牛込日乘

日々の雜記と備忘録

六十二回目の廣島原爆忌

2007-08-06 23:55:41 | Weblog
 讀賣夕刊によると、全国の被爆者は三月末現在で二五万一八三四人、平均年齢は七四・六歳、この一年で亡くなったり死亡が確認されたりしたのは五二二一人との由。

 私は身内に広島あるいは長崎の人間が全くいないので、原爆に関する知識は基本的にはメディアを通じて知ったものである(高校の修学旅行で「語り部」の話を聞いたり、仕事で少し取材をしたりしたことがあるにはあるが)。遠く離れていると、被爆地の人々はすべて原爆に対する怒りを表明しており、特に実際に被爆した人はその残酷さを後世に伝えるために経験を進んで語っているかのような印象を受ける。しかし、どうもそれは間違いのようなのだ。

 先日酒席をともにしたある女性(二十代後半)は広島市内の船入町という爆心地に近いところの出身で、親戚にも被爆者が何人かおられる。数年前に亡くなったお祖母さんは戦争当時看護婦をしており、原爆投下直後から救護活動にあたったという経験を持っていた。しかし、詳しいことは孫にも決して語らず、被爆のことも基本的には隠してきた。というのも、被爆者に対する差別は想像を絶するもので、自分の身内が受けた理不尽な扱いに対していつも心を痛めていたから。そして、このお祖母さんのような考え方、生き方をしてきた(している)被爆者は、実はかなりいるというのである。ということや在外被爆者、さらに被爆者認定基準の曖昧さなどを考えると、冒頭の被爆者数というのも実際はもっと多いのだろう。

 全十巻におよぶ『はだしのゲン』でも、実はその七割以上が原爆投下後にもたらされた差別や病気、貧困などとの戦いの描写に費やされている。兵器としての核がもたらす被害は「熱線」「爆風」「放射線」の三つなのだが、それを生き延びた者が肉体的、経済的な打撃に加えてさらに精神的な苦痛に苛まれる。広島以後の世界に生きている人間として、この苦しみもまた決して忘れられてはならないと思う一方で、個人的な体験としては忘れたいと願う多くの人々が存在していることも理解できる。

 政治学者の故丸山眞男氏は広島で被爆しているが、「小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです」と語っている(中国新聞のウェブサイト)。これは知識人としての発言なのか、それとも一私人としての本音なのか。


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1 コメント

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日本史に詳しいA氏です (かにたま)
2007-08-09 18:16:48
当時は、寺は兵舎の代わりとしても使われていたので、信長が本能寺を利用していたことは不思議ではありません。
そもそも、この時期は近くに敵はいない状況だったので、丸腰でも問題はなかったはず。

また、石垣は、そもそも寺で発達したもので、当時の城では土塁が一般的だった(だから、「城」という文字が使われた)。それこそ信長がつくった安土城が本格的に石垣を使用した最初の城です。したがって、寺のまわりに石垣(や堀)があったりしたとしても、ニュース性はそんなにないように思う。

・・・と、弊社社長がコメントしてました。ハハ。

PS
二条城は当時無かったよ!
↑これも社長の請売り(笑)
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