MT MANIAX

苦難の時にこそ、われわれは隣人に対して寛大であらねばならない。そうしていれば世界はわれわれにとって寛大なものになるはず。

内田老師の文章に感動(福田政権の無為と女性的資本主義について)

2008年02月13日 | 日記
 内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』は、非常に楽しく読ませて頂いているブログです。こんな文章をタダで読めるなんて、ありがたい世の中です。そんな内田さんを、私は心の中で老師と呼んでいます。心の中での「老師」の発音は「レイラァ」です。なぜだろうか? 自分でも不思議なのですが、いつの間にかそんな気分になっていました。
 2008年2月12日の『内田樹の研究室』の記事は、非常に面白いものでした。「福田政権の無為と女性的資本主義について」という題名の記事です。原文を読んで頂きましたら分かるかと思います。そのすばらしい切り口に感動します。
 感動を忘れたくないので、エッセンス的にいくつかの文章を引用させて頂きたいと思ったのですが、思わず全文を引用したくなりましたが、何とか踏みとどまって、以下の文章を紹介させて頂きます。


(1) 福田康夫は安部晋三の「暴走」にブレーキをかけるという政治史的要請に応えて登場したわけである。だから、その責務が「政治過程の停滞・政策の非決定・拱手傍観」であるのは理の当然であり、その点で福田首相はたいへんよくその負託に応えてお仕事をされているのではないか

(2) メディアは「ねじれ国会」でさっぱり政策が物質化しないことに文句をつけているが、「ねじれ国会」というのはそういうものである。有権者の総意は安部内閣時代のあまりにばたばたと法案が成立し、このままでは改憲にまで突っ走りそうな情勢に不安を抱いて、参院選での自民党の歴史的大敗を選択したわけであるから、法案がさっぱり成立しないのは国民からの要請に応えて、「代議制が正しく機能している」ことと見るのがことの筋目であろう

(3) 大阪府知事選については、有権者の政治システムに対する無根拠な楽観(「誰がなっても、何とかなる」)と無根拠な悲観(「誰がなっても、どうにもならない」)のアマルガムが表出したものであり、その選択の根拠がいずれも「無根拠」という点で、評価することのむずかしい選択であると述べる

(4) 「変革が停止すること。現状がだらだらと続くこと」。おそらく有権者は無意識のうちにそれを望んでいる。

(5) 女性に「引きこもり」が少ないことはつとに指摘されているが、それはコンピュータのディスプレイ上のデジタルな数値変化を「現実的快感」に読み替えることが女性には困難とされていたからである。

(6) 享受型消費は今ほぼ完全に女性ジェンダー化している。バレーでも歌舞伎でも演劇でも映画でも温泉でも花見でも、どこに行っても、いるのは女の方々ばかりである。男たちはもうこのような享受型消費財に対する欲望をほとんど失ってしまったかのようである。


 私も上記に似た考えを持っています。小泉・安倍の反動が福田政権の誕生であるし、ねじれ国会を否定することは衆参の二院制を否定することと同じです。(4)については読み終えたのちに自分の心を探ってみて、同じような心境が潜んでいることに気がつきました。
 こんな気づきの文章を、ブログで広く提供してくださる内田老師(レイラァ)に感謝です。ちなみに「レイラァ(Lehrer)」とは先生、師匠、教える人という意味のドイツ語です。マンガ『キン肉マンII世』で知りました。