最後の審判などという恐ろしいことを言い出すだろうか。あれは、彼を見殺しにしてしまった弟子たちが、己が罪に対する両親のうずきと後悔を少しでも薄めるために生み出した考えなのではないだろうか。または彼を裁き、磔刑に処した人々への悲憤が、そういう考えを作りだしたのではないでしょうか。いつかあの人はまたやってきて、罪深き者に復讐するに違いないと。
 最後の審判という考え方は、人を善悪の二つに分けてしまいます。善と悪、敵と味方、正と邪、光と闇、バラバとキリスト…。そこでは永遠に善は善のまま、悪は悪のまま。それでは、一度でも罪に落ちたものは永遠に救われないことになる。
 この世で、永遠に善のままである人などあるだろうか。逆もまたしかり。罪や失敗の泥に、一度も染まったことのない人があるだろうか。いや、罪や愚かな失敗があるからこそ、人は学び、そこから出発し、新たな自分を求めてゆくのではないだろうか。
 キリスト教の発端は、ある罪のない優しい人の死でした。そこにはあらゆる人の愚かさと無知があった。人々が自らに見いださねばならない弱さがありました。けれど弟子たちの多くは、その自分の弱さを見なかった。輝かしいキリストの伝説を作り上げることで、功をなし己の罪を雪ぎたかった。のではないか。
 ジーザスはそんな弟子たちが作った玉座に、果たしてよろこんで座っているのでしょうか。



(2005年9月花詩集28号)





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iについて

2015-08-23 05:22:48 | 月夜の考古学・本館

本当のiを さがしています
本当のiは どこにありますか?

こどもではあるまいし
何をいまさらと
言わないでください
iするふりをして 憎んだり
優しいふりをして 傷つけたり
この世には いろいろあるのです
憎み続けて 傷つき続けて
初めてわかる そんなiもあるといいます
これがiだと思って たまごのように
暖めていたら
紙くずと木片を糸でしばった
みょうなガラクタが出てきました
そんなことさえ あるのです
どうやって iを
見分ければいいのですか?

iすることと 憎むことは
どこが どうちがうのですか?
優しいことと 冷たいことは
どこが どうちがうのですか?
まったくちがう 二つなのに
わからなくなる ときがある
のは
どうしてですか?

背を向けた人の
ちぎれた心の 破片を拾いながら
どうすればいいのと 問いかけます
見つめながら ただ待つことも
iでしょうか?
返ってこない こだまを待つように
いつまでも 立ち尽くすのですか?
それがiでしょうか?

星でもいい 空でもいい
何かのiに すがりたい
iすることが 時々
こんなにも さみしい
わかいころは わかさで
たえたけれど
今は
愛がなければ
たえられない



(1999年7月、同人誌用に書いたがページ数の都合でボツにしたもの)





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青城澄

2015-08-19 05:44:50 | 月夜の考古学・本館


 ゆくへなき


ゆくへなき この身いづこに あづけむと さすらひびとの 影を描く月

とほき日の 雪に凍える 炭の目の わらはの魂よ 古家に憩へ

ひとひらの てふを小箱に とぢこめて 君に寄すこの 謎解きたまへ

すでになき ものをたよりと 背もたれて くづれゆく身の ゆくへを知るか

梅が枝に とをとひとつの 小鳥ゐて ささやきこめる 星のことのは

乾ききる 砂をグラスに ついで飲む 鉛の肺に 降り積もる虚無

蒼穹に 星組みて野に 愛の散る 白百合は待つ 受胎のここち

背を向けて 風の岩戸に 去りゆかむ 追ふものもなし たそがれの星

きぐるみの おのれを踊る うつせみの 世は一幕の かげろふの歌

ゆふやみの しづかにおりて 石のごと 重き荷となる 立てずとも立て

高光る 日のしたたりの 胸に映え さいはひに似し 孤独の痛み




(2012年、歌集「玻璃の卵(はりのかひ)」より抜粋)






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする