球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

線量の夏

2012-08-12 | マジメな話
本日福島に帰省。親は、今の避難生活と言うんだか言わないんだか
よくわからない生活にも慣れていた。半年たったなぁ、と思った。

わずかだが、家周辺にも線量がある。
少し離れた河原の草むらは線量が高いが、草・汚染土を廃棄/処理できる場所がないのでそのまま放っておかれている。
ここですらそうなのだから多くの地域が今も手付かずになっていると考えるのが道理。
というか、廃棄/処分する場所が決まらないことで作業が止まっているのだからしばらくは進みようもない。
ニュースでは毎日地域の線量が公表されている。

という感じだ。このあたりのニュースは、東京では濡らしたそばから蒸発する揮発油のように忘れられていったが、
依然現場では見えない脅威との闘いが続いていた。このギャップは大きい。

悲しいことだが、東京にいては現場のことはさっぱりわからない。
インターネットでは本当に必要なことを知るのはまだまだ困難であることの証のようにも感じている。
TVの偏向報道が酷いとか僕も一時期そう思っていたが、ネットの世界にあったのも99%は真実ではなくて
誰かの無責任な批判だった。または問題だけが記されていて、だからどうするのかを考えている人がいなかった。
そんな面倒事は誰しも背負いたくない、という暗黙の主張だけが理解できた。まぁそんなものだ。



昔より相当家が狭いので、別の部屋に逃げ込む作戦が取れず
ずっとTVを見ている親父の生活に合わせなくてはいけなかった。

バレー女子が銅メダルを勝ち取った。韓国相手に3セットストレート勝ちで、
結果だけ見ると楽勝っぽいのだが中継を見ている分には緊張感もあり楽勝というほどではなかった。
それでも勝ちは勝ちで、感心した。一日TV見てばっかな我が家に感心できないが、試合は面白かった。

感心した、と書いた。よく"勇気をもらった"とかいうけど、僕の感覚では全然勇気は湧かない。
多分明日から何か新しいことができる気がしたりもしない。
ただ、あることに努力を重ね、それを競い、その結果が引き起こす悲喜こもごもは見ていて中々良いものとは思う。
でもそれ止まりで、明日にはすべてすっかり忘れているだろう。でも良いとは思う。
全然ほめてないような書き方だが、尊いこととして一定の敬意を払っているつもり。

トレーニングとは良く自分との闘いと言うが、個人的には
"こんなことをしていて良いのだろうか、無駄にはならないのだろうか"という焦り(迷い)に駆られつつ
その不安をはねのけて努力を続けるプロセスにその闘いがあると思う。というか勝率が低い。
子供の頃は色々な人が(主に勉強や部活に)その不安が消え去るようにお墨付きをしてくれたけど、
一人立ちすると、自分で自分に太鼓判押さなくてはいけないものね。
コメント
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